終章 最終話 黒の舞師
ひと目見ればあなたと分かる
あなたがそうだと魂が気づく――
桃色の花びらが吹雪いている。
しんしんと天から降り注ぐ雪のように、音もなく。
幾本あるのか、数えきれぬほどの桜の木々。春もたけなわ、淡くはかない色の花が満開だ。
「こんな山奥まで、ようお越しくださいました。ひと目千本。村人はそう言い表しますが、実はそれ以上ございますよ」
鳶色の髪を結い上げた婦人が誇らしげに、目前に広がる桜並木を指さす。
一面桃色の花びらに覆われた、なだらかな坂道。その両脇にずらりと、桜の木が連なっている。
杖を突いて婦人についてくる老神官が、感嘆の声をあげた。
「すばらしい! 千桜郷。その名の通りの、秘境ですな」
老神官は太陽の神官であるようだ。朱の衣をまとい、元老院議員のしるしである紫の帯を締め、水晶の伝信玉を入れた錦の袋を胸に下げている。まばゆい金の髪は老いて白く、背は湾曲しており、右手に持つ杖にすがって、ゆっくり進んでいる。
婦人は誇らしげに桜の並木道を自慢した。
「先日、西方のお国からはるばる、お花屋さんが参りましてね。挿し木用の枝をお求めになっていかれました。どこぞの王宮から、最上の桜を植えるよう依頼されたとかで。たしかお店の名前は、サンテクフィオンとか仰いましたかねえ」
風が踊る。軽やかに、華やかな並木道を吹き抜ける。
流れる風はかぐわしく、ぽかぽかと暖かい。天上で輝く天照らし様の光が煌々と、桃色の花びらが積もっていく大地を照らしている。
老神官は坂道の中ほどで立ち止まり、伝信玉を錦の袋から出した。透明なその玉をかかげ、桜吹雪が舞う美しい並木道を映して、幻像として保存しはじめる。先導する婦人は、もう数歩前に進んで撮るとよろしいと、老神官を手招きした。
「みなここで足を止めます。村人も、数少ないまれびとも。奥の広場の桜が見えますゆえ」
「かたじけない。皇帝陛下も、これは見事なりと、驚嘆されるであろう」
「あれまあ、天子さまに幻像をご献上あそばすのですか。それは大変、光栄にございます」
「陛下におかれては、すめら各地の絶景を収めよとの思し召しであられるのでな。それで私は、皇国中を旅しているのだ。祁厳の滝や神秘なる須弥山、日霊草の花畑や、明州の都の摩天楼……これまでたくさんの地を訪れたが、ここはあまり人に知られておらぬようで、とても良い。さて、この村に来ているという舞踊団は、一体どこに?」
「はい。坂道を登り切ったところ。広場にいらっしゃいますよ」
ひとしきり水晶玉をかかげて幻像を撮ったあと、老神官は大儀そうに杖をついて、花びらに埋もれた坂道を登りきった。
前方に見えるは桜の木の円環。そびえ立つ谷間の岩壁がちょうど合わさるところに、円い広場がある。広場の奥には、小さな社が三つ建っている。太陽と月と星。三色の神殿だ。
朱の衣、白の衣、蒼の衣。それぞれのお社をあずかる神官が、広場の奥に並び立っている。
桜の木に囲まれた広場には、村人の輪があった。
竜蝶の血を引いているのだろう、鳶色の髪の者が多いが、黒髪の者や赤毛の者、金髪の者もいる。
彼らの手拍子を受けて奮いたつ、笛の音。小気味よい銅拍子。軽やかな琵琶。
ぴーひゃらしゃんしゃん、びいんびいん。演奏しているのは、白い千早を羽織った年配の男女だ。
村人の輪の中で、鮮やかな色が弾けた。
真紅や深緑、水に橙。様々な色の裳が、花吹雪の空に舞い上がる。
村人の輪の中にいるのは、白い千早を羽織った舞姫たちだ。
数えれば十二人、乙女らはくるくると舞い、軽やかな風を起こしていた。
老神官は思わず水晶の玉を掲げて、夢中で幻像を撮った。
