第五章
第五章
一
「オゥ。しっかりやれよ、新入り」
威勢のいい声とともに、力強く背中をたたかれた。反動で転びそうになるのをあわてて堪える。
「はい。すいません」
自分からこんな声がでるなんて思ってなかった。腹の底から声をだせというけれど、そんなところから出るものかとずっと思っていた。出るといえば出る。新鮮な驚きだ。
「それじゃ、残りもさっさとやっちまうか」
薄汚れたタオルを頭に巻いた髭面の男が、にやりと笑った。ひょっとしたら励ましてくれているのかもしれなかった。
「若いンだからよ、しゃきッとしてこうぜ」
四十代後半ぐらい――父より少し年上の高橋さんは、二つ重ねたダンボールを軽々と持ちあげた。
まだ二往復しただけだというのに、体中の筋肉が悲鳴をあげている。何十キロの荷物なんて、そうそう持つ機会がない。腕の円周だって高橋さんの半分ぐらいしかなかった。
トラックの荷台には、まだ三十も箱が残っている。目的の建物を見あげた。真昼の地面に影を落とす、マンションの九階。街外れの新興団地の一角だ。来週完成だそうで、すでに入居の決まっている何部屋かは、荷物の引越しが完了している。
駐車場には同業者のトラックが何台か停まっていて、せわしなく荷物の運び込みをおこなっていた。
エレベータはまだ試運転が完了してないそうで、階段だ。
「今日は楽なんだ。タンスとかは先に別の人間があげてったから。しかも階段だろう。家具なんて若いのにやらせると、たいがい次から来なくなる」
豪快に笑って、高橋さんがマンションに向かって歩きだす。
ため息ひとつついて空を見あげた。秋晴れの日曜日。まだ日は高い。運送のアルバイトの初日だった。
改めて荷台の荷物に目をやる。何度見たって数が減るわけじゃないし、中身が軽くなるわけでもない。箱自体は小さいのだが、どうも本とか皿とか、コンパクトなくせに集合するとやたら重い物がつまっているようなのだ。
己の無気力さに嫌気が差す。自分で決めたんだから、もうちょっと真剣に取り組まなきゃ。これじゃ、全然変わらない。
「お。ぼっちゃん。やっと降りてきたな」
高橋さんの声にふり返ると、肩で息をしながら津野が出てきた。入れ替わりに高橋さんが、建物のなかに消えた。
「遅いぞ」
自分のやる気のなさを棚にあげ、ふらふらとやってくる津野をなじる。
「おまえ、ホントに運動部か」
「……佐山、ちょっと、休憩」
目が死んでいた。
「まだ一往復じゃねえか」
これまた自分の弱音を棚にあげ、手前のダンボールを引き寄せた。さっきのやつより重い気がした。
「先行ってるぞ、ぼっちゃん」
さすがに他人を揶揄すると後には引けなくて、そのまま持ちあげた。やっぱり重かった。重かったが持てないほどでもなかったし、津野に対して弱音を吐くのだけは、かっこ悪くてできなかった。
小休止をした筋肉が、鈍くきしんだ。
このバイト終わったらムキムキな身体になってるかもしれない、などとひっそり考えたら、少しだけ気がまぎれた。
それでもやはり荷物が軽くなるわけではないし、九階までの階段が短くなるわけでもなかった。
何度か往復していると、慣れたのかコツをつかんだのか、最初のときほど難儀だと感じなくなった。
そのマンションが終わって、他に三ヵ所ほどまわるとちょうど良い時間になり、今日の仕事は終わりだった。
太陽が傾いた事務所で日当をもらうと、外で津野が待っていた。缶コーヒーを二本持っている。
「悪いけど、砂糖入ってるの飲まないんだ」
すれ違いざまに言う。
「いまさら言うことじゃないけど、オマエ性格悪いぞ」
「べつに付き合ってくれなくてもいいんだぜ。感謝はしてるけど」
津野は笑いながらついてきた。
「いいじゃねえか。おれだってカネほしいし。たまたまだ」
土日だけバイトしたいと津野に相談したら、親父が働いてる運送屋を紹介してくれた。なんだか付きあわせたようで悪い気がする。
「また明日な」
自転車にまたがる。
「ああ、また明日な」
言いながら、強引に缶コーヒーを押しつける。
道すがら、ぬるいコーヒーを飲んだ。筋肉痛で疲れた体には、心地よい甘さだった。
自転車をこいで、あの晩から帰ってない家にやってきた。
