第17話
山から下りる俺の様子はさぞ滑稽であったことだろう。
歩く道には俺以外誰もなく、こんな有事だというのに山を一人散歩していられるなんて、なんて平和なんだ。これから俺は遠い道のりを歩いて、自分の家に戻る。そして、俺は日常の生活へ戻る。何もなかったことになる。アメとの出会いはちょっとした間違いだったのだと思えば済む話さ。俺は歩いている中で何度もそう自分に言い聞かせた。そうしなければ心が落ち着かなかった。
そして、十数分か、何十分か、歩いた辺りでようやく気がつく。自分のポケットに入っていた携帯デバイスの存在に。そんなことに気づかないほどに、俺の精神は疲労していたのである。
ゆっくりゆっくりとゾンビのように歩いている歩みを止め、立ち止まって、携帯デバイスを取り出すと電波を確認する。……入っているじゃないか。
これでタクシーなりなんなりを呼べばいい。とは思ったが、こんな非常時にタクシーが迎えに来てくれるだろうか? いや、それは難しいだろう。
考えた結果、俺は、頼れと言われた慎二へと電話をかける。迷惑をかけることは重々承知だったが、それ以上頭が回らなかったから仕方がない。数回のコール音の後、慎二は電話に出た。
「もしもし。ああ、慎二か? 無事だったか?」
「それはこっちのセリフだぞ!」
勢いよく慎二に突っ込まれ、まさにその通りだと頭を下げる。
「で、どうした。今どこだ? その身は無事か?」
俺は、慎二に全てを話そうと思ったが、とてもそんな気にはなれなかった。もう慎二も巻き込まれているといっても過言ではないかもしれないが、わざわざアメのことについて事の顛末を話すのは、まず、必要性がないと思ったし、さらに、俺自身の気力の問題もあった。故に、慎二に伝えたのは、今、福見市の外れにいるということと、どうにか迎えに来てくれないかということだった。
慎二は、若干、何かを問おうとしているようだったが、言葉を飲み込み、俺の申し出を受け入れてくれる。
俺はその道の脇に座り込み、慎二の到着を待った。
景色が流れる。徒歩でいる時とはまるで違う早さで。
助手席に乗ったのはいつぶりだろう。妙な安心感が俺の頭をつつみ、少しうとうとしていたが、このように呼び出して家まで届けてくれとお願いしておいて、俺は、慎二に何も伝えない訳にもいかない。
「──そうか、そういうことか」
慎二の車の中でほんの少しの安心と安堵に揺られながら、俺は、今までに起こったことを話した。大変だったなぁ、とまるで人ごとのように言ってくる慎二ではあったが、こうして大きな力になってくれていることからも分かるように、彼は彼なりに、俺に気を使ってくれているのだろう。
「幸いにも、俺のとこには何も起きてないからな。つっても、ああ、これで、大体、話がつながったな」
「どういうことだ?」
慎二は車を俺の店へ向けて走らせながら、少し申し訳なさそうに言う。
「あの動画が消された理由、だ」
そこまで言われて、俺も何となく慎二の言いたいことが分かってきた。それでも俺が黙っていると、慎二は俺の考えを整理するかのように続けた。
「あの動画が消された理由。それは、あの動画に映っていてはいけないものが映っていたからだ。──つっても、俺たちじゃそれが何なのかは分からない。とにかく、表に出続けることは良くないと思われた」
「……ああ」
「映っていてはいけないもの、それは、アメちゃん、だな」
「……そういうことだな」
「そして、北日本軍にとっては幸運なことに、それは映り込んでしまっていた、俺の動画にな」
そういうことだ、だから、
「そして、空土の家に現れたのが桧山であることからも明らかなように、桧山は買取依頼をすることによって、本当にアメがお前と一緒に行動しているのかを確認した──と」
そうであれば、話はつながる、全て、綺麗に。桧山という人間が、軍の人間であるとするならば、彼の住まいに彼一人しかいなかったことも説明がつく。
「買い取り品が一品であるからといって、空土は行かない訳にはいかないしな、あれだけ大きく募集をかけたんだからな。それに、桧山の行動は別になんら特別なことをしなくてもよかった。さっきの話を聞くに、その、なんだ、アメちゃんが、記憶を取り戻してる? かどうかを遠巻きに観察したいというのもあったのかもしれないな。自分から行くのと違って、家の中から見守って、危なそうなら出ない、それで済むしな」
「その辺は分からないけど……まぁ、今は、そのことは、そんなに重要じゃない、だろう」
今となっては、もう、何も重要じゃない。その事だけじゃない。何も重要なんかじゃないんだ。もう終わってしまったことなのだから、俺が何を気にしようと、桧山がどうだろうと、アメがどうだろうと、何も関係がないんだ、何も。
