赤月さん、感覚を覚る。
静けさがその場に漂う中、後ろに座っている大上君から短い息が吐き出されました。
「……それじゃあ、触れるよ?」
「……は、はい」
私は思わず、ぎゅっと両目を瞑り、身体を強張らせてしまいます。恐怖を抱いているわけではありません。ただ、大上君からの首筋への口付けは慣れていないだけです。
じっと待っていれば、腫れたものに触れるような優しさで、大上君の柔らかい唇がうなじ辺りに落とされました。
「ん……っ……」
ぞくり、と何かを感じ取ってしまった私は一瞬だけ震えてしまいます。
ですが、大上君の唇が私の首筋を沿うようにゆっくりと動かされ、ぞくりと感じていたものはやがて別の心地へと変換されていく気がしました。
何でしょうか、この気持ちは。恐怖などではありません。
恥ずかしいのに、それでも心地よさのようなものを同時に感じてしまうなんて、私はおかしくなってしまったのでしょうか。
「お……かみ、くんっ……」
ただの練習をしているはずなのに、何だかいけないことをしているような気がし始めて、私は喘ぐように大上君の名前を呼びます。
練習を終わりにしてもらわなければ、これ以上は何か違う感覚が始まってしまうと覚ったからです。
「……もう、唇で触れても大丈夫そうだね」
大上君から低い声で返事が返ってきましたが、その声は身体の奥に響くような声色で、何故か艶めかしく感じてしまいました。
「それは……大上君が、手伝って下さったので……」
「ううん、それだけじゃないよ。赤月さんが自分の意思でトラウマを克服したいって決めたからだよ。君の勇気はちゃんと、実現に向かって進んでいるよ」
「そう、ですか……」
練習は終わったのでしょう。
ですが大上君は私を離そうとはしません。
ぎゅっと抱きしめたまま、首筋に優しく触れるように大上君の唇や鼻先を静かに押し当ててきます。
その行為が私にとって何だかもどかしく感じられたのは何故でしょうか。私は、大上君に何を求めているのでしょう。
ふいにそう思ってしまい、私は自覚してしまったことを忘れ去るためにわざと目を瞑りました。
「……赤月さんを食べたいな」
「ふぁっ、い……!?」
ぼそりと呟かれた言葉に私は大きく反応を返してしまいます。
「本当はずっと我慢しているんだけれどね。君を貪るように激しく食べてしまいたくなる時があるんだ。首筋を見ていると、がぶりと歯を立てたくなる。わざと、『俺のもの』だって印を刻みたくなるんだよ」
「……」
「大丈夫、赤月さんの許可なく、そんなことはしないよ。……ただ、俺の中にはどうしようもない程に大きな独占欲があって、時折、身体の奥底から沸き立ちそうになってしまうんだ」
「大上君……」
何かに耐えるように大上君は更に、私を抱きしめる腕に力を入れます。もしかすると、こうやって密着しては抱きしめることで抱いているものを別物に変換して、発散しているのでしょうか。
「君は本当の俺がどういう人間なのか知らないから、優しく俺に笑いかけてくれるんだって分かっている。……大上伊織はとてつもなく狡猾で、独占欲が強くて、そして臆病な、狼なんだよ」
「……今の大上君は……私のすぐ傍にいる大上君は……本物ではない、ということですか?」
「まぁ、簡単に言えばそうなるね。……良く言うだろう、羊の皮を被った狼だって。俺は君に近づいて、触れて、そして食べるためならば、どんなことでもしてしまう狡い狼なのかもしれない。それでも赤月さんはいつだって、俺に優しく接してくれるから……気が削がれて食べ損ねているだけかもしれないよ。だからもっと、ちゃんと身の周りには注意してね?」
「……」
まるで自分を警戒しろと言っているような言葉でした。それなのに、どうして大上君は私に縋るように、優しい手付きで抱きしめてくれるのでしょうか。
食べたいものが目の前にあるならば、それを迷いなく食べるのが狼の本能というものではないでしょうか。
……いえ、違います。きっと、大上君は恐れているのです。先程、自分は臆病だと言っていたように、大上君はきっと──私に嫌われることを恐れているのでしょう。
だからこそ、どんなに自分の本能を抑えるのが辛くても、私に嫌われないために必死に我慢しているのです。