第四章
第四章
一
テレビの上で液晶パネルが、午前三時十六分を示している。
芥子色のソファでファルア三号が一度だけ短く鳴いた。光る目がじっとこちらを見つめていた。
食事のときでさえめったに声をはりあげない高貴なアメリカンショートヘアなんだそうだ。価格という血統がなせるわざなのか、不思議と鳴き声にも品格があるような気がする。そのでっぷりとしたビジュアルはおいといて。
天井を見る。なにもない。冷たそうな白っぽい板。家とは違う、木目がない。目がない。見られていない。
ニァア、とまた鳴く。あからさまに友好的な声ではない。猫にまで責められているような気がした。
いや、そういうことじゃない。
たいしたことじゃない。
そう、たいしたことじゃない。
そうでもない。
あきらかに動揺しているのがわかった。
密着するほどすぐ近くで寝息を感じるたび笑いだしそうだった。人間、わけがわからなくなると笑うことしかできなくなるらしい。
未成年で酒を飲んだことをのぞけば問題はない、……はずだ。
うなされたように声をあげて寝返りをうった。豊かで長い髪がシーツをながれる。鈍く青い液晶の光を浴びていても、絹のようになめらかで、雪のように白い肌がほんのり上気しているのがわかった。
手を伸ばせばすぐに届く距離にある。さっきまで触れていたのに、いまは近寄れない。もう見れない。
また猫が鳴いた。
このひととはこうなってはいけなかったんじゃないだろうか。情けない。
彼女を起こさないよう注意しながらベッドから抜け出て、窓に近づく。ブラインドを指で押し開くと、眼下には月明かりに照らされた細い路地が見えた。怠慢な街灯の下で、缶ジュースの自動販売機だけが熱心に営業している。
高そうな1LK。最寄の駅にも歩いて十分ちょっとだというので条件もいい。入口に「ハイツ」と表記してあったことを思い出す。たしか「丘」の意味だったと思うが、響きが「high」を連想させるせいで、高級に感じるのかもしれない。
裏通りに面した鉄筋三階建てで、建物はそう新しいようでもないのだが、それほど年季が入っているようでもない。どんな理由か知らないが、来年には取り壊される予定だそうで住人もあまりいないそうだ。
窓際のテーブルに、昨夜彼女が吸っていたタバコを見つける。
おもむろに火をつけて、ゆっくり煙を吸った。喉に張りつくように苦い気体が充満して、くるしくなってむせた。
「……アキト?」
起こしてしまったようだった。
「ごめん」
あわてて煙草を消す。それを見てから彼女が身を起こす。
「眠れないの?」
小気味のいい音をたてそうな鎖骨が、作為的にも似た絶妙なラインで翼をひろげていた。
「なんとなく」
なんとなく彼女が呼んでいる気がして、ベッドのほうに戻った。
カオリが手を伸ばしてきた。望まれるまま指をからめる。引き寄せられ、汗のにおいとともに抱きしめられる。
お互い裸だったけど、もうそんなことを気にするほどはずかしくなかった。
「アキト、そばにいてね。私のこと好きなだけ利用していいから。ずっとここにいてね」
「どうして――そんなこと言えるんですか」
素直に受け入れてしまいたかった。けれどもそうやって甘んじてしまうことが自分の弱さのような気がして、とにかくまず否定したかった。
「好きなのよ。一緒にいたいの。それじゃあ、理由にならない?」
(他の誰かになら必要とされてると思っていたい……)
そんな言葉が聞こえた気がして、ふり払うように首を振った。
「どうしてオレなの」
他の誰かではなく、佐山晶人でなければならないという理由がほしかった。でも、上辺だけでいい。
上手にだましてほしかった。
「手探りで生きてるのよ。どこへ行ったらいいかわからないから。なにかを見つけようとがむしゃらになってるだけ。私は……そんな恋でもいいと思っている」
けれども彼女の口から出たのは、相手を賛美するような言葉ではなく、言い訳じみた弁解であった。
でも、よほど信じられた。
彼女は依存することで自分の存在価値を見いだそうとしている。さながら病的ともとれるほどだ。
「年下だよ」
「関係ない」
彼女は罪のなさそうな瞳をひたむきに輝かせていた。そこに幼さを宿した純粋を垣間見た気がした。
「でも、ヨネと付き合ってたんだ」
「そんなの――関係ない。アキトはヨネが好き?」
そうだ、関係ない。そんなことわかってる。わかってるけど。
「わからない。だけど――だからもう、ぼく、オレは……好きになれないかもしれない。きっと、たぶん誰も。――それでも、いい?」
一瞬困惑げに眉をひそめ、だがやがて観念したようにカオリはさみしそうに微笑んだ。
「そんなものね」
二
翌日、彼女の部屋から学校に通った。
誤解ばかりする津野には、放課後あたりさわりのない程度に事情を説明した。するとこうだ。
「ヤったのか」
昨夜はこっぴどく父親に叱られたらしい。けれどもひと言も主犯の名前をださなかったそうで、本来なら無視する質問だったが、多少なりとも負い目を感じていた。
「はやいな」
うらやましそうだった。初体験が早い、という意味だろうと思う。通りかかったバスケ部がふり返ったが、なんの会話かまではわからないはずだ。あいにく津野が思っているより、もう少しだけ早かったのだが。
「関口は中学ンときだって聞いた」
「すげエな」
すでに退学した人間の噂をするのは気が引けたが、他に共通の話題もなかった。
「しかも相手は、自分の姉ちゃんだって噂もある」
津野は血色の悪そうな歯茎を剥いて、興奮の表情だ。
「マジかよ、近親相姦だぜ!」
「でかい声だすなって、噂だって」
女子生徒の声がして、あわててふり返る。津野がバトミントン部の女子を目で追っていた。
放課後の体育館脇は思ったよりひと通りが多い。校門に向かおうとすると、半ズボンからのぞく濃いすね毛のガリガリ脚がくっついてきた。
「なんだよ、テニス部。そろそろ部活行けよ。また怒られるぞ」
「別にいいじゃねぇか、帰宅部」
どうでもいいのだが、無所属が帰宅部と呼ばれるのは腑に落ちない。春にクラブ活動の希望を書かされたが、帰宅部という項目はなかった。
「昨日の美人いくつなんだ」
どうもカオリが気になっているらしい。ちょっとだけ誇らしい気持ちになった。
「十九」
「マジかよ」
