終章
光の柱が消える直前、真尋は消えかけた壁の中から本殿の地下へと姿を現し、そのまま力尽きたようにその場に倒れこんだ。
美守と司、トキが急いで駆け寄ると、その腕の中には、しっかりと雛姫が抱かれていた。
ふたりはすぐさま屋敷へ運ばれ、以後、3日3晩眠りつづけた。
島を襲った地震は、その規模に反してさほどの被害をもたらすことなく収束し、人々は数日のうちに復旧作業を終えて日常を取り戻していた。
――神の御渡りがあった。
山頂に出現した目映い聖龍と、その神獣が上空を舞った際に島全土を覆うように降り注がれた光の粒子を見て、島民たちはますます巫部家への忠誠と島の守り神である《御魂》への信仰心を厚くした。
奇蹟は、たしかに起こったに違いない。
本殿の地下、眼前に広がる巨大な一面の壁を見上げて志姫は思った。
数日前まで、くっきりと浮かび上がって壁を装飾していた赤い文字は、もはや跡形もなく消失していた。そして、崖下、奥深い地中で煮え滾っていたマグマも。
──真夕姫、これが、おまえの望んだ終焉……。
志姫は、目を閉じても克明に思い描くことのできる赤い碑文を頭の中でゆっくりとなぞり、口許に静謐な微笑を湛えた。
──おまえの血を受け継ぐ子らは、見事その役目を果たし遂せた。巫部当主として、しかとこの目で見届けた。いまははや、やすらかな眠りに就きや、真夕姫。わたくしもいずれ、そう遠くない未来に涅槃へ参ろう。
志姫は、やがて静かに目を開けた。
もう二度と、この地に足を踏み入れることもあるまい。
巫部家23代当主は、毅然とした面持ちで踵を返すと、以後、後ろを顧みることなく神の聖域を後にした。
山頂の神殿から、今日も白い煙が立ち上る。
物心ついたときから大人になったある時点まで、それは眼に馴染んだ、あたりまえの光景だった。
煙の途絶えた7年。
その時間の長さは、そのまま、次代の《御座所》が社を不在にした期間であり、自分が島に取り残されたことを思い知らされる期間でもあった。
背後に人の気配を感じて物思いを中断し、振り返ると、司が少し離れた場所に佇んでいた。
「見送りに行かなくて、よかったのかな」
相手のプライベート・ラインを侵すことを躊躇うように、司はそれ以上近づいてこようとはしない。
美守は司から視線を外すと、抱えた膝をもう一度両手で抱えなおして、山の頂へと顔を戻した。
「嘘くさい煙ね。金ぴかの龍が飛び去っていくのを、みんなその眼で見たじゃない。それでそのあと戻ってきたのをだれか見た? もう、この島に神は存在しないのに、まだああして神の不在を誤魔化すみたいに御焚き上げをしてるなんて、欺瞞もいいとこだわ」
「それでも、あの白い煙が立ち上るさまを見て、心慰められ、今日も頑張ろうと思える人たちがいる。信仰なんて、それで充分だろう? 病は気から。実際、あの光を浴びて、聖なる咆哮を耳にした島民たちの中には、長年患った神経痛や持病が治った、遠くなって不自由していた耳が正常に聞こえるようになった、なんて喜んでる者も結構いるようだよ。ついでに寿命が延びた、なんて噂もまことしやかにひろまっているらしい」
「バカくさいにもほどがあるわ」
辛辣な妹のひと言に、司は意味深な表情を浮かべて肩を竦めた。
「けど、本当のところ、信じていない僕らに効き目がないだけで、あの光や龍神の発した声には、御利益があったのかもしれないよ。なんせ、本当の神の威光だったんだから」
司の応えに、バカみたい、と美守はふたたび呟いた。
露天の岩風呂の中に流れ落ちる滝の音が、兄妹のあいだに流れる沈黙をより深いものにした。
「――また、この島から連れ出せって、騒ぎ立てると思った?」
沈黙の末、美守はふたたびポツリと呟いた。
小さく丸められたその背を見て、司は静かに社の湯殿に足を踏み入れ、湯煙が立ち籠める岩場の、美守が座りこむすぐ隣に並んで立った。
「一緒に、行きたいと願っていたのはたしかだと思う。でも、たぶん行かないだろうと思った」
司の答えを聞いて、美守は山のほうに目を向けたまま鼻哂を放った。だがそれは、兄に対してではなく、自身にこそ向けられたものであった。
「つくづく迷惑な話よね。外の世界に出ても、買い物のしかたひとつ知らない世間知らずのくせに、完全に他力本願で、お金さえあればどうにかしてもらえると思ってた。バカみたい。手に負えない子供だったわ」
「いまは?」
「相変わらず世間知らずのままよ。買い物だってロクにひとりでできないもの。でも、ちょっとだけマシになったことがある」
美守はそう言って、目顔で答えを促す司を正面から見返した。
「この島から連れ出してもらいたいなんて、思わなくなったことよ。他人をあてにして頼るんじゃなくて、自分の力でこの島を出ることにするわ。もちろん、ちゃんと生活力を身につけてから」
「次代当主の役目は?」
