プロローグ:ジュネーブの本社とAGB PharmaTechの現在
スイス・ジュネーブ。レマン湖の静かな水面を望む湖畔地区に、巨大なガラスと金属で構築された美しくも圧巻の建造物がそびえ立っていた。
AGB PharmaTech本社。
2040年代の現在、地球温暖化による環境破壊と激甚化する気候変動はすでに人類の生存上限を刻一刻と押し広げ、世界的な危機が現実のものとなっていた。その臨界点が目前に迫る中、世界最大級の超多国籍複合企業として君臨するこの巨大企業の事業内容を、もはや「製薬会社」という一言だけで説明することは到底できない。 新薬、麻酔薬、神経作用薬、再生医療、人工臓器、高性能義肢、生命維持装置、神経インターフェースといった最先端医療分野はもちろんのこと、軍事用特殊装備や防衛システム、危険環境用装備の研究開発までを手がけている。
さらにその影響力は、人々の暮らしと社会のあらゆる根幹へと張り巡らされていた。 『AGB精神ファミリークリニック』による全世界的なメンタルケア展開、普通科高校から専門大学、そして『IALRT(国際総合新鋭救命救助部隊)』へ直結する専門養成機関までを自社で経営。教育アニメ『きらめきパルスくん』等を通じた幼少期からの科学・防災教育に至るまで、人々の意識に「未来への統合」を根付かせていた。 都市開発の領域においては、気候変動適応型のスマートシティや、地球温暖化・環境破壊の最終的解決策として世界機関と全面連携して主導する「月面都市開発および人類月面移住計画(Moon Emigration Project)」を運営。全事業でSDGs(持続可能な開発目標)達成率世界1位を誇り、環境災害の最前線へ医療班や『DIS Prototype』アンドロイドを投入するAGBは、まさに映画『ウォーリー』に登場する超巨大企業BNL(Buy n Large)のごとく、生まれた瞬間から死ぬまでの生活、教育、医療、都市インフラ、そして宇宙移住に至るまで人類の生そのものを単一の企業システムで包み込み、「絶滅から救う絶対的救世主」として世界中から疑いなく称えられていた。
だが、人々が歓喜とともに仰ぎ見るこの圧倒的な「表の顔」の陰で、国家をも上回る資金力とグローバル通信インフラを独占する最上層部だけが共有する、恐ろしい「裏の顔」が脈打っていることを知る者は誰もいない。
気候変動予測AIや医療ネットワーク、都市インフラを通じて収集される全世界人口のバイタルと遺伝子データ。災害や紛争の最前線で命がけの救助に挑むIALRT隊員たちが無自覚に提供する肉体・精神の極限データ。教育や医療を通じて静かに投与・浸透させられる神経調整因子――。
人命救助や環境保護という純粋な善意と熱意のもとで行われるすべての活動は、最上層部が描く狂気の全体像――「全人類ポストヒューマニティー計画」における、適合者のスクリーニングと強制変異のための壮大な実験データ(触媒)として緻密に組み込まれていたのだ。徹底された情報区画化により、現場で汗を流す熱き 救命のヒーローたち自身が、自らの純粋な信念ゆえに「無知の駒(Unwitting Pawn)」としてシステムに利用されているという残酷な構造のもとで。
しかし、この世界を支配する巨大な救世主が、最初から現在の姿で存在していたわけではない。かつて世界125か国に支社を置いた巨大IT企業「サイバーサイジング社」の崩壊、創業者アダソン夫妻の暗殺、そして暗黒の淵で闇に落ちたアダソン兄弟による国際諜報機関「AIIBSO」の再編と「AGB」研究部門の創設――。 その血塗られた歴史と、ジュネーブ本社の地下最深部で冷気のなか生命維持装置に抱かれ続ける絶対者マック・アダソンの存在へと、物語の歯車は静かに、しかし確実に回りはじめる。




