(三)
具合が悪い。
島に来て3日目の朝、雛姫はそう言ってひとり寝所に籠もった。
昨日のオレンジ・カルピスが引き金となって、溜まりに溜まっていたものが一気に爆発した結果だった。
真尋は間違いなくこの屋敷のどこかにいる。
昨夜見た、夢とも幻覚ともつかぬ光景が、雛姫にそう確信させた。
四方をコンクリに囲われた冷たい床の上で、真尋は躰中あちこちに痣や裂傷を負って倒れ臥していた。
夢にしてはリアルすぎるその状景を、雛姫は不思議と抵抗なく真実と受け容れた。
言葉としてなにか聞こえたわけではない。だが、その状景を見せた得体の知れないなにかの、思念のようなものをたしかに受け取った気がした。
真尋を案じる、純粋なる想い。
兄が置かれている過酷な現状に、雛姫は打ちのめされた。
自分にいったいなにができるだろう。
自分がなんとかしなければ。
ふたつの思いが、焦燥となって小さな胸に交互に打ち寄せる。その一方で、真尋を手酷く扱った巫部一族への嫌悪と怒りも着実に育っていった。
食事も摂らずに部屋に閉じ籠もる雛姫を案じて、波子がたびたび部屋の外から声をかけてくる。だが、雛姫はひとりにして欲しいとだけ答えて直接顔を合わせることを避けた。
だれとも会いたくない。真尋以外は。
処理しきれない負の感情を大量に抱えこんで鬱ぎこむうち、雛姫は本当に頭の芯のあたりに重い痛みを感じるようになり、そのうち布団から起きられなくなってしまった。
激しい頭の痛みと、滾る溶岩のようなものが躰の核の部分からいまにも溢れ出してきそうな不快な感覚が押し寄せてくる。
おでこが、やけに熱い……。
自分の中で、なにかとてつもない変化が起こっているような気がして雛姫は慄然とした。
『大丈夫。ずっと傍にいるから』
数日前、寝込んだ自分の額に優しく触れた大きな手の感触を思って、涙が溢れた。
苦しい。躰も、心も、ものすごく……。
だが、真尋はもっともっと苦しいに違いない。自分のせいで、酷い目に遭わされてしまったのだから。
苦しむ雛姫を労るように、《気配》が雛姫をそっと包んでいるのがわかる。【これ】はいったいなんだろう。自分以外にいるはずのない部屋の中に、たしかに感じるもうひとつの気配。自分に【夢】を見せ、真尋を案じ、なにごとかをさせようと急き立てる《なにか》。
それは、雛姫のこれまでの『日常』を壊す存在として、ひどく疎ましく、煩わしいものに思えた。
――やめて。そばに寄らないで。あたしのことは放っておいて。
雛姫はしつこい気配を振り払おうとする。戸惑いながら、それでもそばにまとわりついていた《それ》が、不意にざわりと動いたかと思うと、突然気配を消した。
「姫様、失礼いたします」
襖越しに声がかかって、雛姫はハッとした。淡然とした嗄れ声は、波子ではなくトキのものだった。
「ご気分が優れぬとのことで、心配されたお屋形様がお見舞いも兼ねてお渡りでございます」
言い終えると同時に、返答も待たず襖が開かれた。
視線を向けたその先で、襖向こうのトキが額ずく。その奥から、かすかな衣擦れとともにひとりの人物が姿を現した。
悠然とした足運びで寝所に入ってきたその人物は、雛姫の枕元までくると、いつのまにやら入室していたいまひとりの老婆、ウキが用意した座布団に無駄のない所作で着座した。
驚いた雛姫が身を起こそうとするのを、突然の訪問者は軽く手を挙げて制した。
「そのままで」
平淡な口調と同様に、自分を見つめる表情にも変化はない。漂う威風に、雛姫はただ圧倒され、言葉もなく相手を見返した。
「ひさかたぶり、と言うても、憶えておらぬであろうな。わたくしが巫部志姫。そなたの祖母の姉じゃ」
志姫は、感動とは無縁の表情で自己紹介をし、冷然と雛姫を見やった。