昼間だったので、町内のおばさん連中に捕まってしまった。適当に言い逃れる。
玄関に置かれた一輪挿しの花が枯れてしまっている。キッチンにはインスタント食品のにおいがこもっていたし、洗い物も投げ出されたままだった。
なんだかほんのわずかな間に、本来のこの家があるべき姿に変わりはててしまった気がした。
まっすぐ書斎に行った。
ノックする。すぐに低い、気難しそうな声が返ってくる。晶人、と告げると入室許可がおりた。
十二畳の部屋の奥に、マホガニー製の大きな机が陣取っている。その隣にCADと、図面を引くための盤面が斜めになった製図机があり、そこに父がいた。
寺の住職がそうであったように、父もまたもう何年もその前にいて、たぶんこれからも変わることなく、あたりまえのようにそこに居続けるのだろう。父の居場所はそこにしかないのだから。
向かって右側の壁は一面の本棚で、資料の類が整然と並んでいる。正面奥にはベランダに出られる窓があり、いまは閉まっている。裏の銀杏の木が葉を落としていた。左側の壁には高そうなウイスキーや建物の写真や賞状などを飾ったキャビネットがある。
なにも変わらない。母が生きていたころ、何度となく訪れていた父の仕事部屋だ。邪魔しちゃだめよ、と叱られたこともあった気がする。懐かしかったが、感傷にひたりたい気分じゃない。
「またしばらく戻らないけど」
やはりこういうことは、直接言わなければならないだろう。どうであれ、このひとは父親なのだから。一ヵ月も連絡をしなかった息子の第一声とは思えないような台詞だったが。
「関口さん、辞めてしまったぞ」
ドラフタの向こうから父がつぶやいた。やはり皮肉なことに親子なのだ。いまどこにいるとか、いままでどうしてたとか、そういったことは聞いてこない。まったく興味がないといったふうに。
「なにか言いたいことがあるんじゃないの」
水を向けるが、返事はなかった。
「着替え、取りきただけだからさ」
後ろ手にドアを閉めようとすると、思い出したように声がかかった。
「いまだから言うんだが」
ふり返る。図面を見つめたままの、白髪まじりの頭が少しだけ動いた。
「再婚しようと思ってた。おまえもなついてるみたいだったし。――年甲斐もなくふられたがな」
「ちゃんとしたもの、食べたほうがいいよ」
そう言ってドアを閉めた。
部屋に戻る。閉めきった自室には、なんだかヨネのにおいが残っているようだった。いまにもお帰りなさいと飛びだしてきそうな、そんな予感さえあった。あわてて首をふる。
(再婚だってさ。なに考えてるんだろ)
この家にはヨネの場所がある。関口遥ではなく、ヨネという人格がたしかに存在していた。
けれども彼女を失ってしまったいま、それまで充満していた存在は痕跡となって、澱のように漂うだけだった。それでも完全に消えてしまわないのは、第三者の心に居場所を作っていたからだろう。
それが生きているということだ。
ここには存在の希薄な男がふたり住んでいる。ヨネのなかで希薄な影は実体になった。ヨネがいなければまた影に戻るだけ。
新しい居場所はカオリが与えてくれた。けれどもそれは、自分の立っている狭い位置を分け与える行為。近いうち、この家に帰ってくるだろう予感はたしかにしていた。
部屋を出ると、廊下に父親が立っていた。居合わせたというより、待っていたという感じだったので驚いた。
もう何年も真正面から見たことがなかった気がする。なんだかずいぶん歳をとってしまったようだ。あと二十何年もすれば、自分もこんな顔になるのだろうかと考えた。
「なに?」
一瞥してから、「べつに」とわざとらしい咳ばらいをした。それから何事もなかったかのように、書斎のほうへ帰っていこうとした。
「父さん」
足が止まる。背は向けたまま。
「……なんだ」
不機嫌そう、というかどんな声をしたらいいのかわからない、といった戸惑いが感じられた。
「やっぱり今日は泊まってくよ」
これから戻るとなると、もう夜中になってしまうだろう。
「そうか」
やっぱりふり返らなかった。
肩をすくめてドアを閉めようとする。
「晶人……」
ちょっとだけ横顔をのぞかせながら、父は書斎に向かって歩きだした。