「花びらの乱舞。躍動する裳の海。なんと美しい……!」
艶やかに。華やかに。娘たちは舞い踊る。
出自は様々なようだ。太陽の神官族たる、金髪の娘。月の神官族であろう、藍色の髪の娘。星の神官族に違いない、うす蒼の髪の娘。鳶色の髪の娘は、まごうことなく竜蝶だ。平民の出らしい、黒髪の娘もいる。
娘たちが作り出す風が、地に落ちようとする桜の花びらをぐるぐるとうねらせる。それは大きな渦を成し、天を突くような高さまで舞い上がり、村人たちの頭上に、優しく降りかかっていた。
あたかも、かぐわしい花の女神が与える、祝福のごとくに。
「さすが、戦皇陛下の巫女団ですな」
「戦皇?」
「ああいや、今は舞師様と呼ばれておるのでしたな。あの御方は」
きょとんと小首を傾げる婦人に、老神官は目を細めた。
脳裏に浮かぶのは、はるか昔のこと。
かつて、すめらの宮処が滅びかける災厄が起こった。
炎の雨が降り、恐ろしい悪鬼が蘇った。空に黒き龍がうねり、数多の兵がすめらを守るために散っていったのだ。
果敢にも立ち上がったのは、しろがねの髪豊かな竜蝶の女帝。
戦皇と呼ばれたかの人が悪鬼を鎮めて、半世紀がたとうとしている――
「すめらは少しずつ、変わっていった。時をかけて、今のような開かれた国になっていった」
月神殿は昔と変わらず、民を教え、導いている。
なれど民は、髪を必ず黒に染めたり、肌を茶色に塗らなくてもよくなった。
様々な色合いの頭髪と肌色が当たり前になり、着るものも西方風であったり、地方の民族衣装であったり、自分が好むものを自由にまとえるようになった。
竜蝶は飼われるものではなくなり、甘い体臭を消す薬を飲んで、人々と共存している。隠れ里を出て、街に住む者が増えている。
案内役の婦人は、しみじみと語った。
「変化ですか。そうですね。わが村も変わりました。竜蝶の隠れ里だったこの村は、一度滅びました。生き残りが戻り、ふもとの人々と交わって数を増やし、ついには桜の名所となるなんて、思いもしませんでしたよ」
「おや。桜の木が植えられたのは、そんなに昔のことではないのですか?」
「ええ、四十年たとうかというところです。桜の木は、シズリという竜蝶がもたらしたのです。シズリは東の果ての日出国、そうあの、反乱を起こして独立した国へ亡命したのですが、その後、かの国の象徴である木をたくさん、生まれ故郷のこの村に贈ってきました。母君が眠る地を、美しく飾りたいという理由で」
「ああ、亡命騒ぎ。あれは痛恨の……いや、今は懐かしい事件ですな。シズリどのはこっそり反乱軍と通じて出国し、日出国の建国の英雄の妃となった。いやはや、あの人は今は、日出国の皇太后であられる」
「でも先日やっと、すめらと和平条約を結んだそうで、めでたしですねえ。王位を継いだお世継ぎは、穏やかな賢君とのことで、ほんによろしいことです」
すめらの民は、異国のことを詳しく知ることができるようになった。
どこの州のどんな小さな神殿でも、大陸同盟が発する大陸公報を受け取るようになったからだ。
異国との貿易もさかんだ。身分を問わず誰もが行えるので、大きな都市だけでなく、辺境の小さな村でも、異国の品々が豊富に手に入る。
異国に行くことは、もはや珍しいことではない。
鏡が支配していた頃は、政庁の高官ですら、勅令なしで出国することはできなかったが、今は誰もが自由に出国できる。男女も種族も身分も、問われることなく。好きな時に、好きな方法で、どこにでも行けるのだ。
老神官をいざなった婦人は、菫色の瞳で舞踊団の舞をうっとり眺めた。
