第37話 着替えたら出発だ
私たち三人はその後、瑠璃の刻——私にとっての深夜まで、食堂でお喋りを続けた。
二人は私の身分証の設計についてあれこれ議論していた。
「所属がハルジオンと同じなら、環の形は僕とお揃いにしようよ」
「それはいいわね。石は私と同じにしましょう」
「瑠璃の石は似合わないよ」
ときどき喧嘩をする二人の間で心地よく揺れているうちに、
私はだんだん瞼が重くなってきて、ナナリエと一緒に部屋へ戻った。
私はそのまま布団に倒れ込んだけど、ナナリエはまだ何か作業をすると言っていた。
なんだかとても楽しそうな独り言を子守唄に私は眠った。
——そして迎えた、朝日が昇る、珊瑚の刻。
「アンリ、アンリ」
声。
「起きて」
私の肩を揺する。まあまあ力強い手。
眠い目を擦りながら起き上がる私に、ナナリエはらんらんとした目で言った。
「エンジュを起こしに行くわ」
「ねえ、ナナリエ、もしかして徹夜した?」
なんか、そういうギラギラした目をしていた。
「大したことないわ」
ナナリエは私を布団から引っ張り出して答える。
「ハルお兄様とはよく徹夜でゲームしてる」
へえ、そうなんだ。
「それより早く。エンジュが起きちゃうわ」
「いや、起こしに行くんだよね?」
寝巻きのまま廊下に出てナナリエの後を追う。
そして同じ階の、おそらくエンジュの部屋らしきところへ来た。
「静かにね」
「え?ねえ、起こしに来たんだよね」
「もちろんよ」
音を立てずに部屋へ入っていく。窓から薄く朝日が滲んでいた。
布団の上ではエンジュが静かに寝息を立てていた。
深緑の長い髪は解かれて布団の上に広がっている。
「寝てるわね」
「そりゃあそうでしょ……」
ナナリエがじっとエンジュを覗き込むと、彼女の髪が意思を持ったように浮かび上がった。
すうっとエンジュの髪に近付き、触れる。
私の目には薄らと光の粒が移動しようとしているのが見えた。
ああ、こうやって共有するんだ。
客観的に見るとその動きがよくわかった。
エンジュから移動する光と、反対にナナリエから流れる光。
だけど——
止まった。
まるで堰き止められるみたいに。
「甘いよ」
柔らかい、けれど低い声がした。
「三度も同じ手には引っかからない」
エンジュが翡翠色の目を開き、優しくナナリエの髪を指に巻きつけた。
……二度も、同じ手に引っかかったのか。
少しエンジュが哀れに思えた。
「やるじゃない」
ナナリエが不適な笑みを浮かべた。
「残念だったね」
エンジュも起き上がって微笑む。
「原始的な共有は不可避のはずなのに、どうしてかしら」
ナナリエの顔に「検証したい」と書いてある。
エンジュは頬杖をついてナナリエを見た。呆れた目で。
「僕なんかより、ハルジオンの頭の中でも覗いたら?」
「お兄様は言動が一致してるもの。必要ないわ」
ナナリエは断言した。確信を持っている言い方だった。
「まあ、君には、そう見えるよね」
エンジュはあくびをした。深緑の髪がさらりと落ちる。
「エンジュは隠し事が多いでしょ?」
ナナリエがエンジュを見上げた。
「お兄様は全て言葉にする」
迷いなく言い切る。
きっとそれが、ナナリエの見ている世界の真実。
だけど——
人って、見えているものだけじゃない。
なんだか少し、危うい気がした。
「ところで」
エンジュが起き上がって、脇にかけていた羽織を手に取った。
「ナナリエももう大人なんだから」
白い着物の上に薄茶の長い羽織をかける。
「寝巻きのまま人の部屋を尋ねちゃいけないよ」
長い髪を紐で結えながらエンジュは呆れた顔で振り返った。
「また小言?」
ナナリエは口を尖らせる。
「小さくないよ。大事なこと」
穏やかな翡翠色の中に、絶対譲らないという意思が見えて、
ナナリエは諦めたように静かに立ち上がった。
「着替えてくる」
くるっと向きを変えて、ナナリエは扉の方に歩き出した。
私も後を追いかけようとして、その前にエンジュを見た。
「ごめんね、エンジュ」
なんか、止められなくて。——そこまで言葉にならない。
「大丈夫。君もこれから大変だろうけど」
エンジュがくすっと笑った。
私も笑い返す。
「振り回されるのは大歓迎だよ」
だけど少しだけエンジュの笑みが消えた。
「ナナリエから離れないようにね」
また迷子の心配かな?