マジだよ。たかだか歳の差三つじゃないか。世の中にはそんなカップル、掃いて捨てるほどいるのに、無知なる若さと高校生と大学生という段階制度の認識が枷になる。
(――ヨネは二十八だ)
また思い出してしまった。まだどうでもいいことではないからだろう。
クラクションが鳴った。そんなことしなくても、さっきから気づいていた。校門の前に、黄色のフォルクスワーゲン・ニュービートルが停まっている。
津野は目が悪い。牛乳ビンの底のような分厚いメガネの下で、つぶらな目を精一杯細めている。そうするといつも以上にコミカルな顔つきになる。
「いい女だな」
セリフが気に食わなかった。それで怒るのもみっともないので、無視してクルマの方へ向かう。
「いいなあ、美人に迎えに来てもらえて」
捨て台詞なのか負け惜しみなのか、ただの嫌味なのか、どうでもよかったけれど、他にも誰か聞いていないだろうかと思った。なんだかちょっとだけ、他人より優越感にひたれている気がした。
「おかえり」
カオリが笑った。開花の音だった。
彼女は大学をやめると言っていた。理由を聞いても教えてくれなかった。本人は否定しているが、ヨネに会いづらいからだろう。そのくせ高校へはちゃんと行けと言う。説得力がない。
あとはあれだ。佐山家からは自転車ですぐの通学距離だったが、これからはそうはいかない。カオリの部屋が駅に近くても、路線が違うらしく、通りすぎてから乗り換えて戻る、といった田舎ならではの意地悪な方法しかなかった。それなら電車を使わず、「送り迎えしたげるよ」と言ったのである。
連れだしたことに責任を感じているのかもしれない。その行為が自分の大学生活を犠牲にするに値するものだったのか、そのへんのことはよくわからない。
「どう、ひと月ぶりの学校は」
景色が走りだす。
「補習がついた。全教科」
「やったじゃん。退学だって心配してたんでしょう」
「心配してたのカオリのほうだろ。オレはどっちでもよかったんだけど――問題児だから。まあ退学なんてさしたら、学校側としては世間に勘繰られるかもしれないからね」
「そういうのを関係ないって言うんだよ」
うれしそうだったので、それ以上なにも聞かなかった。
「あのね。駅前の角にさ、アップルタルトのおいしいお店があるらしいの」
「行くの?」
「うん、まあそのうち」
口調を変えないで、まるで笑い話でもするように彼女は語りだした。
「前にもちょっと言ったけど、私もさ、高校のときにいじめられててさ。そんで登校拒否とかしてたんだよねー」
「うん」
「言ってなかったけど、ウチの親――ちょっとしたお役所のひとでね、ひょっとしたらテレビなんかで見たこともあるかもしれないんだけど」
え。……木更津幹彦外相のことだろうか。
「そうなの?」
ついこのあいだのニュースの政治コーナーで見たばかりなので、名前は知っていた。顔はあんまり思い出せないが。苗字が彼女と一緒だったので、なんとなく記憶に残っていた。
「どうなのかな」
曖昧にカオリは言葉を濁した。
「そういう環境だったからさ、なんていうのかな――ひと言でいうと浮いてたのよね。あとお金持ちで鼻持ちならないお嬢さま、みたいに思われてたみたい。そういうのがわかったから学校行くのイヤになってね。
そのときは結局、また学校行ったんだけど、なんか違ってたのよね。教室に入った瞬間、私の知ってるクラスじゃなかったっていうか。うーん、想像できるかな」
ちらりとこちらを見た。でも彼女の顔は見ないようにしていた。
「クラス全員、誰ひとり一週間前と変わってなかったのに、全然違うようになっていた。――ううん、そうじゃないな。木更津香織がいなかった。そうそう、いないことが当たり前になっていたって感じかな。私ひとりいなくたって授業はあるし、進んでるからわけわかんなかったし。なんか取り残された感じがあったのよね。それにくわえて、登校拒否してたっていうマイナスイメージで見られてて、みんなの態度がよそよそしくなっていた。あからさまに無視とかされるようになって。つらかったなぁ。うん、いられなかった」
それはわかるような気がした。
「それから一年生の後半はずっと引きこもり。あんまり干渉してこない家庭だから、ほとんどなにも言われなかったんだけど。良かったのか悪かったのかいまだにわからないけど」
走っている道が、行きと違うことに気がついた。
「どこ行くの」
「ああ、ゴメン。礼子んトコ。あんな調子だけど、アキトのこと結構心配してたんだよ」
たった二回しか会ったことがないのに、気にかけてもらっているのかと思うと、申し訳なさとともに胸が不思議と熱くなった。
「それからどうしたの」
そんなうれしさがなんとなく気恥ずかしくて、とっさに話題を戻した。
「春休み返上で補習受けさせられた。担任に説得されたっていうか。そしたら無事進級できましたと。けど二年になってからも、やっぱり行ったり行かなかったりがあって、そのぶんは夏休みとか冬休み使った。先生ゴメンね、って感じだね。三年のときはさすがに真面目に行ったから、こうして卒業できたんだけどね」
その頃に藤堂さんと会ったことになるのか。そう思うと、胸の奥で複雑な渦が巻いてしまう。
「学校、行きたかったの」
友だちだってそんなにいなかったみたいだし、藤堂さんは大学だから高校に行ったところで――
「うーん、どうだろう。世間的っていうかさ、これだけは行かなきゃって思ったのかな。そうしないと、本当に私は仲間はずれだって。――いまになって思えば、そうやって自分を世間の『箱』に入れて落ち着かせようとしてたのかもね」
「…………」
「人間はね、定められた居場所がほしいんじゃないかって思うのよ。家でも会社でも学校でもどこでもいいんだけど、安心できる『箱』がほしいの。そこにあてはめてないと不安な気持ちになる。型にはずれて生きるのはとても怖いことだから、よっぽど意志が強くないと」
「わからないよ」
彼女はよく居場所、という言葉を使うけれど、それがどういうものなのかまだよくわからない。
「同じことをしてる集団に入りたいなんて。学校なんて典型的な『箱』だよ。同じ大きさの箱がいくつもあって、その中で同じ服着て同じ授業受けて、同じテストをして。それで優劣つけて評価される。足が速ければ優秀で? 成績が良ければ良い大学に良い就職先? わざわざ表面化させて区別しやすくしている。本当に選別するための『箱』だ」