「私は昨年レンディールの州都フロリアーレに行きまして、芸術祭なるものを見てまいりました。長年コツコツ貯めた旅費で州都から船に乗っていきましたが、船は私と同じ観光客でぎゅうぎゅうづめでした。かの国の公認舞踊団の舞は、とてもすばらしいものでした。ああでも、我が村に来てくれたこの舞踊団こそ、大陸一に間違いないでしょう」
老神官は全面的に同意すると言って深くうなずいた。
「人知れぬ秘境に住むあなたも、外国旅行を楽しんでおられるのか。私も行きましたぞ。フロリアーレの芸術祭に。そして今、あなたと同じことを思っている。眼前で舞うこの舞踊団こそ、あの芸術祭で、あの立派な劇場で舞うに一番ふさわしいと」
銅拍子がひときわ高く拍子を打つ。
村人の輪の中で舞う娘たちが、左右に割れる。
娘たちは、神官たちが立っているところに視線を向けた。
朱の衣をまとう太陽の神官の背後から、しろがねの髪をなびかせる娘が輪の中に入ってきた。
村人たちがやんやと喝采する。
「舞師様」
「舞師様だ!」
ああ、やはりまったく、お変わりない。
老神官はそうつぶやきながら、もっとよく見ようと杖を突いて、村人の輪の最前列に出た。
娘たちと同じ、白い千早に紅の袴。舞師は巫女の衣装に身を包んでいる。
先に舞っていた娘たちが歌い出す。くるくると、色鮮やかな裳を回して舞いながら。
ひと目見ればあなたとわかる
あなたがそうだと魂が気づく
たとえいっとき別れても
私たちは再び出会うのです
哀しみを越え 喜びを迎えて
私たちは知るのです
私たちは、出会いたい者に出会うのだと
それは、私たちが望んで決めていることだと
だからさあ、はばたきましょう
会いたい人のもとへ 自分の翼で
しろがねの髪の舞師は歌声を浴びながら、村人たちの輪の中央で舞った。
老神官は息を呑んだ。
舞師の始めのひと薙ぎで、七人の娘たちが起こした風が見事に、ひとつにまとまったのだ。
それは太くて強い風の柱となり、ぐるぐるとうねり、天へ昇っていった。
その風に乗り、しろがねの髪の舞師は飛んだ。
高く。高く。太陽が輝く天へ。
風が村人の頬を打つ。とたんに、どよめきが起こった。
「ああ、暖かい」
「ほんに癒やされる」
「おお、足が動く。痛みが薄らいでいく」
「母さん、ばあさまが、目が見えるって。桜の木がうっすら見えるって……!」
老神官は呆然と身をかがめ、おのが足に触れた。
このようなことがあるのだろうか。硬くなって半ば麻痺していた片足に、感覚が戻っている。
血が通って、暖かくなっているのが分かる。もしかして、杖なしでも歩けるのではなかろうか。
「なんとこれは」
驚く老神官の隣で、案内役の婦人が微笑んだ。
「噂には常々、聞いておりましたよ。舞師様は奇跡の風を起こすと。本当にそうかしらと思っておりましたが、まことのことでした。私の祖父は寝たきりでしたが、家人に運ばれて、この暖かい風を浴びたとたん、身を起こせるようになったのです」
「私も、そのような噂を耳にしておりましたが。まさか本当に……」
風が踊る。
暖かな風が、人々を包み込む。
風を薙ぐしろがねの髪の舞師が、目を細めてこちらを見ている。
「シンミンさん!」
舞師は嬉しげに声をあげた。
「お久しぶりです」
歓喜の声でその声はかき消されたけれど、老神官には聞こえた。
その口の動きではっきりと。
ひときわ大きな風がうねり、ごうと花吹雪が渦巻いた。
華麗に、優しく。
春の宵は暖かく、じわりと汗ばんでしまう。
まだまだ寒かろうと、厚着をしているからだ。しかし分厚い綿を裏打ちした着物は、もう脱いで良いだろう。
こぢんまりとした三色の神殿が並ぶ、広場の隅。桜の花びらが落ち続けるのを眺めながら、老神官は、長椅子のような形をした岩に腰を降ろした。
