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62.待ってる


「え、帰るの……?」


 驚きと困惑が滲み出た声にエドウィンは苦々しく頷いた。


「少し国が面倒な事になってきた。兄を亡き者にして俺を担ごうとしている奴らが出てきたらしい」


 今まで何も聞く事のなかった彼の国、カドリック帝国の内情。それをまさかこんな形で聞くとは思わなかった。いや、寧ろこんな形だから聞けたのだろう。別に興味が無かった訳ではない。ただ、カドリック帝国の内情と言えばエドウィンの家族、つまり皇帝と直結する。深く聞くべきではないと思っていたからだ。エドウィンから聞かされれば、そうかと聞いていたかも知れないが、エドウィンも今まで国の事を話す事はほぼ無かった。


 今まで深く考えた事は無かったが、エドウィンはカドリック帝国の第二皇子。皇位継承権第二位の男である。もう既に彼の兄が立太子している事から皇位継承争いは終わっているとアンネマリーは考えていた。だから留学にも来ているし、婚約も決まればすんなり進んでいるのだと。


 アンネマリーは気付かれない程度に目元に力を入れた。


「まあ、いつもの事と言えばいつもの事なんだが」


 だがエドウィンはアンネマリーの表情の変化に気付いたのか、少し明るい声を出す。心配する事は無い、そう言いたげな声ではあったがアンネマリーは何故か余計不安な気持ちになった。


「ねえ……大丈夫なの?」


 思い悩んだ末に出た声は不安が滲み出ていた。一音を発した時点で自らの声がおかしい事に気付き、止めようとしたが宥める様な碧眼に顔を覗き込まれる。全てを見透かす優しい瞳に促される形でアンネマリーは一拍後に言葉を続けた。


 エドウィンが少し屈んでくれたお陰か顔の距離が近くなる。間近な瞳に不安そうな自分が映っているのが見え、アンネマリーは瞼を伏せた。だが、エドウィンの大きな手がアンネマリーの頬に添えられ、強制的に瞳を絡め取られる。


「問題無い」


 強い声に、強い瞳。揺れる自分とは正反対な様子にアンネマリーは口端を僅かに上げた。


 問題無いとエドウィンは言うが、この胸を占める不安は何なのだろう。エドウィンが目の届かない場所に行くのが怖い。国から帰って来なかったらどうすれば良いのだろう。そもそも争いに巻き込まれて命を落とす事は絶対無いのか。

 数々の不安が胸を襲い、どうしようも無い気持ちからアンネマリーは手を胸に置いた。こんなに足元から不安が這い上がり冷えていくのに心臓は元気に動いている。


「アンでもそんな顔するんだな」


 そんなアンネマリーを見て揶揄う様にエドウィンが言った。


「……するわよ。だって婚約者だし」


 胸から手を離したアンネマリーが苦笑しながらそう言えば、頬からエドウィンの手が離れる。そしてアンネマリーの頭をポンと撫でた。


「大丈夫だ、直ぐ帰ってくる」

「直ぐって、そんな簡単な事じゃないでしょう?」

「まあ、そうかも知れないが。相手方の意図は分かっているからな。上手く行けば二ヶ月後には帰って来れるだろう」

「二ヶ月後?」


 その言葉にアンネマリーはピクリと反応した。二ヶ月と言えば、その間に長期休暇が来る。そしてその長期休暇中にカドリック帝国で婚約式をやる予定だった。つまりはその予定が無くなるという事を意味する。


「婚約式は延期?」


 アンネマリーの問いにエドウィンは動きを止めた。そして眉間に皺を寄せ、がくりと肩を落とした。


「そうだな、そういう事になる。そうだな、そう……ああ本当に時期が悪い」


 此処に来てエドウィンは苛立ちを隠しもせず、髪をぐしゃりと乱暴に掻き上げた。険しい顔にホッとする。


 心が軽くなったアンネマリーはぶつくさと何かを言うエドウィンを見て、フフと声を出して笑った。


「早く婚約式出来る様に、早く帰って来なきゃね」

「そうだな、一ヶ月で帰ってくる。そして冬前にはやろう」

「冬前って。学校は?」

「休めば良い。もう殆ど卒業するだけだろう」


 確かにそうだ。アンネマリーは首席だし、エドウィンも成績上位者である。多少休んでも問題は無い。それにアンネマリーに至っては入学から今まで登校していなかったのだ、今更だろう。

 口元を手で隠し、笑えば機嫌の治ったエドウィンが目元を緩めた。


「待っててくれるか?」

「もう婚約自体はしてるんだから待つに決まってる」

「ありがとう」


 声と共にエドウィンがアンネマリーをすっぽりと包む様に抱き締める。


「ちょっと」


 急な抱擁に未だ慣れないアンネマリーは恥ずかしさを隠す様に怒った声を出す。だがエドウィンはアンネマリーの腰あたりに組んだ手を僅かに動かしただけだった。

 暫くアンネマリーの羞恥心からの抵抗にもジッとしていたエドウィンだったが、不意にアンネマリーの名前を呼ぶ。


「アン」

「ん!」


 まるで威嚇する猫の様にアンネマリーは勢い良く応えた。いつもだったら笑うところなのだが、エドウィンはそれに反応する事無く口を開く。


「今回のやつはな、俺が婚約した事もこうなった原因の一つらしい」

「え、」


 顔を赤くしていたアンネマリーだったが、エドウィンの言葉に段々と顔色を無くしていく。


「どういう事?」


 思考が止まる前に疑問を伝えれば、エドウィンは大きく溜息を吐いた。


「ある令嬢にずっと言い寄られていてな」

「うん」

「それの親が今回、俺の婚約で暴挙に出たらしい」

「うん?」


 説明をされるが、アンネマリーにはあまり理解出来なかった。何故エドウィンの婚約と皇太子暗殺がイコールになるのか。寧ろエドウィンの婚約が決まったのであれば、それで落ち着くものだろう。


「理解出来ない私が馬鹿なのかしら」


 幾ら考えても点と点が繋がらず、アンネマリーは頭を捻る。だがエドウィンも同じの様で低く唸った。


「俺も分からない。だが、父と兄の話だとそうらしい。まあ、他にも幾つか要因はある様だが、婚約も理由の一つだろうと」


 再び溜息を溢したエドウィンはアンネマリーの肩に頭を預ける。


「折角婚約したのに、こうも早々離されるとは」


 気落ちした声で呟かれ、寂しがっているのは自分だけではないのだとアンネマリーは理解する。それに少し心が温かくなった。


 アンネマリーはポンポンと肩にある頭を撫でる。直立していると自分より遥か背の高い男が背中を丸めて甘えているのが酷く愛おしく感じた。


(愛おしい、か)


 自分の中の確かな変化を感じ、こそばゆさを覚える。不愉快さは無い。受け入れていこう。


「待ってる。早く帰ってきて」


 エドウィンの黒い髪を撫でながらアンネマリーがそう言えば、耳元で『待っててくれ』と力強い声が聞こえた。


 出発は五日後である。




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