「そうかもね」
カオリはそれきりなにも言わなかった。
鮮明なほど橙をおびた空の下、見覚えのある景色に気がつく。
そのうちに防風林の間から夕日が見え隠れしだす。赤くて大きくなった太陽が、溶けた飴のようだった。
木々の裂け目を縫うように抜けると、海にでた。
それはただの海だ。大きく広がった水があるだけ。形成物質の細分化だってできる。格別な思い入れもない。なのに、どうしてか感慨深い。
昨日、再会した浜辺で彼女は車を停めた。
窓を開けると冷たい潮風が流れ込んできた。
カオリは無言のまま、夕焼けに染まる海を見ていた。満潮の波音。風に髪がさらわれ、小さな耳と真っ白なうなじが飛び込んでくる。
ゆっくりふり向いた。夕日を浴びた表情はかすかな憂いがあって、それがとても美しく感じられた。
胸を強く締めつけるような、けれども心地よい痛みを残した感情が、くすぶりのようにとどまっていた。
どちらからともなく、くちびるが近づいていく。
次の一瞬、くちびるは身体でもっとも敏感で、器官は単独の触覚になる。
「好きよ」
真摯な表情が見つめていた。その顔には形がなかった。器が見えなかった。
彼女が木更津香織だ。
そしてもう一度言った。
「好きよ」
まばたきを忘れてしまったかのように見開かれたままの大きな目。濡れて光るきれいな目。本質だけがどこまでもひたむきに見つめていた。
「そばにいてくれるだけでいい。いてほしい。アキト、ずっとそばにいて。アキトが望むなら、私はどんなことだってできる」
それはゆっくりと染み込んできた。
「見返りなんて求めない。愛情の押し売りだってあきれてくれてもいい。でも、どうか私を否定しないで」
蜘蛛が吐きだす糸のよう――論理にも似た大きな巣を編もうとする。
「私を好きになってなんて言えないけど、私がアキトを好きなことは認めて。許してね」
首筋にからみついてくる腕が、とても重量感があった。
「そして、どんなことでもいいから。他愛のない話でも相談でも、どんなことでもいいから私を頼って。必要として。利用して。そして安心を。私はここにいてもいいんだって思える世界を――居場所をちょうだい」
知らずにあふれていた。それが彼女のすべてだ。
しかし、まだ取り返せる。
自分を押しつけようとするカオリ。それが本物であったとしても――重いのだ。
けれど、それが木更津香織なのだ。
認めなさい。
今日の夕日はいつもより赤いようだった。
三
たぶんそれは、天文学数字ほどの確率なんだと思う。
礼子さんが不機嫌そうに眉をしかめている。こんな言い方をするのは失礼かもしれないが、このひとにも人並みの感情があったらしい。
店に入るなり、カオリを店の奥に連れ込んでなんだかわからないことを問いつめていた。
「なに考えてるの」
小声だったが礼子さんの鋭い一瞥を向けられて、どうやら自分のこと言っているのだとすぐに気がついた。
「なにって、どういうこと」
「遥のこと」
「ああ」
困惑したようにカオリもこちらを見た。
「ひょっとして、礼子のほうに問い合わせがきちゃったりとかしたわけ」
「迷惑なことにね」
「あー、ゴメン」
両手を合わせてウインクするカオリ。
「心こもってない」
「礼子に言われたくないな」
「遥の気持ちも考えなさい」
「アキトと私の気持ちを優先した」
からからと笑う。
「それでさ、礼子。なんて答えてくれたの」
白い額に手をあてながら、礼子さんが首を振った。
「あなたがさらったなんて言えないでしょう。知らないって答えたわよ」
「わ。さっすが。持つべきはね」
「冗談じゃない。泣いてたわよ」
「知、ら、な、い。ねえ、そろそろコーヒー出してくれない」
カオリは怒っているようだった。
あきらめたようにため息をつく礼子さん。
「そのとぼけたアタマ、覚めさせてあげようか」
「にっがーいのとか、まっずーいのはお断りよ」
そう叫んでからころっと表情を変えて、にこやかな顔で向かいの席に着いた。
「ごめんね、アキト。嫌な気にならなかった? やぁねえ、二十代もあとちょっとのおばさんて」
不意にカウンターのほうから物が割れる音がした。びっくりしてふり向くと、礼子さんがいつも通りの無表情で気だるそうに髪をかきあげていた。
「弁償代、ツケとく」
「わざと割ったんでしょう! ほら、アキトが怖がってるじゃない」
「だれのせい?」
なんとなく険悪になってきたので、仲裁に入ることにした。
「ちょっと、ねえ。なんですか、二人ともさっきから。どうしたんです、遥って誰なんですか」
「……ヨネの本名」
不機嫌そうにカオリが言った。
「ヨネがね、アキトを返せって言ってるらしいの。そんなの言いがかりでしょう。ふざけるなって感じ」
「おぼえておきなさい。世間じゃ誘拐っていうわ」
礼子さんがコーヒーのカップを二つ持ってやってきた。このひともヨネと面識があるようなのだ。なんだか狭い世の中だ。
「一晩外泊しただけでしょう」
「前にも一回あったって聞いた」
「それは関係ない。アキトはヨネのものじゃないわ」
「論点がずれてる。遥は関係ない。返すのは保護者のところ。親御さんが警察に捜索願い出してたらどうするのよ。連絡してないんでしょう。未成年者略取の疑いで、あなた立派な誘拐犯よ」
疑い、では犯人にはならないだろうと思ったがだまっていた。変に口をはさまないほうがよさそうなので、そのままカップを取る。
「礼子はヨネの味方なんだ」
おもしろくなさそうにカオリが鼻を鳴らす。
「一生懸命なのはわかるけど、この子のこと考えたらなにが一番かわからないの」
「アキトは私といるのが一番なの」
「あなたが、でしょう」
カオリがくちびるを突きだした。なんだかここでのカオリは、見たことないような顔ばかりで新鮮だ。
「アキトだって帰りたくないのよ。それなら同意でしょう」
「世間的にはそう見てもらえない」
「なんでよ」
「子ども」
おもむろに礼子さんがこっちに視線を移してきた。どうせ子どもよ、とカオリがそっぽを向く。
「どう?」
なめらかに彼女の口からもれたのは、きっともっと違う意味なんだろうと思った。
「……これが、まえ言っていた?」
