サラリーマンα×カフェバイトΩ
その人が来るようになったのは、二か月ほど前だった。
仕事帰りらしいスーツ姿のアルファ。
背が高くて、姿勢がよくて、笑うと目もとがやわらかくなる。
いつも同じ時間に来て、コーヒーを一杯。
カップを受け取るときには、必ず低い声でありがとうと言う。
それだけで耳がくすぐったくなるのだから、たまらない。
「いつものでいいですか」
「……覚えててくれたんだ」
そう言って嬉しそうに笑うものだから、オメガは平静を装うのに必死だった。
そのうち、少しずつ話すようになった。
客の少ない時間に、ほんの二、三分。
今日は会議が長引いたとか、大学で何を勉強しているのかとか。
たったそれだけのことが、一日の楽しみになっていた。
ある日、休みを挟んだ翌日のこと。
「昨日は、いなかったね」
「休みでした」
「そっか」
一拍おいて、この人は少し困ったように笑った。
「一日、ちょっと長かったな」
心臓が、大きく音を立てた。
期待してしまいそうになって、慌てて自分を戒める。
相手は大人のアルファで、こちらはただの大学生バイトだ。
きっと誰にでも、ああいう言い方をする。
そう言い聞かせていた矢先の夜だった。
閉店十分前。
からんとドアベルが鳴って、いつもの人が入ってくる。
「すみません、ラストオーダー終わってて」
「今日は、コーヒーを飲みに来たんじゃないんだ」
「え?」
「君、もう上がりだよね」
カウンターに置かれた手が、落ち着かなげに指を組んだ。
「よかったら、これから飯でもどう。……二か月かけて、やっと言えた」
気づいたら、エプロンを外して隣を歩いていた。
歩幅を合わせてくれているのも、車道側を歩いてくれているのも、全部わかってしまう。
カウンター越しにしか知らなかった人が、手を伸ばせば届くところにいる。
浮かれきったまま店を出て、駅へ向かう途中。
「俺が毎日あの店に通ってた理由、わかる?」
「……コーヒーが、おいしいから?」
「惜しいな」
夜風のなかで、この人は立ち止まった。
「君が、いるから」
言葉が出なかった。
見上げた先で、いつも余裕たっぷりのはずの顔が、照れくさそうに緩んでいる。
「閉店前に君の顔を見るために働いてた。……我ながら、ずいぶん遠回りしたよ」
その日から、二人は店の外でも会うようになった。
そして何度目かのデートの帰り道。
「うち、寄っていく? いい豆があるんだ」
部屋に通されて、ソファで待つ。
台所から、豆を挽く音と香ばしい匂いが漂ってくる。
「……なんか、変な感じです。いつもは俺が出す側なので」
「じゃあ今日は、俺がもてなす番だな」
差し出されたカップは、しっかり温めてあった。
隣に腰を下ろされて、距離が一気に近くなる。
「おいしい?」
「……はい。すごく」
「よかった」
こちらを見る目が、やわらかい。
カップを取り上げられて、頬に手を添えられた瞬間には、もう目を閉じていた。
唇が重なる。
一度離れて、額を合わせたまま、この人は小さく笑った。
「二か月、我慢したんだ」
「……二か月も?」
「怖かったんだよ。君に嫌われたら、あの店に行けなくなる」
寝室のベッドに下ろされたときには、心臓が壊れそうになっていた。
上着を脱ぎ捨てる音がして、続けてネクタイが緩められる。
――この人がネクタイを外すところ、初めて見た。
カウンターの向こうでは、いつもきっちり結ばれていた。
乱れたところなんて、一度も見たことがない。
「……そんなに見られると、困るな」
「あ、すみません」
「いや。見ててくれていい」
覆いかぶさってきた指先が、頬に触れる。
かすかにコーヒーの香りがした。
さっき豆を挽いた手だ。
その匂いだけで二か月ぶんの記憶が押し寄せてきて、目の奥が熱くなる。
もう一度、唇が重なった。
さっきとはまるで違う。