「今度一緒に母さんの墓参りにでも行くか」
二
買ったおぼえのない新しいラヴチェアで、ひとりコーヒーを飲んでいる。キッチンのほうからカオリが呼んでいる。コーヒーが美味くて動く気にならない。
するとじれたようにカオリが、デブ猫を従えて現れた。もてあましたように黒いナイフを持っていた。それから彼女はこう言った。
――アキトにあげる。
そんなの欲しくなかったが、なぜか受け取っていた。それを見たカオリが満面の、恍惚とした表情で両手をひろげた。
――好きよアキト。愛してるって言葉をどれだけ重ねても足りないくらいに愛しているわ。だからお願い。お母さんを見殺しにしたように、私も殺して。アキトを好きな人は、みんなアキトの前からいなくなるんだもんね。私はアキトに殺されたいの。
その表情が恐ろしくて、悲鳴をあげていた。
目がさめた。
夢だった。
カオリのいない部屋で目をさました。
暗かった。
ひとりだった。
いつの間にかファルア三号がいた。
ところで今日は何日だろう。あれからどれだけたったのだろう。惚けたように液晶パネルを見る。まだ三日目という現実に疑念を抱かずにはいられない。長い夢をみてるんじゃないか。悪夢の続きに取り残されているのではないかと。
「よお、元気か」
銀色のトラ猫がソファの上で、愛想ていどに尻尾をたてた。
「おまえのご主人さま、大丈夫かな」
一度だけファルア三号が鳴いた。かなしそうに。
秋の空は凍えだしていた。
三
翌日のバイト帰り、少し早く終わったので病院に立ち寄った。
白い簡素なベッドの上に、彼女は横たわっていた。ぼんやり天井をながめているようだった。
四日前、カオリの父親に激しく責めたてられた。仕事の途中だったのか、金バッチの背広姿で、たしかにテレビで見たことがある政治家だった。秘書らしい冷たい目をした細身の男を連れていた。
木更津議員の言葉は重々しく的確で、親としての気持ちが痛いほどに伝わってきた。そのまま容体も知らされることなく、二度と娘には会わないようにと、強く言い放たれて追い出されてしまった。
警察に事情聴取を求められたが、おそらく彼の力だと思うが、わずか数時間で解放された。
カオリに会いたかった。心配だった。けれども責は明瞭だった。
昨日、自宅から戻ると藤堂さんから連絡が入っていた。彼女の無事を告げるものだった。それから報告が遅れたことを詫びていた。きっとそっちにも圧力がかかっていたのだろう。
抑えきれない気持ちのまま病院にやってきた。決心がつかず病室の前をうろうろしていると、白衣をまとった藤堂さんが素知らぬ顔で、「今日は親御さんは来られないそうだ」と教えてくれた。
薄いカーテンからもれた夕刻の日差しが、カオリの端正な顔にそそいでいる。四日ぶりの恋人は少しやつれているようだったが、とても愛おしかった。
「おはよう」
彼女はゆっくり焦点を合わせた。そしていつものようににっこり笑った。
「退屈だね」
起きあがろうとしたので、あわてて止める。まだ傷は完全にふさがってないんだと聞いた。脇にパイプ椅子がたたんである。
「ファルアは元気だよ」
「私もわりと元気。早く退院したいよ」
その言葉に胸がつまる。
「ごめん、……オレのせいだ。あいつがヨネの弟だなんて知らなかった」
まぶしいのか彼女は目を細めた。
「アキトのせいじゃないよ。ヨネのせいでもないし」
ヨネはあのアップルタルトを持ってきてくれた日、カオリと同じように大学をやめ、最終電車で母親の実家へ行ってしまった。
関口一也はヨネの弟だった。世間では姉思いの良い弟ということになっているらしい。もっとも、関口はたくさんの顔をもっているので、本当かどうかはわからない。
どうやら姉が佐山家で働いているのが気に入らなかったらしく、何度となくバイトを辞めるよう言っていたそうだ。
なぜ関口にそこまで嫌われているのか、いまだに心当たりはない。殺してやりたいとまで言われたのだが、それでも思いあたる節はなかった。
ヨネがハウスキーパーの仕事を辞めたとき、その理由も知らず、過剰に姉思いな関口は、「姉貴が泣いてるのは、みんな佐山のせいだ」と自分の腹いせも含め全部姉のためと置き換えた。そして偶然水族館でその対象を見つけ(やはりカオリの車は目立つため)、どこで買ったのかナイフを持って待ち伏せていたのだという。