カップを置いて、彼女を見る。礼子さんは真顔のままだったが、なんだか満足しているようだった。
「おいしいです」
吐息のようにこぼれた。
本当においしかったのだ。おかしな表現だと思う。食べ物も飲み物も、人間はおいしいと表現する。たとえば濃厚なコクとか修飾する言葉はあっても、結局は美味いか不味いかに集約される。修飾は説明のためであって、説明する必要がなければ使用しなければいい。
だから、礼子さんに返す感想はそれだけで充分だった。彼女もそれをわかっていたはずだから、やさしい顔をしているのだろう。
カオリはわけがわからないようで、うろたえていた。
「なんで私だけのけ者にするの。ちょっと礼子、いつのまにアキトを手なずけたのよ。ずるいじゃない」
「口の悪い女。冷めないうちに飲みなさい」
そこで思いあたったのか、あわててカオリはテーブルに視線を落とす。
「え。もしかして礼子専用のブレンド? うそ。いつ頼んでも飲ませてくれなかった?」
どうやら完全な裏メニューらしい。
「ちょっとは落ち着きなさい。本当に子どもなんだから」
むっと顔をしかめたが、すぐにカップに手を伸ばした。ゆっくり持ちあげて、香りをたしかめるようにしてから口をつける。
カオリの頬が赤くなった。目の色が違う。
「なにこれ」
礼子さんは黙して目を閉じた。
「ずるいよ」
「本業の強み」
「卑怯じゃない」
「なんとでも」
「ねぇ、れーこォ」
「企業秘密」
このブレンドには、二人の間でなにか因縁があるようだった。
「そういえばアキト」
いきなり顔を輝かせてふり向く。
「砂糖、入れてないんじゃない。うわぁ、すごいじゃん。大人の味わかった?」
礼子さんと顔を見あわせた。
「な、なんでふたりして笑うの。もう! ちょっと、アキト。礼子まで」
やっぱり天文学的確率なんだろうか。礼子さんが笑っていた。普段の魂の宿らない人形のような姿より、ずっとずっと魅力的だった。
「もぅ帰るよ、アキト」
言うが早いか立ちあがると、すぐに礼子さんに止められた。
「待ちなさい。遥のことどうするの」
「ごめん、なかったことにして」
「怒るよ」
カオリは大真面目に答えた。
「礼子には悪いと思ってる。でも、やっぱりそんなのイヤよ。アキトは私が守るの」
「あなた、言ってて恥ずかしくない」
「アキトはどうしたい」
まだコーヒーが残っていたので座ったままだ。
「好きにしてくれ」
どうしたいのか、自分でもまだわからなかったのだ。
「まあ、魅力的な言葉。今度は別の機会に言ってほしいわ」
ぱっと表情を輝かせ、カオリはとても上品にウインクした。
四
ヨネがさがしている。
それは佐山家のお手伝いさんとしてなのか、彼女個人としてなのか。
さっきの礼子さんとカオリのやりとりだと、どうも後者のほうが強い感じだった。おかしな気分だ。
だったらなんで……
(昨夜――書斎で……)
吐き気がする。思い出そうとすると、切なさでない苦しみが胸を締めた。
いまになってヨネの丸顔も赤縁のメガネも、口をにゅっと横に伸ばした独特の笑いかたも、胸が痛んだけれど、すべてが偽物に思えた。
薄情なものだ。ヨネが好きだ――そう思っていたのに、いまはそれとは正反対の感情が生まれつつある。
たった一日で好きだったひとを嫌いになれる。
なぜだろう。
好きだから。信じていたから?
裏切られた悔しさじゃない。
どうして。
理解できなかったからだ。彼女を。認めることができなかったからだ。
それは、少しまえの自分の境遇に似ている。
異端の排除。
理解できないから嫌い、しりぞけ、認められないから虐げる。
(わかってあげたいの)
カオリの声がした気がして顔をあげた。
黄色いソファの腕に、もたれるように眠っていた。飲みかけのグラスがテーブルの上に置いてある。
彼女なりに思うところがあったのだろう。さっきまで険しい顔をして、スコッチを猫のように舐めていた。未成年のくせに。
眠る彼女の脇で、寄り添うようにファルア三号が薄目を開けて座っていた。ファルアと呼ぶと、両耳をぺったり伏せてそっぽを向く。やっぱり嫌われているらしい。
カオリの飲みかけのグラスを取る。氷が溶けてしまって、表面は結露で濡れていた。
ソファの反対側に座る。座部が重みに沈む。結構年季がはいってる感じで、クッションがくたびれている。
水と区別のつかないようなスコッチをひと口飲む。ため息をついて体を伸ばす。一瞥してから、緩慢に猫が逃げていった。
カオリが目を覚ました。
「……寝ちゃった。何時?」
「もうすぐ十二時」
「本当。明日のお弁当なにがいい?」
「なんでもいい。カオリが作ってくれたものなら」
「殺し文句ね」
グラスを奪われた。三分の一ぐらいだったが、一気にあおる。カオリが近づいてくる。また沈んだ。
すぐそばに表情があった。熱い息だった。くちびるが焼けた。
「あのさ」
聞きたかった。
ヨネは守ってあげたい男の子なんて言ってた。さっきカオリも、私が守ると言った。女に守られるから「男の子」なんだろう。それは恋愛感情になるんだろうか。
――からかわれてるんじゃないだろうか。
「どうしたの」
「なんでもない」
こんなことを言ってしまったら、また彼女を傷つけてしまうかもしれない。
口をとがらす。
「言いかけてやめるの卑怯」
「ごめん」
「なんで謝るの」
「わかんない」
笑ってみせた。つられたようにカオリも笑う。
「酔ってるんじゃない」
「ひと口しか飲んでない。そっちこそ酔ってるんじゃない」
「酔ってるわ」
そう言って彼女はもう一度キスしてきた。アルコールの匂いがこぼれた。
「カオリ」
つぶやく。
「なあに」
見つめかえす瞳。うるんでいた。
「愛の告白?」
「……いや」
「いやじゃなくて。……して」
目をそらそうとすると、すぐに両手で顔をはさまれて固定される。真剣な表情だった。すがるような光があった。
なんだよ、クルマのなかじゃ「好きになってなんて言えないけど」なんて愁傷なこと言ってたくせに。
好きか嫌いかといえば、もちろん好きだ。
言葉にするのは簡単だ。けれど、それに意味を持たせることができない。彼女が望んでいる「好き」と度合いが違うような気がしたからだ。
意味のない言葉は、本心からでた言葉ではない。それはすなわち彼女の嫌う「嘘」であり、言うのをためらうには充分な理由ではないか。