角度を変えて何度も、深く。
息が続かなくなって胸を叩くと、ようやく離してもらえた。
「ごめん。加減がきかない」
その声が、掠れている。
見上げれば、いつも余裕のはずの目がまったく笑っていなかった。
前髪が下りて、額に汗が滲んでいる。
――こんな顔、するんだ。
誰よりも大人で、隙のなかった人が。
いま、自分ひとりのせいで崩れている。
その事実に、頭の芯がじんと痺れた。
シャツを引き抜かれ、素肌に手のひらが下りてくる。
触れ方は驚くほど慎重なのに、肩を押さえる力だけが強い。
逃がす気がないのだと、それだけで伝わってしまう。
「あ……っ」
「もっと聞かせて」
「む、無理です……っ」
抱きしめられて、肩口に顔を埋められる。
耳もとで名前を呼ばれた。
カフェで注文を受けるときの声とは、まるで別人の呼び方だった。
「……いい?」
答えるかわりに、その背へ腕を回す。
短く息を吸う音がして、抱きしめる腕にいっそう力がこもった。
ひとつになった瞬間、声が上がった。
痛みよりも、頭の芯を灼くような熱のほうが先に来る。
爪先がシーツを掻いて、視界がぼやけた。
「息、して」
「してます……っ」
「ふふ、もっとリラックスして」
低く笑う気配。
そのくせ、当の本人の呼吸もとうに乱れきっている。
汗が一滴、額から落ちてきた。
いつも一定の速度で歩いて、丁寧に礼を言って、乱れたところなんて見せなかった人が。
いま、自分ひとりのためにこんなに必死になっている。
「もっと」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。
「……あんまり煽らないでくれる」
覗き込まれて、噛みつくようなくちづけが落ちてきた。
さっきまでの慎重さは、もうどこにもない。
深く抱き込まれて、逃げ場も何もかも奪われて、オメガはただしがみつくことしかできなかった。
名前を呼ばれる。
何度も、何度も。
そのたびに指の先まで甘く痺れて、頭のなかが真っ白になっていく。
――ただ、ひとつだけ覚えている。
意識が途切れる直前、汗ばんだ髪を撫でながら、この人が言ったことだ。
「二か月分。毎日、我慢してたから」
そう言って、額にくちづけを落とされた。
翌朝。
先に目を覚ましたオメガは、布団のなかでひとり悶えていた。
――やばい。
昨日、俺、この人と……。
そっと隣を見れば、あのイケメンサラリーマンが普通に眠っている。
寝顔まで整っているのが理不尽だった。
前髪が下りていて、いつもより少しだけ幼く見える。
「……すご」
思わず呟いた瞬間。
「何が?」
「起きてたんですか!?」
笑いながら腕が伸びてきて、あっさり抱き込まれる。
「ずっと前から。君がひとりで百面相してるの、全部見てた」
「最悪です」
「可愛かったよ」
髪に頬を寄せられて、耳もとで言われる。
「朝飯食ってから、送ってくよ」
「……はい」
腕のなかで、オメガはにやける顔を必死に隠していた。
そして、次のバイトの日。
いつもの時間に、からんとドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
「いつもの、お願いできる?」
平静を装ってオーダーを通す。
なのに顔を見るだけで、あの夜のことが次々によみがえってきて困った。
カップを渡すとき、指先が触れる。
目が合う。
この人が、ほんの少しだけ笑った。
その瞬間、オメガの顔は一気に赤くなった。
「……仕事中に、そういう顔しないでください」
「何もしてないけど」
「してます!」
同じカフェ、同じ席、同じ客と店員。
ただ違うのは、閉店後に待ち合わせる相手になったこと。
「今日、何時上がり?」
「……九時です」
「じゃあ、待ってる」
その一言だけで、あと三時間の仕事が、ちっとも苦じゃなくなった。




