42.独りぼっち。
「えっ、風邪?」
その日は約束の日だった。市へ行くと、クレマンスと約束した日である。とは言え、一方的に貴族のお嬢さんが決めたのだが。どうせなら初日に行きましょうと言って。しかも丁度、見習い二人の休みの日であった。絶好とも言うべき日だったのだ。
だが、エディットの部屋の扉をノックしたのは、クレマンスではなかったのである。
「はい、昨夜から具合が悪く……エディット様とお約束しているので、行くと無茶を言ってはおりますが……」
心底申し訳なさげに頭を下げるのは、クレマンスの侍女アミシーである。主人の代わりに断りに来たのだ。エディットは慌てた。
「駄目です! そんな、無理せず休んで下さいとお伝えください」
「申し訳ありません。お言葉に甘えます」
「いえ、当然です。私の事は気にしないで下さい。最近、寒くなりましたものね……」
「ええ、エディット様もお気をつけ下さいね」
「はい、アミシーさんも」
互いを気遣う言葉を告げて、終わりとなった。主人の看病で忙しいに違いない。確かに寒くなった。だが、クレマンスはエディットと違い、防寒は完璧だった筈だ。身の回りの世話をする者もいる。だから、疲れが出たのではないかとエディットは思ったのだ。貴族のお嬢さんは、意外と繊細なのかもしれない。エディットが図太いとも言う。
さて、問題はこの後である。急に暇になってしまった。別に何時も通り過ごせばいいのだ。神に祈りを捧げ、教会の中を歩き回ったり、風呂に入ってもいい。でも何だか、勿体ない気がした。今日は、市へ行く気だったのだ。王都の市へ。
行ってみようか。
本当は一人と言うのは心許ないのだ。でも、行ってみようかという気になった。何故なら、皆が口を揃えて凄いと言うからである。折角王都へと出てきたのだ。一度くらい、行ってみたっていいのではないだろうか。ブーツを買った方がいいとも言われたのだし。あれこれ理由を付けて、行こうと決めた。
エディットは田舎者である。だから、怖くないと言ったら噓になる。
でも行くと決めたからには、行くのだ。そう、自身に発破をかけ、コートを着た。貴族のお嬢さんから貰った、仕立ての良いコートである。貧しい平民の子がおいそれと身に付けるものではなかった。そうして、これまた頂き物のポシェットを肩に掛ける。中を開ければ、財布がある。問題は、これである。一体幾ら持ち歩くべきなのか。ブーツを買うと言っても、値段が分からないのだ。悩んだ末、一万トリオレ硬貨を五枚持った。エディットが一度に貰う給金である。大金だった。それだけで、ドキドキした。買い物に向かない質である。挨拶を交わす相手もいないので、静かに部屋を後にした。
エディットが休みだからと言って、他の神官も休みとは限らない。教会の廊下は何時だって物静かだ。人通りも然程にない。またあったとしても、エディットからは目を逸らす。単純に眩しいからだ。
「エディット殿」
故に、エディットに声をかける人間は、限られた。聞き覚えのある声に、振り返る。
「マーヴァル殿」
いたのは、聖水作成の手助けをしてくれる、マーヴァルだった。眼鏡をかけた柔和そうな男性神官である。数少ない、普通にエディットに話しかけてくれる神官の一人だった。殆ど座っている姿しか見た事がないから気付かなかったが、意外と背が高いのだな、と、エディットは思ったのだ。
「お出かけですか?」
「ええ、市へ行こうと思うんです」
「お一人で?」
言外に、意外だと告げていた。エディットはいつもクレマンスと共にいる。一人で出かけるような質ではないと思われているのだ。また事実そうであった。エディットは頷いた。
「はい。本当はクレマンス殿と行く予定だったのですが、体調を崩されたようで」
「それはお気の毒ですね」
暫しマーヴァルは黙り、考えるそぶりを見せた。エディットは首を傾げた。何やら物言いたげに見えたからである。
「エディット殿、くれぐれも気を付けるのですよ」
「えっ、アッハイ」
「知らない人についていってはいけません」
「えっ……」
ショックを受けた。余りにも子ども扱いだったからである。そんな風に、見知らぬ人間にホイホイついていくほど、警戒心がないように見えるのだろうか。ただ、エディットは忘れていた。子ども扱いも何も、子供である。十歳の子供なのだ。しかもエディットは、年齢より更に下に見えるのである。心配されて当然だったのだ。
「分かりましたか?」
「アッハイ」
「食べ物をくれると言っても駄目ですよ。貰ってはいけませんよ」
「はい……気を付けます……」
しかもどうやら意地汚いと思われている。残念ながら、概ね事実である。
「はい、お気をつけて」