ヨネもカオリも好きだと言ってくれる。彼女たちがもしそう言ってくれなければ、きっと好意のバロメータは規定以上の数値をはじきだしたりはしなかっただろう。
好きになられないと好きになれない。裏を返せば、好かれているかどうか不安なのだ。裏切られるのが怖いから、相手が好きでいてくれるかぎりそんな心配をしないですむ。
とても卑怯だ。
けれど、なんだか似ている。
(誰かに必要とされてないと)
(おまえは要るやつなんだって)
やっぱり似ている。
すごい脆い自分がいて、いつも頑丈な鎧を身に着けている。そいつは武器を持ってない相手にも盾を構える臆病なやつだ。そのくせ本体はいつもハングリーで、甘いエサをつきつけられるとつい無防備になってしまう。
飢えているのは――おそらく他人とのつながりだ。それがどういう形であれ、自分を支えてくれるもの、励ましてくれるもの、認めてくれるもの、そういったものに違いない。
おそらく彼女が望むのは、そういう「愛」だ。
そもそも愛なんて定義できるものなんだろうか。まったくの未知だ。範囲は? 度合いは? 制限も際限も、なにもかもわからない。
見えないからだろうか。見えないからわからない。
いや。
見えたら伝える必要なんてない。
――見えないからこそ、そこにあると言えるのではないか。
「ごめんね……」
なにも言わなかったからなのか、カオリがあごを引いて離れる。
あわてて腕をとった。細い腕だった。
抱きしめた。
本当に驚いているようで、華奢な体は強張っている。緊張がほどけてきたのを確認してから、ゆっくりと今日何度目かのキスをした。
「いいね。積極的で」
照れくさそうなカオリが見つめていた。
「好きでない子とキスなんてしないもんね、アキトは。……ごめんね」
「なんで謝るんだよ」
「わかんない」
「ずるいな」
「おたがいさまだよ」
手ぐしで前髪を整えながら、カオリが真っ赤な顔で立ちあがった。
「えっと。シャワー浴びて寝よっか」
背を向ける彼女にあわてて声をかける。
「あ、あのさ」
いままでにない感情だった。
「いい男になるよ、オレ。カオリにはずかしくないぐらい」
こういうのもわりといいと思う。
「なに言ってんの。アキトはいい男だよ」
「子どもだからさ」
タンスからバスタオルをだしてたカオリが、驚き、困ったような顔で戻ってきた。
「私が言ったこと気にしてるの。ご、ごめん、そういうつもりじゃ……」
「違うよ。自分で思ったんだ。努力しなきゃって。子どもみたいに、自分の都合でわがまま言うのやめなきゃって。カオリにはまだ迷惑かけるかもしれないけど」
白くて長い指が五本伸びてきた。握手を求めているようだった。見あげる。
これまで見たことがないほど素敵な笑顔だった。
「がんばろう。アキトはやればできる子だもんね。私にはわかる」
「だから、子はやめてくれって」
舌をだす。
「私だってしっかりしなきゃね。どんなに強がったって、結局弱い女じゃダメなのよ。一緒に強くなろうね」
彼女は、そういう支えあって一緒に歩いてくれるパートナーがほしかったんだ。
うっすらと目許がうるんでいる。握手をした。その途端に泣きだしそうな顔になった。それでも必死に堪えている。
泣かれたらやっぱり困るので、あわてて話題を変えた。
「そういえば、ヨネって遥って名前だったんだね。知らなかった」
「なに、本当に知らなかったんだ。変なの」
彼女もすぐに乗ってくれる。じつは着拒してたんだけど、と白状した。
「関口遥っていうのよ、本名」
チャイムが鳴った。
なんの前触れもなくいきなり。二、三回たてつづけに。もう午前零時をすぎている。
「なによ、感じ悪い」
玄関に出ていったカオリが、すぐに足音を忍ばせて帰ってきた。その間もずっと、まるで子どものいたずらのように短いインターバルで鳴り続いている。
「超怖い。ヨネが来た。どうしよう。ホラー映画みたいな顔してる」
五
そこにはトレードマークの赤縁メガネをかけた、愛嬌のある丸顔がニコニコしていた。
「いきなり学校やめちゃったって聞いて。どうしちゃったんです。なにかあったんなら、相談してくれればいいじゃないですか」
カオリは警戒するように両手を広げ、せまい戸口をふさいでいる。隠れろと言われたがそんな理由もないし、自分に関わることでもあるので、彼女の後ろで様子を窺っていた。
ヨネのほうはまるでこちらに関心がないようで、ごく自然にカオリと話している。
通路の照明が時折点滅する。くすんだコンクリートの壁と床に、影が映っては消えた。
「アーちゃんも心配してましたよォ。教授なんかちょっと荒れてて、来週レポート提出だって」
カオリの頭は微動だにしない。一部の隙もみせずヨネを見据えている、という感じだった。背中からも彼女の緊張感が伝わってくる。
「それは……悪かったわね。それで、ヨネ子さまはこんな時間になんのよう? まさかとは思うけど、復学のお願いじゃないわよね」
「違いますよぅ」
おもむろにヨネは肩にかけていたトートバッグに手を入れた。包丁かなにか出てきそうな気がして、とっさにカオリを引き戻す。
ヨネが取り出したのは、白いかわいらしい紙の小箱だった。
「いくらなんでも、本人が考えて決めたことを変えさせるなんてできないじゃないですか。――ほら、駅前の。まえにキサちゃんが食べたいって言ってたアップルタルト。アキちゃんの分もちゃんとありますよ。仲良く食べてくださいね」
そのときになって、はじめてヨネと目があった。それはなんら変わりない、ずっとヨネと呼び親しんでいた女性の優しい瞳だった。
「こんな遅くに本当にごめんなさい。それじゃ私は帰りますんで。アキちゃん、あんまりお父さまに心配かけてはだめですよ」
呼び止めるまもなく駆けだす。
しばらく呆然と立ちつくしていたカオリは、はっとしたように飛びだした。
「遥!」
通路から身を乗り出すと、もう階段をおりて表の道路にいたヨネがふり返った。
三階から見る彼女の姿は、外灯の下でなんだかさみしそうで、いつもよりずっと小さく感じられた。
「ありがとうね」
カオリが叫んだ。
見あげたヨネは口のはしをひっぱるような笑顔をうかべた。どんなときでも彼女はそうして笑っていた気がする。それなのにいまは、いまだけはなんだか泣いているように見えた。