「関口の勝手な思い込みだって、――こんなことするなんて、くそっ。ぶん殴ってやればよかった。あの時は思いつかなかった」
わずかに沈黙があった。それは互いの呼吸のタイミングをはかるかのような、ほんのわずかな静寂であった。そうして、どちらからともなく手が伸びた。
「うちのお父さんに……殴られたりしなかった?」
指をからめながら、カオリは長い息を吐いた。
「殴られてもいいと思った」
「よかった。そんなことしたら、あたし一生お父さん許さないから」
「オレのこと、許さなくてもいいから」
「どうして。私はアキトを責めることなんてしない」
「――ありがとう」
カオリはくすくすと笑った。
「アキトがお礼言うのって変だね。めずらしい。感謝されるのもいいもんだ」
「そんなんでいいなら、何度でも言うよ。オレ、本当にカオリには感謝してるんだ」
「やめてよ、くすぐったい。せっかくの言葉もありがたみがなくなる。大切に取っときたいじゃない」
カオリの指が手の甲をやさしくなぞっている。何度も、いとおしむように。その刺激がたまらなく心地よい。その指先がしだいに震えだす。
「アキト」
彼女が呼んだ。
「アキトぉ」
もう一度。
「アキト!」
ぼろぼろと涙を流しながらしがみついてくる。その重み、強くしっかりと抱きとめた。
「会いたかった。声を聞きたかった。そばにいてほしかった。――怖かった。こわかったんだよ。死ぬかと思った。本当に死んじゃうかと思った。すごく痛くて血はどんどん出てくるし、頭ンなか真っ白でなんだかだんだんわかんなくなって。気がついたら――気がついたら、お父さんとかがいて、でもアキトがいなくて。あたし生きてるのかわからなかった。認めてくれるアキトがいなかったから。ねぇ、ここにいるんだよね? 私は生きてるよね?」
「カオリはここにいるよ。生きている。オレの目のまえにいる」
その言葉を聞くと、安心したように涙をぬぐう。
「うん。無事でよかったよ、本当に。私も、アキトも。アキトが無事でも私が死んじゃったら意味ないもんね」
「でも、もうあんな無茶はやめてくれ」
「アキトを守るためだったら、死なないていどに何度だってやるわ」
けろっと彼女は言ってのけた。
「オレが生きた心地しないんだよ」
「冗談よ」
耳許で吹きかけるようにつぶやく。
「悪趣味」
それまでいだいていた不安や心細さなどは消え、抱きあえることで満たされていくのを感じた。お互い足りなかった部々を補うように、カオリの存在がするりと入り込む。
ああ、これなんだと思った。これが四角になるということなのだと。ただただ、離れたくなかった。
なのに、突然カオリが言った。
「私、しばらく帰れないと思う」
びっくりして彼女を見る。いつもと同じ、まっすぐな目をしていた。そんなに容体が悪いのだろうか。
「どのくらい入院しなきゃいけないんだ」
「二週間ぐらい」
「二週間なんてあっという間だよ。毎日会いに来るから。あ、オレさ、バイトはじめたんだ。昨日から」
「どうりで埃っぽくて汗臭かったわけだ」
「ご、ごめん」
声をだしてカオリが笑う。
「うそうそ。私だってずっとお風呂入ってないし」
「どうりで」
叩かれた。笑いあった。
それからカオリは神妙な顔になり、小さく言った。
「お父さん、アキトのことひどく言ってる」
そうか。いや、たしかにそうだろう。じき二十歳になろうという娘が、高校生と同棲しているなど。ましてや大怪我を負わせたわけだし。それに、社会的な立場もあるのだろう。
「だから待っててほしいの。お父さんにもアキトのこと認めさせる。親に付き合ってるひとのこと、文句言われたくないから。これは関係ないじゃすまされない。解決しなきゃいけない問題なの。だから待ってて。絶対帰る。約束する」
たまらなくなってもう一度抱きしめた。
「ごめん、アキト。まだ痛いよ」
幸せそうに顔をしかめた。
四
そうなのだ。
関係ないじゃすまされない。
木更津香織が立ち向かうように、佐山晶人にだって立ち向かう問題があるはずだ。