「そうかもな」
慎二はそう言うと黙った。俺にこれ以上言うことはないとでも言いたいのだろうか。かといって、俺だって何も言うことはない。
車の中には、車の走行音だけが流れる。街の中心に近い部分は、色々な事件が起きている真っ最中だということで通してもらえないので、街の外を走っていく。俺の家は、そんな街中にはないのでちょうどいい。
道路を走る乾いた音が車内に流れ、もう数分で俺の家に着く頃、慎二が口を開いた。
「終わってないけどな」
「何言って──」
慎二は、おもむろに、ダッシュボードに取り付けられているディスプレイ画面にニュース映像を映す。そこで話すアナウンサーは、こわばった表情で、今起きている事件の内容、その状況を話していた。
『───ております。北日本共和国政府は今回の事態について、今回の事態は北日本軍の行ったことではない、これはテロ行為である、と声明を発表しています。日本皇国政府は、北日本共和国に対して強い抗議を行うと同時に、軍の出動も計画しており、軍、警察、北日本軍という三つの組織が、国境沿いの占拠行為の鎮圧へ向かうとしています』
聞く限り──とんでもないことになっていることに変わりない。これのどこが、終わってないというのか、もう俺とアメの未来は終わったんだ。
『現在は、警察が占拠された施設を包囲している状態となっております。付近にお住みの市民の皆様におかれましては早急に非難をしていただくと共に、今後も、避難地域の発表は政府によって早い段階で行われますので、指示に従い、身の安全を確保して下さい。現在、避難指示が出されている地域は──』
「な、終わってないだろ」
それでもなお、慎二は、俺に終わってないという言葉を伝えてきた。終わってない、終わっていない、まだ、決着はついていない、アメと俺の間に。
そうだろうか。俺とアメの話はもう終わったのではないだろうか。さて、では、どこで終わったのだろう。今日、さっき、別れた時? アメの記憶が戻った時? 記憶が戻った時かと言われれば、それは違うだろう。だって、その後、俺とアメの間にまだまだ会話はあったのだから。では、さっき、別れた時だろうか。確かに、その時、俺は、俺の思いをぶつけた。アメに対して、全力をぶつけ、自分の思いを分かってもらおうとした。
じゃあ、アメは?
アメは、俺に対して、彼女の思いを教えてくれたか? いや、教えてもらっていない。俺は、アメの意志を聞いていない。これが、つまり、終わっていないということなのだろうか。
俺が考えているうちに、俺の家の前へと到着する。慎二の、着いたぞ、という声でようやくそのことに気がつき、例を言って、降りようとする俺に、慎二は一言声をかけた。
まぁ、とにかく、その内容というのは、俺に対する励ましだったとは思うのだが、この時の俺は、慎二の声をしっかり耳へと入れる余裕がないものを目にしてしまったが故に、その言葉が何だったのか、詳しくは覚えていない。
車を降りて、走り去る慎二の車。車の中からは、俺の店に何か異変があったとは分からなかっただろう。しかし、車を降りて、店へ足を踏み入れるよりも前に、俺は、俺向けられている視線に気がつく。
誰かいる。
店の鍵は閉めてきていない。ああ、それに、あの時、北日本の軍隊、桧山らがいたのだから、彼らがこの場所に残っていたのだとすれば、誰かいることには納得ができる。むしろ、誰もいない可能性の低かろう。
さて、どうやって対処すればいいだろうか。幸いにも、桧山のあの時の対応を見るに、北日本の軍人は俺を殺そうなどということは考えていなかったようだし……。
そんな身の危険の心配よりも、何よりも、俺は、店の中にいる誰かが、恐らく女性で、そして、その服装は軍服らしきものであるということに気がつく。ドア越しであるためはっきりは見えないが、彼女は座っている、椅子に。そう、アメがいつも座っていた、あの椅子に座っている。
「アメ……」
俺は思わずつぶやいてしまった。まだ店の扉を開ける前に、本当にアメであるかも確認しないうちに、そう希望を持った。だってそうだろう、ああ、確かにそうだ、だて、彼女はああは言っていたけど、きっと帰ってきてくれるに違いなかったんだ。きっと、市内を走っているうちに、自分の選択が間違っているということに気づいたのだ。それはある意味、俺があの場で無理矢理説得して説き伏せてつれてくるよりも良い結果かもしれない。何故なら、より、彼女自身の選択であるという重みが増すから。
であるからして、俺が扉を開けつつ胸に秘めていた思いは、希望であった。しかしながら、その希望はいとも簡単に崩れ去る。