アップルタルトの箱には、もう昨日になってしまった日付印が押されていて、「生ものですので、本日中にお召し上がりください」と但し書きがあった。
印刷された店舗の営業時間は二十時までだった。
六
その週の土曜日、近くのデパートまで買い物にでかけた。
いわゆる郊外型のショッピングセンターで、ほとんどの買い物がここ周辺ですんでしまうので大変便利だ。建物なんかを見ると最近に建てられたもののようだ。
例にも洩れず、カオリもよく利用しているという。
「ちょっと食料品が高いんだけどね。便がいいから結局ここで買っちゃうんだよねえ」
三階建ての百貨店型デパートで、このショッピングセンターのメインというところだろう。映画館も入っているようだ。
高架道路の降り口にあることも関係あるのか、周辺が工場だらけの郊外でも、第三まである広い駐車場はそこそこ埋まっていた。屋上駐車場はほとんど空いている。
「ここね、地下に食料品売り場があるの」
三階建てに地下一階。無駄に広いだけと思ったが、思った以上に客が入っているので馬鹿にしたものではない。都会のほうならいざ知らず、片田舎の郊外型のデパートに地下があるというのは驚いた。
三階は飲食店とゲームコーナー、文具に書籍にCDショップと、こういったデパートではありきたりでおなじみの店が並ぶ。二階は衣料品にスポーツ用品店。一階は有名どころの雑貨店や宝石店などである。
一階の一部は二階まで吹き抜けになっていたり、大きな木が植えてあったり、その周辺に休憩所があったりと、くつろぎと憩いのスペースが目立つ。
その一角でふとカオリが足をとめた。
インテリアコーナーだった。デザイン的なテーブルや本棚などが並んでいる。
「これよくない?」
指した先には芥子色のソファ。
「持ってるだろう」
つい突っ込んでしまう。なんであえて黄色を選ぶんだろう。金運でもあげたいんだろうか。
「ほらでも、ウチのもうぼろぼろだし」
「あれは、おたくのネコさまが爪といでらっしゃるせいだ。ぼろぼろってほどでもないと思うけどな、ところどころ生地がほつれてたり、ちょっと染みが目立つかなっては思ってたけど」
「そういうのをぼろぼろって言うんだよ」
値段を見る。なんかゼロ多いような気がする。三回数えたが二十万だった。
勝手に腰をおろしたカオリが、驚いたように目を輝かせ「おお、おお」と歓声をあげた。
店員がやってきた。三十代後半ぐらいの、痩せた女の人だった。頼んでもいないのに、勝手に解説をはじめた。
イタリアのナツッジというメーカーの製品で、もう現品限りでこれでも安いんだそうだ。やたらほめているのをカオリは、うなずきながら熱心に聞いている。仕入れたはいいが売れなくて処分する、というところだと思う。
いまにも買うと言いだしかねないので、遠慮がちにカオリに目で合図する。
案の定。
「アキト、これ欲しい?」
欲しいのはあなたでしょう、と言いたいのを堪えて、険しい顔で首を横にふる。
「黄色は嫌いだ」
その感性がわからない。
「えー、なんで。――あ、でも他の色も取り寄せられるってさ。お値段は変わっちゃうけど……」
「いらないって。あるだろ。ソファなんてどうしても必要なものじゃないし」
あからさまに不服そうにくちびるをとがらすカオリ。手を伸ばしてくるので立つのかと思えば、逆に引っぱられる。
「座ってみればわかる」
自信満々に言われ、仕方がないので隣に座る。脚の高さはちょうどいい。
認めたくないのでカオリには言わなかったが、気味の悪いほど気持ちがよかった。座部はしっかり固いのに、背もたれは存在を疑うほどにやわらかい。自然に吸い込まれるように沈んでいく感覚に、つい感動の声をあげそうになった。値段は伊達じゃない。
「すごい包容力あるでしょう」
満面の笑みで彼女は変わった表現をした。術中にはまってしまいそうだったので、あわてて立ち上がる。
「なんで座るとこ固いんだよ。もうちょっとやわらかいほうが座り心地いいのにさ」
すると店員がすかさず余計なことを言った。
「やわらかいと長時間座っていると疲れるんですよ。ですから、このくらいの固さがちょうど良いですね」
このうえないカオリの満面の笑顔。
「と、とにかくいいから。オレはいまのソファが気に入ってるの」
「アキトの嫌いな黄色だよ」
「本当は好き――なような気がしてきた」
いひひ、とおかしな擬音でカオリが笑う。楽しくて仕方がないようで、脚をばたばたさせた。
「立たして。気持ち良すぎて起きれない」
思いきり嫌そうな顔をしてから、言われたとおりにする。
「ああ名残惜しいなぁ」
「さっさと下行こうぜ」
店員に頭をさげてから、カオリがついてきた。うれしそうだった。
「さっき並んで座ってるとき、おふたり本当にお似合いですね、て言われた」
「営業」
「夢がないな」
「なんの夢だよ」
「私たちがあのソファに座ってるの想像してよ。なんか幸せな風景じゃない」
「どのソファ」
「だからさっきの」
意地悪く言ってやった。
「あれ『ラヴチェア』って書いてあった。ソファじゃない」
「どう見てもソファでしょう」
「いや、ラヴチェア」
「どう違うの」
「ラヴソファだとエッチっぽい」
彼女は目をしばたかせてから、あきれたように首をかしげた。
「その感性わかんないなぁ」
七
ひんやりとした冷たさをふくんだ、鈍いアクアブルーの世界だった。重いが苦しくはない。
カオリは巨大な水槽に両手をついて、一心になにかを見つめていた。
青い優しい照明が白いブラウスの彼女を照らし、まるで彼女自身も向こうの世界の住人であるかのように染めている。
鮮やかな色彩にいろどられた魚たちが、優雅で見事な泳ぎを披露してくれる。そのさまがまるで秩序があるように疑いたくなるほど、精巧な作り物を見せられているような気分になる。
館内には人気がなく、不気味な反面、静謐で神秘的な空間だった。どうやら近くに大型テーマパークができたのが原因らしい。
もし用事がないようなら、おねえさんとデートでもするかい、と言われてついてきた。
「ほらアキト。マンボウ、マンボウ」
どうやらさっきから彼女が夢中になっていたのはそれらしかった。
二次元生物としての認識が強いその魚は、あまり一般的でない間の抜けた顔を正面に向けて、ゆらゆらと大儀そうにただよっている。