「なあ」
いつものように屋上の踊り場で、津野と昼飯を食べていた。
「明日から教室で食わねえか」
鍵のかかったドアに背中をつけて、爪楊枝をくわえていた津野が、その声に不思議そうに反応する。
「どうしたんだ。まだ寒くねえから、ここでいいんじゃねえの」
「オレは明日から教室で食うからよ」
「お、おい、佐山。そしたらおれはどうしたらいいんだよ」
カオリが落ち着くと言っていたビルの最上階は、母が飛び降りた場所だった。
こっちは鍵がかかっているけれど、カオリの方は鍵が開いていたのだ。彼女はときどきそこに行って、母にいろいろ打ち明けていたのだろう。
錆びた鉄のドアは、彼女にとって境界だったのだ。一歩踏みだせばいつでも飛び出すことができるあの場所で、かろうじて生者の域のとどまりながら、どちらの世界も覗いていたに違いない。
そこが、ずっと彼女の居場所だったのだ。
だから同じように、ここにいることはもうできなかった。
「おまえも教室で食えばいいだろう。ここはもういるところじゃねえよ。オレ、もう行くわ」
立ち上がって、教室に向かう。隣の教室。一年B組。
彼女はクラスメイトと机を囲んで、楽しそうに声をあげて笑っていた。もうここ何ヵ月か、彼女の笑顔は見たことがなかったから、それはそれで胸がつまった。
それに、自宅では親が心配するほど様子がおかしいということだったから。
「小林」
戸口で声をかけると、彼女は幽霊でも見たように驚いた顔でふり返った。
「ちょっと話があるんだけど、いいかな。あとで図書室に来てもらっても」
そう言い残して、A組に戻った。小林はずっと驚いたような表情のままだった。
放課後、先に図書室に着いていると、しばらくして緊張した面持ちで小林がやってきた。
HRが終わったばかりなので、図書室には他に誰もいなかった。
「なに、話って」
彼女は顔を見ないように、ぶっきらぼうに言った。
呼びだしたはいいが、なにをどういうふうに切りだすべきか考えてなかった。言葉をさがしながら、これだけを言う。
「オレ、まだ一度もちゃんと小林にお礼言ったことなくて。その、ありがとうな。いろいろ」
自分でもおかしかったので、顔をそむけてしまう。
「なによ」
怒ったような響きだった。
「いまさらね」
ふっと視線を戻すと、まっすぐ目が合った。
柔和に目許をゆがめ、彼女はわずかに笑顔をつくっていた。
「いまさら謝っても許してあげないからね」
つられて笑顔になる。
「謝らないよ。お礼が言いたかっただけなんだ」
小林は吐息をもらした。
「そうやって他人の言い分を認めないの、晶人らしいな。でも、最近ちょっと変わったね。昔は絶対お礼なんて言わなかった」
「それは悪いやつだな」
「うん。本当に悪いやつだった。私、ずっと晶人のこと見てきたからわかる」
少し頬を赤らめて、彼女はまだ目をそらさなかった。
「ありがとう」
もう一度言って彼女にうなずくと、自嘲っぽくて笑えてくる。
「オレ、なんか自分で思ってたより悪い男みたいだ。こんなんで好きなひと幸せにできるかな」
「できるよ」
小林は力強くうなずいた。その拍子に、すっと涙の雫がこぼれた。
「私は見守ることしかできなかったけど、そのひとは晶人を強くしてくれた。他人のことなんて全然関心もたなかった晶人なのに」
「小林……」
昔から知ってる幼なじみの姿がとても弱々しく見えて、つい手を伸ばしかける。
「大丈夫だよ。――うん。いまはまだ無理だけど、いつかそのひとに会わせて」
小林はその手を逃れるように背を向けると、じゃあね、と言って出ていってしまった。
最後に廊下から声が届いた。
「ガンバレ、晶人」
*
待たされるのに比べ、待つのはそれほど苦にはならない。行為としては同じなのだが、対象を置き換えることによって、逆の意味にすることができる。いつだって人間の感情なんて単純で、考えかたひとつなのだ。
カオリは帰ってくると言ったのだから、必ず帰ってくる。あてもなく待たされるなら苦痛だろうが、約束したのだ。カオリの言葉なら信じられる。
毎週、花を一輪買った。カオリといたころは、この部屋にはかすみ草のにおいがした。とりあえず形を取り戻そうと思った。どうせ形しかそろわないのだから。そうしてカオリのいない、カオリがいた部屋を築いていった。