だけど、それだけじゃない気がする。
「アンリ、行こう」
ナナリエに手を引かれて、私はそこを離れた。
部屋に戻った私たちはきちんと着替えることにした。
昨日着てきた服が、洗濯されて折り目正しく置かれていた。
翡翠宮の人たちは物静かだけど仕事が早い。
その服に手を伸ばしかけて——
やめた。
代わりに、自分の小さな荷物の中を漁って、引っ張り出した。
最初に着ていた黒いワンピースを。
今まではナナリエに借りた服を着ていたけど、このデザインは前合わせで、
自分で着るにはちょっとコツがいる。
ワンピースなら被るだけだから簡単だ。
でも、
それだけじゃなくて、
私が私である——それに確信が持てたら、
「この子」のことも大切にしたいという気持ちが生まれた。
「それ、着るの?」
ナナリエの瞳が私を捉える。
「うん」
そう答えて、袖を通す。すぐに着れた。
身体によく馴染む。
それに、黒いワンピースって、ちょっと魔女っぽいし。
「こういうの、なんて言えばいいのかしら」
ナナリエがゆっくり近づいてきた。
虹色の瞳に私が映る。
「あなたに、とても適合しているわ」
ナナリエは優しく顔を綻ばせた。
朝の支度をして神殿の回廊に出た。
といっても、ただの森林にしか見えない。
朝の光の中を小さな昆虫が散歩している。
鳥の鳴き声だけが高いところから降ってくる。
回廊には、すでに数人の参拝者が並んでいた。
声はない。
けれど、順番を待つ気配だけが静かに満ちている。
エンジュはその列の先頭に立つと、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「ようこそ。今朝は少し冷えるね」
年配の女性が一歩前に出る。
言葉は交わさない。
ただ、少しだけ頭を下げた。
エンジュはその人の前に立つと、ゆっくりと手をかざした。
触れない。
けれど、距離は近い。
——その瞬間。
淡い光の粒が、女性の髪の内側から浮かび上がった。
木漏れ日のような、小さな光。
それが、エンジュの指先へと集まっていく。
同時に、
エンジュの側からも、別の光が流れていく。
やわらかく、静かに。
交換、というより——
循環。
女性は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
終わると、何も言わずに一歩下がる。
表情だけが、ほんの少し軽くなっていた。
次の人が、同じように前に出る。
誰も、説明を求めない。
それが当然であるかのように。
私は思わず、ナナリエを見た。
「……これ、何してるの?」
小さく尋ねると、
「やり取りよ」
ナナリエは即答した。
「個体の中に蓄積された情報の偏りを、均すの」
均す。
「それだけ?」
思わず呟く。
——与えたり、取り除いたりするんじゃないんだ。
共有する。
エンジュは、こちらをちらりと見た。
ほんの一瞬だけ、
——見透かすような視線。
「僕たちはね」
次の参拝者に手をかざしながら、
「自分を“単体”だと思っていないんだ」
穏やかな声。
でも、
「誰ひとり切り離されることはないよ」
穏やかな声だったけど、なんだか逃げ場がなかった。
参拝者の列が一時途絶えると、エンジュは私たちの方へ向き直った。
「着替えたんだね」
私の黒いワンピースを見て頷く。
「よく似合っているよ」
ナナリエは私の隣で、「ああ、そう表現するのか」と言うように目を丸くした。
「次に会うのは、春のお祭りのときかな?」
エンジュが首を傾けて笑う。
ときどき話題に出るお祭り。
「あと七日ね」
もうすぐなんだ。どんなお祭りなんだろう。楽しみ。
「本当はマジョを探しに行きたかったけど」
ナナリエが残念そうに肩をすくめる。
「その日その日で移動してるから見つからないかも」
エンジュがため息をつく。
「お祭りの後に、またおいで」
「ありがとう。またお茶を飲みにくるね」
カヤさんの料理もまた食べたいし。
「その前に、呼び出されないといいね」
エンジュが何気なく言った。
「呼び出し?」
職員室に呼び出されるみたいな言い方。
「うん。君はもうこの国の一員だからね」
軽い声色で言う。
だけど、何か重い。
戸惑う私の手をナナリエがそっと握る。
「私が見ているから大丈夫よ」
その言葉を聞いて、エンジュは頷く。
「いってらっしゃい。南を楽しんできてね」
柔らかい朝日を髪に浴びながら、エンジュは遠い山の向こうを見た。
私たちも振り返る。
遠く、南の海に、太陽の光が反射してチラチラと揺れている。
登ってくる時には気づかなかった景色。
途中の山に遮られ、他の都市は見えない。
ただ、向こうに海が細くカーブしていることだけがわかった。
今から向かう先だ。
谷から吹き上がる若葉の匂いが頬を撫でる。
「この子」の身体を通して、感じる。
ワンピースの裾が脚にパタパタと当たる。
私とは違う、「この子」も一緒に連れて行こう。
「珊瑚宮まで特急列車で向かって、そこから乗り換えよ」
行き先を示す声。
「さ、行きましょ。ここから南は遠いわ」
朝日を背中に受けて、ナナリエが手を差し伸べる。
私はその手を取る。
歩き出す。
懐かしさが鼻腔をくすぐる。
初めてのことなのに、知っている感じ。
「この子」の鼓動が、私に進めと言っている。
——この先を、「この子」は知っているのだろうか。