日が落ちて暗くなった広場に、人気はない。村人たちはほとんど、坂道の下に建ち並ぶ家に帰っていった。今日村に来ていたまれびとは、ほんの数人。夜桜を愛でようという者は、老神官しかいないようだ。
「大きな都では、灯り玉で木を照らして演出するところもあるが。ここは何もしていない。それが実に良い」
夜空には雲ひとつなく、しろがねの母月と小さな子どもの月が輝いている。
桜の木をうっすらはかなく照らす月光の美しさに、目を細めたとき。
「シンミンさん!」
三つ並ぶ、こぢんまりとした神殿の真ん中。太陽神殿からいそいそと、たれかが酒器を盆に載せてこちらへやってきた。目を凝らしてみれば、しろがねの髪豊かな舞師だ。舞踊団は数日前から、太陽神殿に泊まっているらしい。
老神官はやって来た舞師の前にひざまずき、深く頭を下げた。
「わざわざのお声がけ、恐縮に存じます」
「何年ぶりでしょうか、シンミンさん。お会いできて嬉しいです」
竜蝶の寿命は長い。しろがねの髪を腰まで垂らす舞師は、いまだ十代の娘のよう。月の光を浴びて、淡く光っている。まるで精霊のようだと、老神官は思った。
舞師は白い陶器の盃に香りよい酒を注いで、老神官に渡した。
「かたじけのうございます。舞師様の舞踊団とは、いつか相まみえることができるであろうと期待しておりました。念願が叶いまして、まこと嬉しく思います」
「シンミンさんは、いつから旅を?」
「五年ほど前からです。息子に役目を譲って帝室の警護役を辞したのですが、陛下の思し召しで、すめらの各地を幻像で収めることになりまして。なかなか、隠居させてもらえぬという有様で」
「ご信頼が篤くて何よりです」
「半世紀の間にすめらは百州から九十州となり、属州も半分手放しましたが、それでもまだまだ広大ですな。未踏の地がたくさんあります」
「あたしも、周りきれていません」
しろがねの髪の娘は、老神官と共に岩の長椅子に腰を降ろした。
「はじめは、大きな都や街へ行きました。人がたくさんいるところに。でも、あたしが生まれたこの村のように、人知れぬところに住む人は、思いのほか大勢います。竜蝶ではない、他の種族の者も。たくさん、たくさん、いるんです」
「他の種族……猫目族や巨人族、日鹿毛族などですね」
「猫目族は自治都市を造りました。すめらから離れた人間はもっといます。それとは反対に、いまだに旧い鏡を崇めて、すめらを旧態に戻したいと願う人々もいます。すめらを巡って、世界には本当に様々な人がいるのだと知りました。
あたしはこれからも各地をつぶさに見て回って、確かめたい。上位の世界でエリュシオンが手のひらに載せていた世界が、どれほど複雑で細やかで多様で、果てがないか、ということを」
「上位の世界。それはまたなんという……」
この御方はこの世ならざるところを知っているのだと、老神官は尊敬のまなざしを舞師に向けた。
「あたしは、みんなの、それぞれの思いを大事にしたい。だから舞いながらこう歌います。何を信じるかは、自分自身で決めることだと。誰に会いたいか、誰を愛するかは、あなた自身が決めることだと。あたしも、決めました。半世紀経ってやっと、この村に帰ろうと決めました。桜でこの地を埋めたシズリ姉さんにずっと遠慮していたけれど、日出国が歩み寄ってくれたから、勇気を出したんです。母さんが眠るところで風を贈れて、本当に嬉しかった」
「あれはまことに、奇跡の風です」
老神官が囁くと、しろがねの舞師は、あたしたちはただ舞っているだけですと微笑んだ。
「ありがたいことに、あたしたちの舞を見るために集まってくるのは、人間だけではありません。その地に宿る精霊たちがいつもたくさん集まってきて、一緒に歌い、舞ってくれるんです」