あたたかみも優しさも感じられないその眼差しにたじろぎながら、それでも雛姫は、たったいままで自分が抱いていた真尋に対する仕打ちへの憤りをバネに、巫部家当主と対峙した。
「体調が優れぬとか。あとで侍医を寄越そう」
「いえ。いいです」
志姫から目を逸らさずに、雛姫はきっぱりと拒絶した。
「もう、なんともないですから」
言霊の効果か、怒りが感傷にまさったためか、応えた雛姫の躰からは、先程までの苦痛が、額の熱とともに、実際嘘のように消え去っていた。
気後れするどころか、自分への敵愾心を隠そうともしない。
幼い少女の精一杯の反撥を、志姫は軽くいなしながらも窃笑した。
「なにか、不自由はないかえ? 希望があれば、遠慮のう申すがよい」
「ここから出してください。決まりだからっていって、離れの建物から一歩も外へ出してもらえません。そんなの、不自由だらけに決まってます」
半身を起こして憤然と不満を言い立てる少女に、志姫は今度こそ目笑を浮かべた。
「庭の散策くらいならよろしかろう。じゃが、屋敷の外へ出ることはまかりならぬ。外へ出たとて、小さな離島のこと。すぐさま島民の目に触れて大ごとになろうし、ましてや島の外へは到底ゆけぬ」
「ヒロ兄に、会わせてください」
「それもいまは許可できぬ」
「どうしてですか? みんなでヒロ兄に酷いことをしたから?」
「……だれかから、なにか聞いたかえ?」
「べつにだれからもなにも聞いてません。訊いても教えてくれないから」
開きなおって昂然と挑んでくる少女を、志姫は興味深げに観察した。チラリと後背を見やると、戸口付近に控えたウキがトキとともに慴伏する。雛姫は、自力で真尋の状況を掴んだようだった。
「真尋には、まだ確認せねばならぬことがある」
志姫は、雛姫に向きなおって言った。
「それが済むまで、真尋を解放することはできぬ」
「じゃあ、それが済んだら?」
「すぐにもこちらへ寄越そう」
嘘だ、と雛姫は直感した。
志姫は、子供相手と侮って、平然とした顔でこの場かぎりの口約束をしている。
もう、なにを言っても無駄なのだと雛姫は覚った。
血の繋がりがあるといわれても、他人よりなお遠く隔たった人々の中で、味方が見つかるはずもない。まして真尋にとってこの島は、すべてが敵に等しかったに違いない。
真尋を語る人々の悪意に満ちた表情を思い返して、雛姫は重苦しさをおぼえた。
それでも真尋は戻ってきたのだ。おそらくは、自分のために。
『頭の痛みは大丈夫か?』
石碑のまえでのあの問いは、思えばここ数日、何度も繰り返されていた。正確に言えば、雛姫が高熱を出して寝込んだその後からずっと。
兄が行動を起こした要因は、すべて、あの問いに集約されていたのかもしれない。
思い至ると同時に、雛姫の中でつかえていたものが腑に落ちた。
《御座所》なんて関係ない。《御魂》も血縁も、判然としない父親の存在も、なにもかもどうだっていい。自分にとって大切なのは、兄と慕った真尋ただひとり。
ならば自分も立ち向かおう。兄とともに――
腹が据わったその瞬間、息をひそめていた《気配》がふたたび現れ、雛姫のそばに寄り添ったのがわかった。
頼もしい味方。
ついさっきまで疎ましかったその感覚が、雛姫の中ではっきりと変化した。
黙りこんだ雛姫を見て、志姫は頃合いと判断し座を立った。
退室してゆく志姫の後ろ姿を、雛姫は無言で見送る。志姫につづき、ウキとトキが鄭重に頭を下げ、辞していくと、静寂が戻った寝所の中で雛姫は布団に座ったまま目を閉じた。
受け容れたその瞬間に、不快は『力』に変わった。
《それ》がなんなのかはわからない。だが、この『力』の助けを借りて、やれるだけのことをやってみようと雛姫は決意した。




