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神の棲む島  作者: ZAKI
第八章 生き神
20/46

(一)

『姫様は、生き神様でいらっしゃいます』



 朝、波子から聞かされた言葉が、際限なく耳の奥でリフレインする。


 生き神―――


 なんて現実離れした言葉なのだろう。

 雛姫は、そう思って深々と溜息をついた。

 ネパールにそういう存在が実在するのだと、以前真尋から聞いたことがあった気がする。たしか、クマリ、といっただろうか。


『クマリは、ネワール仏教徒のサキャというカトマンズ地方の由緒ある部族出身者に限られ、32もの厳しい身体的条件をクリアしてはじめて選ばれる。そうして選び抜かれたクマリには、王国の守護神、タレジュ女神が宿ると言われている』


 物知りの兄は、かつて、己の専門知識を活かしてそのように説明してくれたことがあった。


 クマリ――ネパール王国において、王をもひざまずかせるという神聖なる存在。

 選ばれるのは、3歳から5歳までの血の汚れのない少女。

 選ばれた少女は、両親から離され、教育を受けることもなく生き神としていっさいの感情を表に出すことを禁じられ、次の新しいクマリに交代するまでのあいだ、年に一度のインドラ・ジャトラ祭への巡業を除き、専用の館に籠もって人々の祈願成就を祈るという。


 資格を失うのは、怪我や初潮による出血が見られたとき。


 ならば、自分にはすでに『資格』がないのではないかと雛姫は思う。だが、この島での『生き神』とは、そういったものではないのだと波子は言った。

 神がその身に宿り、人々の深い信仰と崇拝の対象となることはおなじであっても、クマリと《御座所》では、決定的に異なる部分があると。

 それは、《神》を宿す《御座所》が、たんなる『象徴』として存在するのではなく、真実、大いなる力を有する点にあるという。


 ――そんなはずはない。


 雛姫は、自分の両手を目の前にかざしてしみじみと眺めた。

 これまで、自分に不思議な力があると実感したことは一度もない。それどころか、いつだって無力だった。自分は、いつもいつも兄に負担をかけてばかりの、平凡な子供でしかなかった。


 浸かった露天風呂の岩に両腕を載せ、頭上を見上げると、夕暮れの空が広がっていた。

 周辺のものすべてを鮮やかなオレンジに染め上げていた昨日とは打って変わり、今日の夕日は西の空をわずかにピンク色に染め、周辺から天頂部、東の空へと向かって徐々に水色を深くしていた。低くたなびく雲が、夕日を背負って影となり、地上から眺めると薄墨色に見える。時間が流れるにつれ、蒼穹の青は徐々に暗さを増し、深い闇色に染まってゆくのだろう。


 露天風呂から望める山頂の一角から、ひと筋の煙が立ち上っているのが見えた。

《御魂鎮め》の御焚き上げ――波子の話では、あれが《神》と《御座所》の象徴とのことだった。


 波子からは、この島にまつわる神話も聞かせてもらった。だが、結局のところ、はっきりしたことはなにもわからなかった。


 二面性を持つ神、すなわち《御魂》がこの島には存在して、それを宿す資格を持つ《御座所》が『生き神』として祀られている、ということなのだろうが、それでは《御魂》は、なんの神なのだろう。