「なんと。では、奇跡の力は……」
「ええ、精霊たちの力です。彼らの息吹にふれると、人々はとても元気になるんです。あたしたちの力ではありません」
いや。精霊を呼べるなんて、本当にすごいことだ。
老神官は目を白黒させながら、酒杯に口をつけた。
ほんのり辛く、なれど糖蜜のように甘い酒が喉に染みわたっていく。
旅先で、舞師には弟子がたくさんいるとか、舞踊団が増えたとか、そんなことを聞いたと言うと、舞師ははにかんで答えた。
「そうですね。巫女たちに教えることはしょっちゅうあります。舞師の舞踊団は今、五つに増えて、すめらだけでなく、異国にも行っています。団長は、かつてあたしの女官を務めてくれた者や、腕の良い弟子たちが務めています。あと、あたしの娘も……」
「お嬢様のお噂は、湖黄殿の皇太后様よりお聞きしたことが。センタ州の公子のもとへ、嫁がれたとか」
「ええ、駆け落ちして。でもあちらで、あたしと同じようなことをしています」
――「おばあ様、お菓子です!」
太陽神殿から、盆にまんじゅうを載せた女童が駆けてきた。月明かりに光る、しろがね色の髪。
男勝りにも水干を着ていて、後ろに、琵琶をもつ白金の髪の老婆を従えている。
孫のツララと、団員のスヴェトだと、しろがねの舞師は二人を老神官に紹介した。
「孫娘は、どうしてもあたしに弟子入りしたいと言って、家出してきたんですよ。娘はぷんすか怒ってますけど、どこ吹く風です」
「だって母様より、おばあ様の方が断然、舞が上手だもの。シンミンさま、さあ、こっちよ」
孫娘は老神官の腕をとり、ぐいぐいと引っ張った。ここではだめだ、坂道を降りて行こうという。
「そこでお饅頭を召し上がって。スヴェト様の琵琶も、ぜひ聴いて。お月見をしましょうよ」
「おお、皆でですか」
「ううん、あたしたち二人とよ。おばあ様は、これからここで舞うの」
「む?」
少女に急かされた老神官は立ち上がり、坂道に向かった。右手に酒杯、左手に饅頭。そんな格好だったので杖を忘れたけれど、足は痛むことなく機敏に動いた。
「急いで。おじいさまが怒っちゃう」
孫娘が背中を押してくる。老神官がいぶかしげにふりかえると、広場の中央に黒い影が見えた。いつの間にそこに現れたのか、どうやらその人は、黒い衣をまとっているようだった。
しろがねの髪の舞師が、その人のもとへ近づいていく。
舞師は黒い人としばし、抱きあった。きつくきつく。もう二度と離れないと囁き合っているかのように。
「あれは……あの黒い人は……」
「おばあ様はね、昼間はみんなのために舞うの。だからみんなから、しろがねの舞師って呼ばれてるわ。でもね、夜になると、たったひとりのために舞うのよ。あの、真っ黒な人のために」
孫娘はくすくす笑いながら言った。おてんばにも、饅頭をぱくりとかじりながら。
「あの真っ黒な人は、あたしのおじい様。おばあ様は、おじい様が大好きで大好きでたまらないから、夜は、真っ黒なおじいさまのためだけの舞師になるの。そう、黒の舞師にね」
風が踊る。
桜吹雪が、月明かりに淡く光る。まるで雪のように白く輝いている。
しろがねの――否、黒の舞師は舞い始めた。
静寂なる月光が降り注ぐ中、ゆるりと優雅に、黒い影のような人を前にして。
無数の花びらが、艶やかに舞い上がる。
『ひと目見ればあなたと分かる』
たえなる声が、舞と共に流れてきた。
『あなたがそうだと魂が気づく』
「振り返らないで。見ちゃダメよ」
もっとよく見たいと立ち止まった老神官は、孫娘に背中を押された。