「うわ、ぶつかった。痛そう」
子どもみたいにはしゃいでいる。
「そういえば魚ってさ、痛そうな顔しないよね」
またマンボウが水槽にぶつかった。学習しろ。
何事もなかったようにふわふわ泳いでいく。たしかに表情が変わらない。そもそも感情があるのかも疑わしいのだが。なぜだか礼子さんを思い出してしまった。するとマンボウの顔が礼子さんの人面魚に見えてきた。
「なんで笑ってるの」
「べつに」
次の水槽に視線をずらす。
「お、鮫がいる」
小さな鮫だった。
「うそ。わ、本当」
「他の魚とか喰っちゃわないのかね」
「ちゃんとエサもらってるから大丈夫なんじゃない」
たしかに。スプラッタな水族館だったら、よけいに誰も寄りつかないだろう。
「鮫の腹って変な顔に見えるね」
サービスのつもりなのか降参の意志なのか、五十センチほどの鮫が腹ばいに水槽にはりついていた。エラをちょうど目に見立てると、タレ目でへの字口の困った顔のおじさんに見えてくる。
水族館は愉快なところだ。
カオリが腕をからめてきた。本人は無意識を装っているつもりらしかったが、動作がぎこちなくてあからさまだった。歩きにくいな、と悪態をつこうとしたが、ひじがやわらかい胸にあたって言葉がでない。
ほの暗いアーチを抜けると、一転してきらきらとまぶしい水のトンネルにたどり着いた。
カオリが歓喜の声をあげた。
魅せられて立ちつくす。
手を伸ばせば届きそうなぐらいすぐ上を、ところせましと泳ぎまわる魚たち。大きさも色も形も様々なのに、同じ水槽のなかでとても調和がとれている。演出なのか、どこからか微かに波音のようなものが聞こえた。海の中で波音は聞こえるものなんだろうか、とつい揚げ足をとりたくなるのが悪い性分だ。
ずっと見ていると、しだいに自分たちも同じ水の中にいるような錯覚をおぼえた。
何トンなのか何十トンなのかも知らない途方もない重量の水が、いままさに天井のガラスを割って襲ってこようとも、なんの抵抗もなく受け止められるような気がした。
からめていたカオリの腕を離れ、それからあわてて手をにぎる。体が浮かびあがるような感覚に、少し力を込める。
生命は海から生まれたという。
だとしたら、この不思議な感覚にも説明がつくような気がする。
帰りたいと思う気持ち。
でもどこへ。
分厚い強化ガラスの冷たさは、現実の壁だった。
触れあう温度がかろうじて引きとめている。
カオリがじっとこちらを見ていることに気がついた。ふり向くと、慈愛に満ちた表情をしていた。
「たのしい?」
うなずく。
安堵したように息をつく。
「よかった。海っていいよね。なんていうか。本能に訴えかけるみたいなところがあるみたいで。波の音はヒーリング作用があるっていうし」
「たしかに癒されるかも」
「来年になったら海水浴とかも行こうね。かわいいビキニとか着るんだから。もう絶対にアキトなんかめろめろだね」
つないだ手を軽く振った。
思い出した。
水族館へは母が生きていた頃に数度連れてきてもらったことがあった。この水族館ではなかったかもしれないが。家族で海水浴へ行った帰りだったと思う。
もう母の顔だって思い出せない。家にはなぜか写真が一枚も残ってないのだ。母の実家には遺影があったはずだが、何年も行ってないのでやはりそれも記憶の底では曖昧だ。
それなのに楽しかった気がする。そう思えるのは幸せだったからだろう。顔も声も、どんな言葉を話していたのかもおぼえていない。
記録を語る写真すらなくて、どこに思い出があるのだ。そんな思い出なんてはじめからなかったのかもしれない。
幸福な記憶を捏造してるだけだと、どうして言えない。その証拠に必死に記憶をたどろうとするたび、救いようのない真っ白な穴に落ち込んでしまう。
「うちらさ、ここのところ海とかお得意じゃない。こういう水族館デートも結構悪くないで、」
突然、カオリが言葉をつまらせた。
「アキト、……泣いてるの」
言われてびっくりした。頬に手をそえると、濡れている。
体ががくがく震えだし、立つことができなかった。
叫びたくて泣きだしたくて、でも息ができなくて嗚咽にもならない。
みっともない。はずかしい。情けない。どれだけ叱咤しても発作のような衝動はおさまることはなかった。
カオリに抱きかかえられるようにトンネルを抜ける。そのときにはもう涙を止めることができなかった。
冷たい館内は冷蔵庫のようなうなり声がする。
観賞用というには水槽から離れているベンチがある。うながされるままに腰をおろす。
心配そうに見つめていたカオリだったが、なにも言わず手をとる。
「ごめ、ん……」
それだけ言うのが精一杯だった。
昂ぶっていた感情はしだいに落ち着きをみせると、彼女に対して申し訳なくて、なんとか言葉にだして伝えたかった。
彼女が自分の触れられたくない悲しみを打ち明けたように。
目の前で母が飛び降りたこと。
それにより父に罵られたこと。
毎日の学校での陰湿ないたずら。
立ち向かったときのどうしようもなく悔しい勇気。
誰にも話したことがない。木更津香織は認めてくれると言った。彼女なら救ってくれると信じた。
やはりヨネには、母親を映していたのではないかと思う。彼女への甘えは、顔も忘れた母親に対するものだったのではないかと。
小学生のとき、授業参観日が大嫌いだった。父親なんて一度も来たことがなかったし、来てほしくもなかったけど、きれいに着飾った母親をもつ級友たちがたまらなくうらやましくて、さみしくて悲しかった。
事情を知っている大人たちは、いつも同情とか哀れみとか、そういう目で見てたっけ。
きっとヨネの親身で献身的な優しさが、どこかで母の優しさと重なった部分があったのかもしれない。だから最初、カオリを好きになれないかもしれないと思った。彼女は母親にはなれないと感じたからだ。
カオリは左手を包み込むように握りしめてくれている。その熱だけは現実だった。
あたりは青くて暗い。なのにカオリだけはっきり見える。
泣いていた。
どうして。またなにか傷つけるようなことを言ってしまったんだろうか。謝らなきゃ。
「ごめんね……、ごめんねえ」
どうしてカオリが謝るんだ。
「知らなかった。アキト……つらかったんだね」