口座には毎月生活費が振り込まれた。たまに電話で父親と話した。ちゃんと学校へも通ったし、バイトも続けた。
買い物に行ったとき、ついつい彼女が好みそうな黄色の皿や置き物を買ってしまうこともあった。自分も黄色が好きになっている気がした。
孤独だったけど、さみしくなかった。
誰かのために生きていると考えるだけで満足だった。こんなのは初めてだった。なにからなにまで新鮮で、とても幸せだった。
けれど、ひとりでいればいるほど考えることが増えていく。数えきれない不安や期待、そんなのただの妄想だったけど、抱えきれないほどの不幸も幸福もたしかにその先に存在しているものだった。
知らず知らずにうちに依存している自分を感じていた。それは以前、カオリの弱さだとひそかになじったのと同質のものであるらしかった。
変化は時間が与えてくれる最高の産物なのだとしたら、これほど心強く悲しいものはないのではないだろうか。やがて訪れるだろう変革を知り、彼女と自分のために胸を痛めた。そして互いに傷つきあうことを望んでいる自分を、結果欺くことになる軽率きわまりない自分を、生涯最大に憤り、嫌悪した。
日付けがクリスマスに近づくと、ひとりでは食べきれないケーキを注文し、さいわいにもまだ売れ残っていた黄色いラヴチェアを運んでもらった。
十二月二十四日。
七面鳥の香ばしいにおいが気になるのか、さきほどからキッチンでファルア三号がしきりに呼んでいる。うれしいことに最近なついてくれている。
今年初めて雪が降った晩。
「寒いわね。早くシャンパンあけてよ」
彼女は入ってくるなりそう言った。
「メリークリスマス」
少しふとったみたいだった。
五
新しいラヴチェアを見ると、さすがにびっくりしたらしく目をまるくしていた。いい気分だった。偉大なる猫さまが乗っても平気なように、必要以上にクッションを敷きつめてある。いや、必要があるから敷きつめているのか。
「プレゼント」
「うそ。だってこれ、高かったんじゃ……」
心配そうに窺う姿がいじらしい。
「また値段さがってた。他の客に買われそうだったからあせったよ。まあ座れって」
毎週土日、十数回バイトしただけじゃ買えるものではない。津野に貸しができた。
強引に押しやると、カオリはしっとりと背もたれに沈んでいった。
「うん、いい。すごくいい」
眠るような笑顔に、見ているこっちも幸せだった。
「いままでのやつは?」
「ごめん、勝手に処分しちゃった。替わりに業者に引き取ってもらったんだ。置くとこなかったから」
そうやってひとは、自らの欲求を満たすために無駄遣いをするのだ。
カオリは気持ちよさそうに伸びあがった。その隣でファルア三号も豪快に伸びている。
「メシ食おうぜ」
「なに、アキトが作ったの」
「まいったよ。知らないうちに料理うまくなってた」
「びっくり。てっきりインスタントとかコンビニですましてるんじゃないかって、結構心配してた」
「いや、身近に悪い例がいたもんで」
「なにそれ」
引き寄せて抱きしめた。腕に力を込めると、反応したように背中にそえられた手がしがみついてきた。
やっぱり男女は凸凹なんだろうか。抱き合うととても自然にしっくりとくる。腕の位置とか顔の角度、息の温度も鼓動の数も、ずっとずっと憶えている。
なんだか、そういう「型」にはまってしまったみたいだった。
くちびるは特に敏感で、形状記憶合金のように感覚を思い出し、そのたびに何度も同じ形をなぞろうとする。
触れ合うという行為が、どれだけ幸せを感じさせるだろう。そこにある存在を確かめられることで、無上の安心感をあたえる。
そばにいてくれるということが、どれほど心強いことだろう。それだけで心は満たされ、明日への活力となる。
食事の間、どうでもいいようなことばかり話していた。会話の内容より、一緒にいることのほうが何千倍も価値のあることだと知っていたからだ。
きれいな指が形の整ったあごにそえられるのを、夢のようにながめていた。
「このケーキおいしい。もう一個食べてもいい?」
「おまえ、ふとったよな」
