03.村から出れる。
エディットの母親の内職は、針仕事である。
前世のハガキくらいのサイズの白い布に、赤い糸で刺繍をしている。エディットは、これが何の模様なのか尋ねた事があった。
「神様の模様なのよ」
母はそう答えた。
成程、分からん。そう思いながらエディットは、まじまじと母が縫った模様を眺めた。そうして、何方かと言えば文字に見える、と、そう思ったのである。
「文字なの?」
問えば母親は酷く驚いた顔をした。
「どうかしら……母さん字読めないからねえ」
「そっかー」
「でも持っているといいことがあるそうよ」
「お守りなんだね」
「エディは難しいこと知ってるのね」
母親に褒められながら、識字率は低いのかもしれない、と、そのような事を思っていた。反面、驚くような事でもないとも。何せこの家には書物がないのだ。字が読めずとも困らない生活、と、言うものがエディットには分からない。前世では、読めて当然だったからである。だが、それ程に平和なのかもしれない。例えば文章に起こす程の諍いもないだとか、契約書が無くても何とかなっているだとか。あくまで希望的観測に過ぎない。
母親の仕事を見ながら、別の事を考え、そうしてまた刺繍を見ればある事に気付いた。
普通に、上手いのだ。
それは収入になっているのだろうから、当然と言えるかもしれない。しかし、エディットの母親は、光のスキルしか持っていない筈である。刺繡のスキルなど無いのだ。いや、そもそも刺繍のスキルがあるかどうかもエディットは知らないのだが。ともすれば、スキルと言うのは、そうそう頼り過ぎるものでも無いのかもしれない。無かったにしろ、努力すればある程度は出来るようになる。つまり、前世の感覚と同じ。だが、何をどう頑張ったところで光と水は出せそうにもない。努力でどうにかなるようなものではないからである。
「エディも刺繍、してみる?」
難しい顔でずっと眺めていたからか、とうとう母親が言った。因みに前世では、不器用だった記憶がある。しかし、生まれ変わったからには、やってみる価値はある。どの道名前すら覚えていない前の生の事等、何一つとして引き摺っていない可能性があるのだ。
針と糸、そして布を貰い、教えを受け、エディットは果敢に挑んだ。
そして惨敗したのだった。
どうやら、刺繍の才能は皆無のようである。
例え世の中に刺繍のスキルがあるとして、自分には絶対に無いと確信したのだった。それが分かっただけでも良しとした。強がりである。
ふと、チョコレートが食べたい、と、そう思ったが、未だにチョコレートにはお目に掛かったことが無い。相変わらずマルカン家の暮らしは貧しく、生活環境は向上していなかった。その事に疑問を抱くようにもなった。エディットの母親の刺繍の出来は、素人目ながらよく見える。なのに収入には余り繋がっていないのだ。そもそも母親が自ら売り捌いているわけではない。全て村長に納めているのである。そうして、代金は村長から受け取るのだ。果たしてその金額、正しいのだろうか。少なすぎるのではないだろうか。そう疑念を抱くほどにはマルカン家は貧しく、村長の家は裕福だったのだ。父親にしてもそうである。出来た作物は村長に納めているのだが、果たして成果に見合ったものなのだろうか。
しかしこれは何もマルカン家に限った事ではない。
この村に住む全ての人間が同じ待遇なのだ。だから、何も言えない。村の外には魔物がいて、自分たちで売りに行くことが出来ないのである。だから、村長に預けない事には収入にならないのだ。その上、税もある。村には物売りが来るが、あくまで売るだけで買い取ってはくれないのである。村長の口利きだからだ。
更に悪い事に、金銭に係る事でありながら、契約書の類が一切なかった。それはそうである。文字の読み書きが出来ないのだ。勿論エディットにも分からない。前世の文字なら読めるかもしれないが、この世界の文字など見た覚えがなかった。もしかしたら目にしているのかもしれないが、文字だと認識してない可能性がある。その上、この環境では学を付けることがまず無理である。
エディット・マルカンは十歳にして、人生の難しさを痛感していた。
十歳。そう、とうとう十歳になったのである。村で一番裕福な暮らしをしている村長の息子であるロドリグのスキルが判明して二年。意外な事にロドリグは一度たりともエディットにスキルを見せたりはしなかった。エディットの方も見せてくれとは言わなかった。何せ、体術である。絶対に暴力だと思っていたのだ。そしてそれを年下の女の子に振るわないだけの分別がある事に胸を撫で下ろしていたのである。流石に戦闘系のスキル持ちに殴られて無事でいる自信はなかった。
二年前、ロドリグはそれはもう意気揚々とスキルの事をエディットに自慢していた。その気持ちが今なら分かる。エディットは浮かれていた。冷静に考えれば、スキルが分かる年齢になったものの、見てくれる人がいないのだから分からないままなのだ。けれど、スキルを得ることが出来る年齢になったと言うだけで、嬉しかったのである。
今は無理だろう。でもその内、もっと成長したら、村を出る機会に恵まれないとも限らない。或いは、神官様が村まで来てくれるかもしれない。それまで、楽しみにしていよう。
「エディ、スキルの件だけど」
なのにある夜唐突に、父親が切り出してきたものだから驚いたのだ。
普段通り粗末な食事を前にして、何やら真剣な顔をしている。だからエディットは食事の手を止めたのである。
「アグロレーの街まで、ケヴィンさんに連れて行ってもらうようお願いしたから行っておいで」
「私、街にいけるの?」
「教会でしか、スキルは見てもらえないからねえ」
美人ではないが、どこか愛嬌のある顔に笑みを浮かべて母が言った。
そこでエディットは思い違いをしていたことを知ったのだ。神官に見てもらうのは大前提として、場所も重要なのだと。教会に出向く必要がある事を知ったのである。来るのを待っているのでは、どの道駄目だったのだ。
何時かは、見てもらえる日が来るだろう。
そう、信じていた。けれど何処か諦めてもいた。
「ありがとう、父さん、母さん」
暮らしは貧しい。外は危険。子供が一人で行けるような距離でも場所でも決してない。だからと言ってマルカン家には、戦闘に特化した人間もいない。だから、外部の人間に頼むしかなかった。それもきっと安くはない。他所の子供を離れた街まで連れて行く、言うほど簡単ではない筈だ。それが例え顔見知りであっても、安請け合いは出来ない筈だ。
それを頼んでくれる人と、頼まれてくれる人、両方がいる事にエディットは感謝した。
もしかすると、これが最後かもしれない。村の外へ出ることが、である。きっとそうだと思っていた。スキルを得て帰って来たなら、そのまま一生をこの村で過ごすだろう。だったら、両親の助けとなるような、生活に根付いたスキルが良い。
神様、お願いします。
信じてもいない神に、切にエディットは祈ったのである。