どうして。どうして他人の身のうえ話で泣けるんだ。
どうして。どうしてその言葉で安心できるんだ。
(誰かに話して救われることだってあるんだから)
同情なんてされたくない。けれど、その優しさがたまらなくうれしかった。
「ごめん」
「なんで。アキトが謝ることじゃない」
目許をぬぐう細い指。涙を残したまま、カオリがふり向いた。
「私、泣き虫だから」
「そんなことない。聞いてくれて――ありがとう」
充血した目で、彼女は少しだけ照れくさそうだった。
「アキトはずっとそういうこと抱えて生きてきたんだから。強いよ。私なんか、はずかしいくらいだ」
カオリは遠くを見るように両足を投げ出した。
「そっか……。アキトのお母さんだったのか。私、お母さんのおかげで死なないですんだんだね。アキトに会うこともできたし。そう考えたら、なんだか素敵じゃない」
無言でうなずいた。
「あのね。ちょっとうらやましいなって思うこともあった、新しい花になってるときとか。そのときはアキトのことも知らなかったんだけどさ、死んでも忘れないでいてもらえることって、やっぱり死んだひとにとってはうれしいと思うよ。
お母さんがなんであそこで亡くなったのかはわからないけど、アキトには生きててほしかったんだよ。アキトはここにいるでしょう。生きてるでしょう。お父さんだって、わかってるよ。そんなのアキトのせいじゃない」
その言葉が終わるまえに、もう一度だけ泣いた。
「ひとが死ぬのは……いやだ。忘れられない。忘れちゃいけない気がする」
なにも言わないで、彼女は横から抱きしめてくれた。
「だったら憶えていればいい」
意外な言葉だった。
「忘れようとして忘れられないのは、忘れちゃいけないからなんじゃないかって。それなら無理して否定しなくたっていいじゃない」
「…………」
「なんでも抱え込んじゃったら、重くてつらいだけだよ。まえの私がそうだったもん。でもよくよく考えてみたら、私ってズルイ女だからさ」
体を離した顔は笑っていた。
「責任とか他人のするのが得意なのね。だから、良いことの責任は誰かに押しつけるの。私はアキトがいるからここにいるんだよ。アキトのこと好きになって、幸せだなって感じれるんだから。本当だよ。アキトのせいだからね。だから重い荷物だったら二人で持とうよ。そうすれば重さは半分でしょう。アキトはひとりで生きてるんじゃない。少なくとも私はそれを許さない」
言ってることがはずかしかったのか、終わりのほうは真っ赤だった。そんな彼女がどうしようもなく愛おしかった。
それからカオリは、難しそうな表情で上のほうを向いた。
「中学のときかな。ほら、保健体育の時間でさ……、勉強するじゃない?」
遠まわしに言っているので、男女の性の授業なのだと察しがつく。
「そのとき絵があってね。男と女を、こうデコボコ――って記号……漢字? 漢字だよね、凹凸っていう字。それで表してたの。なるほどなあって思ったのね。だってほら、凸凹が交わると四角になるでしょう。男と女っていうのはこういうものなんだなって思った。形は全然違う、男は男だし女は女なんだけど、二人でひとつみたいな」
目を閉じてゆっくり深く息を吸う。
冷たい空気がじんわりと胸にしみこんできた。長く欠けていた場所にパーツがはまったような、すがすがしい気持ちになった。
そうしていま生まれたのだ。
「だったらなればいい」
はにかみながら右手を差しだす。
育てようと思った。とてもあたたかくて居心地の良いこの気持ち。失いたくなかった。これをなくしてしまったら、また壁に囲まれたせまく冷たい場所に戻ってしまう。
守らなければいけないものを、ようやく見つけた気がした。
彼女の右手がためらっていた。かわききっていない涙。驚きと恐怖、期待を秘めた目を見張って。
これが現実だったら、きっといつまでも幸せだろう。
のろのろと弱々しく右手をだすカオリ。にぎり返して強く振る。
少しも強くないカオリ。本当はとても臆病で、必死で立っている。そんな彼女を支えながら、これから歩いて生きたいと思った。二人ならきっと変われる。
「オレでよかったらさ、カオリの理想になるから。なるように努力する。ふたりで四角になろう。これからも、いろいろ迷惑かけると思うけど――よろしくお願いします」
アクアブルーに世界が沈んでいった。
泣くことなんてないのに。
マンボウがずっとこちらを見ている。
八
空はまぶしいぐらいに青かった。まるで絵具で彩色したかのように嘘っぽかった。
太陽は異様に赤くて、うっすらと夕月がでていた。
その日の出来事を一生忘れることはないだろう。
腕を組んでいる彼女が、次はどこ行こうか、なんて赤い目を甘そうに細めている。閑散とした駐車場には、黄色のニュービートルが誇らしげに待っている。買い物の帰りだったので、早くトランクの品物を冷蔵庫に入れたほうがいいと言うと、悪くなったらまた買えばいいと彼女が答える。でもこの時間は取り戻せないから、とからめた腕に身を寄せる。
そう、たしかに誰かが呼んだのだ。佐山、と。
どうしてなのか、なんでそこにいるのかわからなかったけど、真っ白い光のなかに黒い影が立っていて、ぎらぎらと不自然に輝いた右手をやたらめったら振りかざし、大声でなにかを叫びながら走り寄ってきたのだ。
それは、とてもゆっくりとした時間のようだった。
黒い影はまっすぐこちらに向かってきた。ものすごい力でカオリに突き飛ばされて、わけもわからないまま地面に倒れこむ。手の平を小石で擦って熱くて痛い。ふり返った光のなか。白いブラウス。 うずくまる姿。腹部をかばうようにも見える。そこから伸びる黒い物――
それがナイフだと気づいたとき、彼女の青ざめた顔はこちらを向いて、力なく微笑んだ。それは安堵しているようにも見えた。
「おっ……おまえが」
誰かが動転したように叫んだ。
「おまえが避ける、から悪いんだっ」
普段からはとても想像がつかない、おびえた関口一也が立っていた。
「おま、おまえが姉貴を泣かせたから」
真っ赤に染まったブラウス。崩れ落ちる。麻痺した意志で抱きとめる両腕に、ずっしりとのしかかる重み。その重さが彼女の命のようで、手を離すことができなかった。
右手にべっとりと熱いものがついているのに気がついて、急に現実がおそろしくなった。