「あなたがいるでしょう、兄様。巫部家の嫡男じゃない。女が家督を継ぐ時代は、もう終わったの」
さも当然と言いたげなその口調に、司は思わず苦笑した。
「外の世界で、素敵なお嫁さん候補をたくさん見つけて連れてきてあげる。あたしは、真尋なんかよりずっとずっといい男を見つけてみせるわ」
「ウキとトキが寂しがるだろうね。ただでさえ、長年の《御座所》の世話役が御免になって気落ちしてる」
「すぐに復活するわよ。まだまだ元気が有り余ってるんだから。巫部家繁栄の一助となるのがあの人たちの生き甲斐。そのうちうーんとたくさん子供作ったら、嫡子以外みんな養子に出すなんて言わないで、この屋敷で全部まとめて面倒見てもらえばいいんだわ。双子が出やすい家系だから、あたしと司でそれぞれ頑張れば、あっというまにブリーダーになれるくらい子供が増えるわよ」
「ブリーダーって……」
とんでもないことをさらりと言って美守は笑う。そして、司の手を借りて立ち上がると、すっきりとした表情で頭上に広がる空を見上げた。
眩しい夏空の蒼の中で、上空を舞う海鳥の翼が白く反射して、ふたりの網膜に淡い像を残して消えた。
島が、遠ざかっていく。
あんなに大きくて目立つ石碑も、いまはもう、形すら判別できなくなっていた。
ずっと家に帰りたいと願ってきたはずなのに、こうして連絡船に乗って島の全景を遠目に眺めていると、あの中で自分に降りかかった出来事が、みんな現実のことではなかったように思えた。
ほんの1週間、否、力を使い果たして昏睡していた3日間を除けばたった4日の出来事。
あんなに泣いて苦しんで、怖い思いをして、悲しんで、そして、あんなに怒って全力でぶつかって。
地下での出来事の前と後で、なにかが変わったかと訊かれれば、変わったことなどなにひとつなかった。
3日3晩の昏睡から目覚めてみれば、雛姫の中にも真尋にも、神の力はほんのひと欠片も残らず、きれいさっぱり消えていた。互いが互いの力を打ち消して、人としての生を真に望んだ結果だった。
もっとも、自分に不思議な力が備わっていたという自覚は雛姫には微塵もない。
兄のように自在に風を操れたわけでもなければ、アニメや漫画のヒロインのように、空を翔たり、時空を跳び越えたり、人の心を読むことができたわけでもない。
思い出しただけでも、ただ運動神経の切れたカタツムリのように大汗をかいて広い庭をヨタヨタと走りまわり、上腕筋の弱ったナマケモノのように崖っぷちでぶら下がっていただけだった。
──あたしって、なんのためにあそこにいたんだろう……。
思い返すとひたすら情けなくなるが、それでも屋敷の客間で目覚めたとき、横に眠る兄の姿を見て、言葉に言い尽くせないほどの安堵と幸福感を味わった。
崖から落ちてから先のことは、正直、あまり詳しく憶えていない。《御座所》の役目も、きちんと果たせたという自信はなかった。それでも島は平穏を取り戻し、自分も真尋も生き延びることができた。
兄と一緒に、これからも生きていくことができる。
ただそれだけで、充分なのではないかと思った。
波子と黒風は、いまごろどうしているだろう。
小型船の後部座席の窓枠に両腕を置いて頭を載せ、遠ざかる景色を眺めながら、雛姫は小さく息をついた。横に座っていた真尋が、その吐息を聞きつけて心配そうに顧みた。
「どうした、具合でも悪いか?」
「あ、うううん。大丈夫、なんともない」
真っ先に自分の躰を案じる兄を振り返って、雛姫はかぶりを振った。
「ヒロ兄、島が、もうあんなに小さいよ」
雛姫の示す指先をたどって、真尋もわずかに躰の向きを変える。そして、短い沈黙の後にふたたび口を開いた。
「雛、おまえの出生のことだが──」
「ヒロ兄」
真尋の言葉を遮って、雛姫はもう一度兄に視線を向けた。
「雛は、ヒロ兄の妹だよね?」
「ああ」
「雛はヒロ兄の妹で、ヒロ兄は雛のこの世でたった独りの大切なお兄ちゃん。大切で、大好きで、かけがえのない家族。それで、充分だよ」
「雛……」
真尋を見て、雛姫は笑った。
兄が受け継いだ『真の名』がどんな名前だったのか、そんなことは、この先もずっと知らなくていい。
自分が自分以外の何者でもないように、真尋は真尋、雛姫の兄なのだから。
そのふたりのあいだを、優しい風が吹き抜ける。
「あ……」
たしかに知っているその気配に、雛姫は声をあげて風が吹き去った方角に視線を向けた。
碧い海の上で、太陽の光を受けて、さざ波が陽気にはしゃぐように無数に煌めいていた。
蒼い空と紺碧の海がぶつかる場所で浮かぶのは、小さな小さな島───
其は光
其は神
尊き御魂の棲まわしむ
此方は幽明混ざりし……異境なり─────
~ 了 ~
最後までおつき合いいただきましてありがとうございました。
少しでも心に残るものを持ち帰っていただけましたなら幸いです。




