第2話 あんり27歳、文化人類学者やってます!
眩しい。
顎が痛い。
腕の感覚が、ない。
「あんり」
優しい声。
「あんり、朝だよ」
オニオングラタンスープの匂い。
「またこんなところで寝て」
肩にブランケットがかかる感覚。
「風邪ひくよ」
遠のく足音。
待って。
「まって」
ブランケットが床に落ちるかすかな音がした。
「おはよう」
ぼやけた視界の中で私を覗き込む人がいる。
「だいちくん・・・・・・」
大地くんはくすっと笑って、湯気のたった大きなマグカップを差し出した。
「ありがとう」
なにか、夢を見ていた気がするけど、思い出せない。
とても遠い懐かしい記憶を。
「また徹夜?寝ないと作業効率悪いよ」
温かい。
私の大好きなオニオングラタンスープだ。
玉ねぎの甘さが五臓六腑に染み渡って、私は思考を取り戻した。
机の上には開きっぱなしのノート。
寝落ちした時の鉛筆の跡が、ノートを斜めに横切っている。
私のよだれが染み付いているのはこっそり隠した。
そうだ。
昨日はずっと、フィールドワークの記録をまとめていたんだ。
先週まで、私は東海地方のとある山あいの集落にいた。
春のはじめに行われる“水迎え”の祭りを調べるためだ。
「なんだっけ。水の祭りだっけ?」
大地くんはコーヒーを飲んでいる。
メガネが少し曇って、眉間に皺を寄せていた。
「祭りってほど派手はないよ」
私はスープで温まりながら答えた。
「朝五時に集まって水路を掃除して、神社に雪解け水を供えて、みんなで味噌汁を飲むだけ」
でも、その「だけ」の中に、ものすごくたくさんの意味が詰まっている。
普通の村。
普通の行事。
普通の人たち。
その「普通」が、どうやって続いてきたのかを調べる。
誰が準備しているのか。
いつから始まったのか。
そして、今の人たちはそれをどう思っているのか。
そういうことを、現地に行って、話を聞いて、観察して、記録する。
「それが文化人類学というものか」
大地くんが深く感じ入るように何度もうなづいた。
そう、私は文化人類学の研究をしている、少し落ち着きのない27歳。
文化人類学というと、遠い異国の部族を思い浮かべる人も多いけど、
私の場合はどちらかというと、「普通の人たちの普通の暮らし」の方に興味がある。
「なるほど。味噌汁を飲むのが、あんりのフィールドワーク」
そして、目の前で腕組みをするメガネ男子は、私と正反対の堅実で動じない幼馴染。
最近は……いや、昔から保護者のような存在で。
……いやいや。ちゃんと、お互いに大切な人。な、はず。
「あと、これ」
大地くんが差し出した、文庫本くらいの小さな箱。
「定形外郵便来てたよ」
「郵便でいいじゃん。細かいね」
「郵便だとニュアンスが違うんだよ」
大地くんは妙なところに細かいけど、私はそこが好き。
「てか、みんなに俺の住所を教えてるの?」
呆れてるみたいな声を聞きながら、私は箱を受け取った。
「え?だって帰ってくるのここだし」
箱は思ったより軽かった。振るとカラカラ音が鳴る。
なんの飾り気もない普通の小包。
———ただ、
送り主の欄は空白だった。