 神話の中で、母に殺されそうになった哀れな双子の片割れということになるのだろうか。

 だが、怒りと悲しみが渦巻く激情の中で力を開花させたその赤ん坊には、『善』の部分が見当たらない気がする。

 ならば《御魂》とは、愛する妻を喪い、恐ろしい力を目覚めさせてしまった自分の子供と闘わなければならなかった風の神なのか。


 影があるなら、光もなければならない。


 夕日を反射して美しい陰翳を描く雲を眺めながら、雛姫は昨日の真尋の言葉を思い返していた。


 ――シンリって、結局なんなんだろう……。


 己が『生き神』であるという話は、実感も理解もまるでできないが、それでもこの島に、なにか目に見えない特殊な力が働いていることだけは認めざるを得なかった。

 こうして目を閉じて耳を澄ましてみても、聞こえてくるのは広い庭園のどこかにある鹿威しと人工の滝の音。そして、草木の葉擦れと波の打ち寄せるかすかな音ばかり。

 季節は夏の盛りだというのに、これだけの自然に囲まれながら、蝉の声はおろか、蛙の鳴き声、夜の虫の音、そして海鳥の声も山鳥たちのさえずりもまったく聞こえてこない。


『昔からこの地に住む人間以外、この島にはどんな動物も存在しません。神の力を畏れて、近寄ることができないからだそうです』


 尋ねた雛姫に、波子はそう答えた。

 昨夜、風を通すために開け放たれた窓から、明かりに誘われた虫が集まってこないのを不思議に思っていたが、それも、この『大いなる力』が働いているためのようだった。生け簀を目にした際の兄の驚愕は、このためだったのだ。

 理由はわかったが、それでも雛姫には、ことの重大性がいまいちピンとこなかった。

 蚊に刺される心配をしなくていいところだけは利点のような気もするが、夏の最中さなかにそれもなんだか味気ない。

 クマリではないが、こんなところに閉じ籠められていつまでも特異な暮らしていたら、禁じられるまでもなく感情が鈍磨してしまいそうだった。


 大きく違う点もあるが、クマリと《御座所》には共通する部分もある。

 それは、下界に降りることもままならず、この広大な屋敷の奥深い『社』の中で、次の《御座所》と交代するまでのあいだ、ひっそりと暮らさなければならないことだ。そして《御座所》は、たぶんその後もこの島から出ることはない。

 クマリは、存在そのものが全きものであるとして、その地位にあるあいだに教育を受けることはないというが、《御座所》には各分野の識者たちが方々ほうぼうから招かれ、彼らによって高度な教育が施されてきた。

 それは、《御座所》に限られたことでなく、巫部本家に生まれた者の宿命であるらしかった。


『昨夜、美守様とお話しになったのでしたら、ごく普通に標準語を話されていたこともお気づきでしょう? 本家の皆様は、島の人間よりも、この屋敷の中で先生方とお話しになることのほうが格段に多いのです。分家の方々にしても、都会で高い教養を収められた後に皆様この島に戻っていらっしゃる。閉ざされた環境にあるようで、島の者たちと巫部家の方々とが直接交わることはほとんどありません。巫部家にお仕えするわたしたちのような者もそれは同様です。ですから自然に、主家に合わせた立ち居振る舞いになっていくのです。わたしなどは、もともとの出身はこの島ですが、小学校に上がってから中学を卒業したこの春まで、島を離れて本土の中学に通っていましたから、たまに麓に降りることがあっても、島のお年寄りの言葉となると、理解できない場合もあるくらいです』


 今日1日で、波子からは本当にたくさんの知らなかったことを教えてもらった。だが、それでも自分に関係する話だと思えることはなにひとつなかった。

 自分はただの普通の小学生で、波子が言うような、あるいは巫部家やトキが期待するような、なにか特殊な力を持っているわけではない。少なくともそんな力の片鱗を、これまでに感じたことはなかった。かつて幼いころ、自分がこの島にいたという記憶もまったくない。


 真尋は、本当に血の繋がった兄ではないのだろうか。もしそうであるなら、本当の母であるらしいさきの《御座所》美姫と兄はどのような関係にあり、その結果、なぜ自分を連れてこの島を出ることになったのだろう。

 なによりこの7年、兄がどんな思いで自分をここまで育ててきたのかと考えると、悲しみで胸が張り裂けそうになった。


 どんなに思い返してみても、心に浮かぶ思い出は、いつも楽しかったり、嬉しかったりすることばかりだった。


 自分は、いつでも真尋の愛情を一身に受けて育ってきた。

 真尋は少しも、嫌そうだったり、つらそうだったりといった顔を雛姫に見せたことはなかった。けれども実際は、他人の子供のために、ひたすら自分を犠牲にしてこの7年を過ごしてきたというのだろうか。

