(三)
いつしか雛姫は、壁の内側にいた。
猛り狂う《荒ぶる神》。その凄まじいエネルギーをも圧倒的に凌駕して翻弄し、地中奥深くから天空へとマグマを巻き上げてゆく風の神の力。
《御座所》の存在に気づいた《御魂》が激しく反応し、己の中に取りこもうと雛姫めがけて襲いかからんとする。
灼熱の溶岩を黒風が弾き飛ばし、真尋の力が瞬く間にそれを無へと昇華する。
額が、熱い……。
──ヒロ兄──ヒロ兄、雛、迎えにきたよ。一緒におうちに帰ろう。
計り知れない神の力が造り上げた風の御柱。
巻き起こる飆風は天を衝く勢いでマグマを吸い上げ、赤い柱──獰猛な炎の龍を形成した。その火龍の中心で、雛姫を中心にマグマが急速に色をなくし、熱を失ってゆく。
雛姫を守るため、真尋は力を集中させてエネルギーを変換し、昇華していった。
──ヒロ兄、お願い。全部独りで背負わないで。雛にも手伝わせて。
祈りにも似た想いが、雛姫の全身に力を漲らせてゆく。
──雛にはヒロ兄が必要なの。そばにいて。雛を置いて、どこへも行かないで……!
夢中で伸ばした手を、しっかりと掴み、握り返す手があった。刹那、欠けたピースが収まるべき場所へぴたりと嵌ったような、不思議な充足感が雛姫を満たした。同時に、とてつもないエネルギーが、奔流となって雛姫の中へ流れこむ。
全身の血が瞬時に沸騰して気化し、躰の細胞すべてが原子単位でバラバラに分解されて吹き飛ばされるような、苦痛、などという言葉では足りない衝撃が雛姫を襲う。
──ヒロ兄……ヒロ兄……。
兄を求めて繋いだ手を強く握ると、雛姫の躰は引き寄せられて広い胸の中にしっかり抱きしめられた。
『徒人の身に、神の力は重すぎる───』
兄は、こんなにも凄まじい力を己の中で制して、たった独りで闘っていたのだ。命に代えても、自分を守りとおすためだけに。
──ヒロ兄……、雛も一緒に頑張るから、だからふたりで受け止めよう。ヒロ兄の力、雛にも半分わけて……。
真尋の力を吸収して、雛姫の躰はいまにもバラバラになりそうな気がした。
額の熱は灼熱の痛みに変わり、全身を駆けめぐって躰の中心に向かっていく。
保とうとする意識は、雛姫の意思に反して次第に薄れていった。それでもなお、最後の気力を掻き集めて、少女は自分がいま留まるべき世界に懸命にしがみつこうとした。
【雛姫、恐れないで。あなたは独りじゃない……】
──知ってる。あたしは独りじゃない。あたしはこんなにも愛されてる。あたしは、こんなにも………。
【拒むのではなく、否定するのでもなく、ただ受け容れなさい。真尋があなたにそうしたように──】
──ヒロ兄が、あたしを、受け容れた、ように……………。
思うと同時に雛姫の肉体は限界を超えた。
あらゆるものが臨界点を超えた少女の中で、その瞬間、なにかが目醒めた。
体内──否、胎内に生じた《それ》は、瞬く間に拡がり、成長し、有限から無限へと変化を遂げる。怖いほどに果てしなく、無限に広がる──宇宙──────
《御魂》の歓喜が周囲を取り巻くすべてから伝わってくる。
それは、ずっとずっと《彼ら》が探し求めていたもの。
──ああ、そうか。やっとわかった。
雛姫は、穏やかに凪いでいく心の深い部分で理解した。
母を失った悲しみ。
父の生命を奪った苦しみ。
両親から注がれるはずだった無償の愛に飢えた孤独な魂の慟哭。
──あなたたちは、ずっと還りたかったんだね。
呟いた途端に、泣きたくなるような愛しさがこみあげてきた。
そうか。だから《御座所》の覚醒は、『母』になるための準備が出来ていなければならなかったんだ。
《彼ら》はずっとずっと願い、待ち侘びていた。ただ、それだけだった。
己を取り巻く獰猛な爆風のうねりと鼓膜を破るような咆哮は、いつしか静穏に変わっていた。
苦痛だったエネルギーの流入が、ゆるやかに、やすらかに雛姫の胎内で受け止められ、満たし、そして真尋の中へ戻ってゆく。
御堂と巫部。
ふたつの血が混じり合ったことでようやく融合した《父》の名――《もうひとりの自分》との力のやりとり。そこに、たしかに自分に向けられた、無償の愛が息づいていた。
兄と、そしてもうひとり――
──《風音》、《風花》、あたしの中へ、おかえりなさい………。
【雛姫、愛してるわ……これからも、永遠に………】
──おかあ…、さん───……………!
地中から山頂、そして天に向かって伸びた紅蓮の火柱は、内側からやわらかな淡い光を発して逆巻く風の壁を溶かすと、内から巨大な黄金の龍を現出させた。
清浄なる耀きをその身に纏った聖なる獣は、優美な肢体をくねらせ、天へと舞い上がる。そして、名残を惜しむように島の上空を一度だけ旋回し、一声、神秘の咆吼を放つと天空へと還っていった。




