それは、突然始まった。
プロローグ
夫が退職する。
大学卒業以来勤めてきた会社を辞めるのはどんな気持ちなのだろう。
勤め上げた達成感、安心感、それとも重役になれなかった悔しさ、あきらめ、いずれにしても永年の会社員生活は一区切り、妻としてはご苦労様というところだろう。
先月、夫から告げられた退職金の額は私の予想をはるかに超える多額であった。何だか夫を見直した。
3月31日、夫が花束や記念品を抱えてほろ酔いで帰ってきた。
それらをテーブルの上に並べて、退職辞令と退職金の明細を出した。
退職金の明細はA4サイズの用紙にワープロで数字が印字された簡素なもの、押印もない。
それぞれの会社の様式があるといわれても、何だか簡素すぎる。
その小さな疑問からこの話は始まった。
発覚
「ねぇ、退職金て給与と同じように銀行振込なの」と夫に聞いてみた。
「違うよ、小切手でもらって、現金化するのに2~3日かかるらしい。でも、もう手続きしてきたから、すぐに入金されると思うよ。」
我が家の経済は私がやりくりし、夫は小遣いをもらうだけだった。もともと金銭的なことには疎い人なので、会社の経理に任せているのだろうと、その日はそれだけのやり取りで終わった。
2日後に夫の言ったとおり、8桁の、今まで我が家の通帳には記帳されたことのない金額が入金された。金額もほぼ、夫から聞いていた通りだった。
すこし回復の兆しが見えてきたとはいえ、この不景気な時代にこれだけの退職金をいただけること、夫の会社にも、永年の夫の働きにも今更ながら感謝の気持ちがわいてきた。
素直に「ありがたい」と思った。
これだけまとまったお金があって、夫はこれからも給与は半額以下であっても再雇用が決まっている。
健康でいてくれさえすれば何の問題もない、と思っていた。
夫は投資や利殖には縁のない人ではあるが、同僚から信託銀行の“退職者優遇金利”の話を聞いてきて、私に伝えた。
私はまず、完済まで4年残っている住宅ローンの一括返済を第一に手続きを進めた。夫は自分の退職金であるのに、私の言うなりで何の異議も唱えなかった。
ただ、退職前から「退職後はいろいろと付き合いもあるし、今までのようにボーナスからまとまって小遣いをもらうこともなくなるから、100万円くれないか」と言っていた。
大金ではあるが、そのくらいの要求は当然だろうと、私も承知していた。
銀行への住宅ローンの残りを支払って、残ったお金を信託銀行の定期預金に預けることにした。
例によって、大手メガバンク系の信託銀行の資料を取り寄せて、比較するのは私の役目だった。この低金利の時代に信託と組み合わせることが条件とはいえ、4%の金利がついている。確かに、考えられないほど有利な金融商品であった。
手続きに必要なものの中に、退職したことを証明するものが求められていた。
話が戻るが、私が夫の退職金の簡素な明細に違和感を持ったのは、退職時には“退職金の源泉徴収票”があるのではないかと思ったからであった。
通常、源泉徴収票は年末に会社から渡されるが、退職時には、退職時点で渡される。会社の人事総務の社員が離職票と共に、口にするのを何度か聞いたことがあった、
なぜ、それがないのだろう、退職源泉徴収は信託銀行の手続きの際、必要なのに。
小さな疑問が私の中で生まれた。
夫が会社から渡された、書類の中に紛れているのではないだろうか、きっといろいろな書類を渡されて、うっかりしているのだと思った。
そのときは、本当にそう思っていた。
悪いかなとは思ったが、夫の退職の書類の束を見てみた。
案の定、退職金源泉徴収票はあった。
しかし、そこに記載されている額は夫が“小切手を現金化した”と言っていた額と150万円の開きがあった。
夫は退職金の額を私に誤魔化していたのだ。要求通り、100万円渡したのに。
そして、同時にカラフルな封筒が出てきた。宛名には私の知らない男性の名前と住所が記載されていた。GWに開催される女性アーティストのコンサートチケットだった。
中身を見ると、2枚入っていた。
私を誘うつもりで、チケットを用意してくれていたんだと、とっさに思った。
でも、すぐ自分の考えを否定した。結婚して30年、夫が自分でコンサートチケットを購入したことがあっただろうか。
第一、夫の口からコンサートの誘いなんてない。
退職金額の誤魔化し、他人宛てに郵送された2枚のコンサートチケット、明らかに代行でチケットを入手してもらったのだ。
恐る恐る、夫の携帯電話を見た。
夫は昔から携帯電話にパスワードをかけていなかった。もともと機械にも疎く、パスワードの設定が分からなかたのかもしれない。
私も、夫の携帯を見るということはなかった。夫婦としてプライバシーの尊重なんて崇高なものではなく、夫の携帯なやりとりなんて、私の意識の中に存在していなかった。
夫の携帯の中に驚くべき世界が広がっていた。
同じ女性の名前がずらっと並んでいた。
私の知らない、夫の姿がその携帯の中にあった。