最後に漸くマーヴァルは笑顔で見送ってくれたのだった。エディットは上手く笑い返せなかった。頼りなく思われている事実に割と打ちのめされていたのだ。尤も、子供相手の普通の扱いである。
大聖堂は大きい割に、そう寒くない。天井も高く、空気も冷え切っているように感じるのに、外よりは暖かいのだ。エディットの素直な感想である。とうとう、一人で外へと出たのだった。何時もであれば馬車が迎えに来てくれる。だが、今日に限ってはそうではない。何せ仕事と無関係の外出である。しかしそれも何時もであれば、先導してくれる人間がいた。友人のクレマンスである。思えば実に頼もしかった。田舎者には過ぎたる友である。身分的にも。
一先ず、歩こう。
大聖堂へと送られてから、半年が経とうとしている。季節は夏から冬まできた。更に春を経て、夏になれば一年である。だから、少しはこの常に賑わっている街にも慣れたはずなのだ。エディットは歩いている。実を言うと、何処で市が開かれているか詳しくは知らなかった。ただ、人の波に乗って進めば辿り着くと思っているのだ。王都の広さも碌に知らず、生きている。未だに、歩いて回れてしまう故郷の村の感覚が抜けていないのだ。当初エディットは、教会とは都の端にあるのではないかと予想していた。だが、そうではなかった。実際には中心部にほど近い。寧ろ、王城にすら近い位置であった。クレマンスと徒歩で出かけた事は記憶に新しい。つまり、子供の足で行ける距離に、大通りがある。大勢の人が歩いていた。大抵一人ではない。家族連れだったり、友人とだったり、勿論恋人同士だったり。子供が一人、と、言うのはある意味目立った。まるで迷子にも見える。悪い意味で注目されている事に気付き、ポシェットを握った。スリを警戒しているのだ。残念ながら、心配の目を向けられている事には気付いていなかった。
既にエディットは気後れしていた。
想像より、人が多いのだ。歩けない程混み合っているわけではないが、何処を見ても人であった。しかしここは未だ、市ではない。道である。馬車が行き交う雑踏は、危険もあって全く落ち着かない。市は、通りを抜けた先にある。王都で一番の市、年に一度、七日間続く。言葉で聞いても、ピンとこなかった。そう、この目で見るまでは。
エディットは呆然としている。
通りを抜けた先に、広大な敷地がある。恐らく普段は公園か何かなのではないだろうか。或いはこうした催し物の為に空けているのかもしれない。その土地に、所狭しとテントが並んでいたのだ。前世で言うところの、フリーマーケットを思い出していた。人が通れる通路が有り、その脇に敷物を引いた店が並んでいる。勿論エディットの目では全容など分からない。どれくらい店が出ていて、どれくらいの広さなのかも分からない。把握できるのは、あくまで見える範囲だけだ。
果たしてここから、ブーツを探す事等出来るのだろうか。
途端にエディットは心配になった。もしかしたら物によってエリアが分かれているのかもしれないが、全く分からないのだ。しかも、立ち止まっても居られない。単純に邪魔だからである。だから、人の波に押されるようにして、歩き出したのだ。
まるで此処だけ冬ではないみたい。
熱気が凄い。それぞれ求めるものがあるのか、或いはただの冷やかしか。どの店もそれなりに賑わっていた。色々なものが並んでいる。エディットが知っている物もあるし、知らない物もある。何となく落ち着かなくて、ポシェットを握る。スリを警戒していると知らしめているつもりである。暫く本当に只ブラブラと歩いていた。これと言って、気になるものがなかったのだ。大体エディットは金を使う事に否定的なのだ。ブーツを買った方がいいと言われたから、それだけは入手する気でいるが、それだけである。だから余り、真剣に見る気が起こらないのだ。
しかしふと、足が止まった。
視線の先には女性がいる。他は賑わっているのに、この場だけ静かだったのだ。女性は一人で椅子に座っている。いや、椅子などと大層なものではない。木の箱である。だが何をしているのかはエディットにも分かった。彼女の前には、イーゼルスタンドがあるのだ。そして、画材があって、彼女が描いたであろう絵が数枚あった。人物画であった。この世界で初めてエディットは絵描きを見た。だから、足を止めてしまったのだ。
「言っとくけど、絵のスキルは持っちゃいないよ」
無言で覗き込んだエディットに向かい、まるで警告するような声が飛んだ。見れば女が不機嫌そうな顔で、己を見ている事に気付く。エディットは驚いた。そうして、言葉の意味を考えたのだ。いらっしゃいませでもなく、絵のスキルはないとそのような告白をした意味である。少し考え、エディットはポシェットを開けた。其処に入っているのは財布、ハンカチ、そしてもう一つ。そのもう一つを取り出し、エディットは女性に見せたのだ。