「年上におまえとか言わない。女の子にふとったとか言わない」
酔っているようだった。酒は好きなのにあまり強くはないのだ。そんなに飲んでいるようではなかったが、気分が良いせいで回るのも早いらしい。
おおげさに笑い、おおげさな身振りをまじえて、おおげさに答える。
それが些細ながらも不自然だった。必要以上に明るく振る舞っているその姿は、無理しているというかあせっているというか、まるで失ってしまった過去の時間を急いで取り戻そうとしているかのようだった。
「どうしたの。おかしな顔して」
生クリームのついた指をなめながら、カオリが首をかしげた。
「いや、灰皿どこにしまったっけなって」
「なに、どうして。吸うの?」
「いつも吸ってたから」
「あ、いい。いいよ、やめたんだ。タバコ」
「オレにあわせてくれたの?」
「そんなとこかな――あれ、いま気づいた。アキト、ちょっと立つ」
「なんだよ」
「いいから立つ」
カオリと並んだ。目のまえに大きな瞳があった。うるんだまま上下に揺れる。
「うん。なんか、また大きくなったみたいだね。もう私よりちょっと大きいな」
「まだ子ども扱いしてるだろう」
「うれしいのよ」
「わかんねえよ」
「うれしいのよ」
もう一度言って、カオリは座った。
立ったついでなので皿を片付けようとしたら、カオリに手をつかまれて引き戻された。
「ねえ、アキトの夢ってなに」
脈絡もなく話題が変わった。
「聞いたことなかったから。将来の夢とかってなにかある?」
微笑んでいる。改めて顔のラインがとてもきれいだと感じた。
「さあ。お嫁さんじゃないことだけはたしかだな」
「なにそれ。ジョーク?」
「卒業したら、たぶん働くよ」
三年先の姿なんて想像もつかないけど、学校へ行っていることはないだろう。
「大学とか専門学校とか行きたくないの?」
「別にやりたいこととかないしね」
「バイトの運送屋さん?」
「いやあれは……これ買うためだったし」
最後のほうは小声だ。はずかしくなって顔をそむける。
「ありがとう」
耳が熱かった。
「そうだ。私もプレゼントあるんだった」
「い、いいよ。そんな」
「それはちょっと悲しいかな」
「あ、いや」
「でも今日はやめよう。車の中に忘れてきたから、良い子の枕もとに置くことにする」
「言ってる意味がわからない」
「いいの」
よく知っている彼女は、大人っぽかったけど大人じゃなかった。でも、いまの表情はすごく大人だった。
「私はちょっと働くね。いつまでも親のすねかじってちゃダメだもんね。私、がんばるからさ。アキトは気にしないで、あと二年ちゃんと学校行くんだよ」
「どうしたんだよ。本当に今日、なんか変だぞ」
「約束して。なにがあっても」
含みのある言い方だった。なにかを隠しているようでもあった。
「行ってるよ。まえに約束したじゃんか」
「そうだったね。うん、そうだった」
やっぱり笑っているカオリが一番好きだ。その笑顔に誘われるようにたずねる。
「あのさ。ずっと聞きたかったんだけど」
「うん?」
「いや。ウチの人とかどうしたのかなって。ほら、オレ悪者だし」
「またそんなこと言ってる。心配しないで。ちゃんと説得してきたよ。――奥の手つかっちゃったけど」
グラスに半分ほどのシャンパンが波打った。喉が小さく、まるでそこだけが別の生き物のようになまめかしく動いた。グラスの縁には口紅の跡。
「奥の手? どんな」
ふり返った顔がうれしそうだった。グラスを置く。
「めずらしい。興味あるの」
「まあ人並みに」
「進歩したなあ。お姉さんはうれしいぞ」
酔っ払いが抱きついて頬ずりしてきた。
「成長したって言ってくれよ」
「えっらそうにィ」
甘い息がかかる。カオリを押しやるように離れる。
夜の九時をすぎていた。
カオリはまっすぐ見ていた。どうもこの目に弱い。
「――私ね、アキトに話したいことがあるんだ」
「なんだよ、改まって」
「私のこと好き?」
「好きだよ」
言ったあとで、ごまかすようにワインをあおる。彼女のせいでわずか高校一年にして、そんなに得意とはいえないまでも酒の味をおぼえてしまった。くらくらするのが気持ちいいことだなんて、なんだか愉快だ。
