赤月さん、おやすみの挨拶をされる。
電車に乗って、家の最寄り駅で降りてから、大上君は私を家へと送るために隣を歩いてくれました。街灯は等間隔で立っているのですが、やはり夜道なので気を張って歩かねばなりません。
ですが、今日は大上君が隣に居るのでいつもよりも安心して歩くことが出来ました。
時間は夜の八時を過ぎた頃でしょうか。私は住宅地のアパートに住んでいるのですが、この時間帯だとすれ違う人はすっかり減ってしまいますね。
そんな夜道を大上君と手を繋いで、私は歩きます。
「……うぅ、もうすぐ赤月さんの家に着いてしまう。まだ帰りたくない……」
「もう……。大上君、その台詞は何回目ですか。それに明後日は大学の講義で会うでしょうに」
「だって、今日はずっと一緒に居たから、家に帰れば一人になった分、寂しさが込み上げてきそうだもん……」
「それは、まぁ……」
大上君が心から思っていることに同意してしまいそうになり、私は口を噤みました。
何だか、まだまだ一緒に時間を過ごしたいと私自身が思っているように感じられて、気恥ずかしさが込み上げてきたからです。
気付けば、私が部屋を借りているアパートが見えてきました。
「大上君、もうここまででいいですよ」
「……うん」
アパートに入る玄関口のところで、私達は立ち止まります。私の部屋は二階の角部屋なので、あとは階段を上るだけです。
「……赤月さん、今日はありがとう。最高の一日だったよ。明日になった瞬間に今日の朝に戻ればいいのになって思うくらいに最高だった」
「うん? 何を言っているのかよく分かりませんが、私も大上君と過ごせて楽しかったです。今日はありがとうございました」
「うぅ……帰りたくない……」
「もう……」
いまだに駄々をこねている大上君が可愛らしく思えて、私は小さく苦笑します。
「大上君、たまに子どもっぽいところがありますよね」
「……赤月さんの前だと気が緩んじゃうんだよね。……もしかして、無意識に甘えているのかもしれない」
そういえば、よく私に「お願い」をしてきますね。あれは甘えているうちに入っていたのでしょうか。
「……赤月さん。帰る前に最後にもう一つだけ甘えてもいい?」
「え? 何でしょうか」
「えっと……」
大上君は素早く周囲を見渡します。夜の住宅地なので、周囲に人気はありませんが、念のために確認しているといった様子でしょう。
確認し終えてから、大上君は一歩、私へと近づいてきました。何をする気なのでしょうか。
そう思っている間に、私の視界は少しだけ陰ります。
「おやすみ、赤月さん」
一言、大上君はそのように告げて、私の額に軽く口付けを落としてきたのです。
小さな音がその場に響き、私は突然、額に感じた柔らかさによって、固まっていました。
「なっ、に、を……っ」
何とか絞り出すように零した声に対して、大上君はにこりと笑い返してきます。
先程まで帰りたくないと駄々をこねていた様子は一瞬で消え去り、そこには満足したと言わんばかりの表情が浮かんでいました。
「何って、おやすみの挨拶だよ? さぁ、赤月さん! 赤月さんも俺の頬か額におやすみの挨拶を……」
「しませんっ! もうっ! ……おやすみなさい!」
私は大上君に背を向けてから、アパートの階段に向かって走ります。
「おやすみ、赤月さん。また月曜日に」
背後からは少しだけ苦笑交じりの声が聞こえてきましたが、私は背を向けたままアパートの階段を駆け上がりました。
顔だけでなく、身体中が火照って仕方がなかったからです。振り返って、大上君の顔を再び見てしまえば、更に身体の熱は上がることでしょう。
階段を静かに駆け上がり、足音を立てないように廊下を走ってから、自分の部屋へと辿り着きます。
鞄から部屋の鍵を取り出し、そして部屋の鍵を開けてから、滑り込むように入り、扉の鍵を閉めました。
「……もう……っ」
私はずるずるとその場に座り込み、そして自分の額に手を当てます。口付けを落とされた時の熱は残っていないはずなのに、あの瞬間の感覚がまだ抜けないのです。
「挨拶感覚で、出来るわけがないじゃないですか……っ」
一人でそう呟いても、室内に響くだけで返事は返ってきません。
初めてのデートでしたが、最後まで大上君には動揺させられっぱなしでした。
果たして、月曜日には平静を装って、普段通りに会話することが出来るでしょうか。そんなことを考えつつ、部屋の玄関先で私は暫くの間、うずくまっていました。