「これ、私の母が作ったんです」
突然の告白に女性は訝しげな表情を浮かべている。
「母も、裁縫のスキルはありません」
そして目を丸くしたのだ。エディットが差し出したのは、お守りであった。母がくれた、お守り。文字の意味すら知らずに刺したそれ。ただお守りと言っても、前世のハガキくらいのサイズである。だから、持ち歩くには大きい。それでも、折り畳んででも、離さなかった。
エディットの言葉の意味が分かったのか、幾分か表情を和らげ絵描きが言った。
「奇麗だね」
純粋に褒めたのだ。素人にしては、いい出来だった。勿論これで生計を立てていたのだから、それなりの出来で当然ではある。だがそれは、絵描きにも通ずる部分であったのだ。
「失礼な事を言ったね。貴族の子はどうしてもスキルの有無を気にするもんだから」
「えっ」
何処か恥じるように言った言葉に、エディットは驚いた。いや、スキルの有無を気にするのは、何となく分かるのだ。絵描きと言うのはきっと、大抵が絵のスキル持ちなのだろう。だが、スキルがなければ絵が描けないわけでもない。事実エディットの母親も、裁縫のスキルはないが、出来るのだ。だから彼女も、努力だけで熟しているのだろう。しかしそれは別に驚く点ではなかった。エディットが驚いたのは、他の部分である。
「私、平民ですが……」
「えっ」
先程のエディット動揺、今度は絵描きが驚いてみせた。そうして、まじまじとエディットを見たのだ。正確には、エディット自身ではなく、身に着けたコートを。黒いコートは、誰が見てもいい仕立てだった。
「服装が平民にしちゃいいもんだから、てっきりそうかと……」
「これ、頂き物なので……」
「いい所のお嬢さんてわけでもない?」
「えっと、神官見習いです」
素直に白状すれば、感心する声が漏れた。
「神官様かあ。流石小さいのにしっかりしてるね」
小さいの一言に、勝手にエディットはショックを受けた。しかし、事実小さいのである。実年齢もそうだが、形が小さいのだ。
「詫びに一枚描くよ。そのまま立ってて」
「えっ、アッハイ」
エディットの困惑も何のその。宣言したらすぐにペンを動かし始めてしまった。絵筆ではなく、鉛筆だった。芯が、紙を滑る音がする。周囲は騒がしいのに確かに聞こえるのだ。全く迷いなく動かしているように見える。一体どういう表情でいればいいのか分からず、ただエディットは言われたようにじっと立っていた。初めてだった。絵のモデルになる事がである。普通に生きていて、先ずない事だろう。来てよかったな、と、思った。来なかったら、一生体験せずに終わったかもしれない。エディットは絵が描けない。描こうと思った事もない。だからこそ先日神に、念じたものを紙に写す力を貰ったのだ。そう言えば、未だ使った事はないな、と、今更ながら思い出したのだった。
「はい、出来たよ」
一体どれ程の時間だったのか。長かったようにも思うし、短かったようにも思う。そうして、エディットは息を吐いたのだ。ただ立っているだけなのに、緊張してしまったのである。モデルになるって、難しい。絵描きが、紙を見せた。それこそ、エディットが見せたお守り位の大きさである。其処に黒一色で、子供が描かれていた。エディットの顔である。
私って、こんな風に見えるんだ。
勿論エディットは自分の顔を知っている。教会にも鏡はある。だが、自分の目で見た顔と、こうして紙に記された顔は何やら違う気がしたのだ。何時もより、精悍な顔つきに見える。尤も只単に、強張っていただけである。
「お幾らですか?」
ハッとして、エディットは尋ねた。此処は市だ。絵を描いてもらうのも無料ではない。この絵描きに対価を支払わなければいけないのだ。
「あげるよ。失礼な事言った詫びさ」
「いえ、でも」
エディットは食い下がろうとした。気持ちは嬉しいが。無料は良くない。労働には対価が必要なのだ。真剣な顔で払うと言う子供に向かい、絵描きは笑ってみせた。
「じゃあ、私の事、宣伝しておくれ。オーブリー・ゲーゼって絵描きがいるってね。但し、絵のスキルはなしだ」
「分かりました」
快活に笑う絵描きとは裏腹に、神妙にエディットは頷いた。それが対価ならばしっかりと果たさなければならないと思ったのだ。もっとも絵描きの方はそう真剣でもなかった。子供の宣伝などたかが知れているからだ。つまり、本当に何も求めていなかったのである。
エディットは貰った自分の似顔絵を、大事にポシェットに仕舞った。尚最後の最後まで、本当にお金は良いんですかと問うて、呆れられたのだった。