 自分は、真尋にとってただのお荷物にすぎなかったのだろうか。


 いまもなお、こうしている間にも、自分のせいで酷い目に遭わされているかもしれない。


 だったら、なぜそうまでして自分は存在しているのだろう……。


 贅沢な暮らしも、特別な地位もなにもいらない。兄と信じた真尋とともに、ずっとずっと昨日の朝までのような生活が送れたら、それで充分だった。




 風呂から上がった雛姫は、脱衣所に戻って手早く着替えを済ませた。

 洗面台に飾られた花も、ふたたび朝のものとは生け替えられており、波子によって用意された寝間着も、昨日とはデザインの変わった真新しいものになっている。


 無駄な手間と無意味な贅沢。


 うんざりした気分で脱衣所を後にした雛姫は、引き戸を開けて廊下に出る際、またもや波子の昼間の言葉を思い出して嫌な気分になった。


『姫様は敷居も畳のへりも決してお踏みにはならないと、トキさんが感心しておいででした。それがまた、無意識におできになるほど身に染みついておられると、本当にお喜びのご様子でしたよ』


 知らないうちに、そんなところまで観察されていたのかと、不快を通り越して無気味にさえ思えた。

 正式な行儀作法など、習った憶えはない。トキが注視しているときに、たまたま踏まなかっただけではないかと雛姫は思ったが、それでは普段の自分がどうしているか考えてみると、それはそれでよくわからなかった。意識していないのだから当然である。


 脱衣所から廊下へ。こうして敷居の上を通り過ぎてみても、たしかに踏んではいない。だが、それがいつものことかと訊かれれば、必ずそうしているという自信は持てなかった。

 トキは、身に染みついた所作と受け取ったようだが、そんなことを勝手に判断され、評価されるのは迷惑だった。


 他人が目にして不快に思う言動さえ取らなければそれでいい。


 真尋の躾方針はいつだって鷹揚で、懐が大きかった。雛姫は、その大きな懐に包まれて、のびのび育ってきた。

 昨日出てきたばかりの古くて狭い自宅アパートが懐かしい。

 真尋が、とても恋しかった。

 重い心を抱えて、雛姫は奥座敷に戻った。




「おかえりなさいませ、姫様。さっぱりなさいましたか?」


 出迎えた波子がにっこりと笑う。笑い返そうとした雛姫は、その手許にあるものを見て途端に顔を硬張らせた。


「あ、これですか? お風呂上がりにさっぱりと如何かと思いまして」


 雛姫の視線に気づいて、波子は手にしていたお盆を雛姫のまえに差し出す。

 お盆の中心に置かれていたのは、淡いオレンジ色の液体で満たされたグラス。


「……これ、なに?」

「えっと、オレンジ・カルピスなんですけど。……ひょっとして、お嫌いでした?」


 雛姫の顔色を見て、波子は戸惑いの表情を浮かべた。


「姫様? あの……」


 雛姫は、なにも言わずにただ繰り返し首を横に振った。

 鼻の奥がツンと刺すように痛んで、視界がみるみるぼやけ、なにも見えなくなる。かろうじて映ったグラス越しのやわらかな色彩が、ますます悲しみと切なさを募らせ、雛姫はついに耐えきれず、その場にしゃがみこんだ。


 お風呂上がりに必ず兄が買ってくれた、優しい味の飲み物。

 兄の優しさがいっぱい詰まった、大切な―――


 ――ヒロ兄、雛、もうおうちに帰りたい。ヒロ兄と一緒に、あの部屋に帰りたいよ。


 こみあげる想いを涙とともに止めなく溢れさせ、雛姫はいつまでもむせび泣いた。

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