「おじい様は、ほんとは一日中、おばあ様を独り占めしたいんだから。あたしたちが見てるって気づいたら、すごく怒るわ。半日我慢するの、やーめたって言いだしかねないわ」
「そ、そうなのか」
「おじい様は気難しいのよ。どんな病気も治しちゃうすごい薬を作れる人なのに、おばあ様としか、ろくに口をきかないの。あたしのお母様のことはいつまでも赤ちゃんだと思ってて、結婚なんてもちろん大反対。だから駆け落ちしなきゃならなかったんだって、母様言ってたわ」
「な、なるほど」
「あたしのことは、腫れ物に触るみたいに扱うし。喋る剣とはいっつも喧嘩してるし。たまに遊びに来る赤毛さんやウサギさんには、やって来たとたんに帰れって追い払おうとするし。ほんとおじい様ったら、どうしようもないの。昔から全然変わらない、これからもきっと変わらないわねって、おばあ様は笑いながら言うけど。もうちょっと、愛想よくしないといけないと思うわ」
坂道の下にも広場がある。そこにそびえる一本桜を囲むように、村人たちの家が並んでいる。
一本桜は村を守る結界の芯となっているのだろう。幹には太い注連縄が結ばれていた。
孫娘はその木の根元に、老神官を座らせた。
白金の髪の老婆が、びいんびいんと琵琶をつま弾き始める。
老婆は昼間にも、見事な伴奏を奏でていた。月明かりに仄かに浮かび上がるその貌は鼻が高く、瞳は澄んだ水のように青い。
西方の出身であろう老婆の演奏を、老神官は満面の笑顔で聴いたが、すぐに、隣に座った孫娘がそわそわしているのに気づいた。
孫娘はぱくぱく、饅頭を食べている。その足はたたんたたんと、琵琶の音に合わせて調子をとっていて、今にも踊り出しそうだ。いや、足だけではない。体全体がそわそわ、動いている。
老神官はしばらくその様子を横目で見ていたが、ほどなく穏やかな声で言ってみた。
「どうだろう、よかったら、舞ってくれないだろうか」
「えっ?」
「いやその、こんなに素晴らしい曲を聴いたら、舞いたくなるのではないかと思ったのだ。舞い手というのは、そういうものだと聞いているからね」
孫娘の顔がたちまち、朝日を浴びたかのように明るく輝いた。
「あたし、まだまだ下手くそだから、遠慮してたの。だって前世でだって、舞を習ったことがなかったんだもの」
「えっ?」
「舞っていい? ほんとにいい?」
「あ、ああ、ぜひ。お願いするよ」
老神官がうなずいたとたん、孫娘は桜の木の前に飛び出した。
いきなり月に向かって高く飛び、軽やかに降りてくるくる回る。
琵琶を弾く老婆が、いつもながらの型破りだと、苦笑いした。
ひと目みればあなたと分かる
いとしい姉だと魂が気づく
少し音程が外れた声で、孫娘は歌い出した。
たとえいっとき別れても
あたしたちはまた出会うの
哀しみを越え 喜びを迎えて
まことのことを知るの
あたしたちは、出会いたい者に出会うのだと
それは、あたしたちが望んで決めているのだと
「舞はすばらしいが、歌はまだまだかな」
老神官は朗らかに笑い、しろがねの髪を揺らす孫娘をからかった。
孫娘は楽しげに歌いながら、舞い続けた。
そうして、しろがねの月の光の中に溶けていった。
高く。さらに高く。背に翼を生やして。
ねえさん ねえさん
だから、はばたいたのよ
あなたのもとへ 自分の翼で
――黒の舞師・了――
長い長いクナの物語、お付き合い下さいまして、どうもありがとうございました。
今話で黒の舞師は完結となります。
今後は番外編を少しずつ加えていったり、推敲をしていこうと思います。
勢いで書いたところも多々あるので、直したい……
もしかしたら、別のサイトで改稿版を一から更新するかもしれません。
いつかどこかで、また見つけてくださったら、嬉しいです。