「愛してるわ」
くちびるは慈悲深い笑みを形づくりながら、うるんだ瞳はきれいに輝いている。ためらうように腕をからめ、おもむろにしなだれかかってきた。
真新しいソファの上で触れあうほてった体は、息づかいと同じ鼓動を刻んでいた。
「えっと。なんの話だっけ」
「なあに?」
首筋に熱い息。
「いや、話したいことがあるとか」
「キスしてもいい?」
「なんだよ」
飛躍してばかりだ。
「いいでしょう」
もう慣れっこだ。
「いいよ」
ちょっとだけ充血した目のカオリは、ややあってはずかしそうに反らす。
「ああ。いい、やっぱりいい」
体を離し、グラスに残った炭酸をおいしそうになめてから言った。
「いまはまだいい」
なにがだろう。
「たのしそうだね」
「そうかしら」
赤い頬を押さえた。
「酔ってるからかな」
最後のシャンパンをそそぎながら彼女が言った。
「ありがとね。私のそばにいてくれて、本当にありがとう」
「なんだよ、そんなさ」
「こんないいソファ、買ってもらっちゃったし」
「ラヴチェア」
「あれ。ソファでしょ」
「ラヴチェア。愛が寄り添ってますって感じがする」
「なによ。くさいセリフ」
ゆるりと、時間がすすむ。
抱きしめて、キスをした。シャンパンのにおいと生クリームの味がした。
最後のキスだった。いままでで一番長い。
時間が。
止まる。
戻らない。
戻せない。
鈴の音がする。ファルア三号だ。
名残惜しそうにくちびるが、ゆっくり離れた。
そして言った。
「オレたち、もう会わないことにしよう」
すべてが壊れた。
六
「なんで」
見開かれた瞳が、驚愕に震えながら叫んでいた。
「このままじゃ、だめになる」
「冗談でしょう」
「オレもカオリも、きっとだめになる」
「どうしてよ」
「オレはまだまだ子どもだ。たぶんずっと」
「なにを言ってるの」
「カオリが好きだ」
「うそだと言って」
「このまま一緒にいたら、いまよりずっと好きになってしまう」
「わからない」
「きっと甘えたまま」
「わからないよ」
「カオリには幸せになってほしいんだ」
「ねえ」
「もっとオレが強くなるから」
「どうか」
「お互い好きあってるいまのまま」
「おねがいよ」
「別れよう」
彼女はだまって泣いていた。
酔ったせいだろう。世界がまわっている。
「帰るよ。ゴメン」
うつむいたまま、なにも見ようとしなかった。
ファルア三号が主人の足許でうろうろしていた。
立ち上がる。ふらついた。
彼女は見ない。
歩きだした。おぼつかない。
彼女は見えない。
立ち止まる。
彼女は叫んだ。
ふり返らなかった。
不意に腕をつかまれ、引き戻された。カーペットの上に転ぶ。
そのすきに彼女は飛び出していった。外へ。
冷たい風が入り込んでくる。
立ち上がる。ふらついた。
彼女は見えない。
歩きだした。おぼつかない。
彼女は見えない。
立ち止まる。
ドアのすぐ脇にでも隠れていて、おどかそうといまにでも飛び込んでくるのではないかという気がした。
彼女は見つからない。
誰もいなかった。
なにもなかった。
白い闇がひろがっていた。風が強い。
わけもわからず不安になった。こめかみのあたりがずんずん痛む。うなじが震えていた。
下をのぞくと、ビートルが走り去るところだった。
電話をしようと部屋に戻ると、入れ違いにファルア三号が出ていった。
ずっと話し中だった。
強くなりたかった。
自分の居場所を見つけ、自分の力でしっかり立って、誰にも恥じることなく顔向けできる人間になりたかったのだ。
けれど、彼女といたらなれない気がした。甘えは人を弱くする。
彼女も不完全だからだ。
不完全同士の傷のなめあいのような生き方では、いつかどちらも崩れてしまうだろう。
お互い必要とすればするほど個人としての存在は希薄になる。
依存とは甘えだ。
凹凸が交わってきれいな四角になるとしても、凹凸が未熟なままなら、四角はいびつな形であろう。
明確な個人なくして、正確なひとつのふたりにはなりえないのだ。
――――。
どれくらいたっただろう。耳鳴りがする。
どこかで電話が鳴っている。
三〇四号室の電話だ。
この部屋の住人はひとり暮らしのくせに、携帯電話以外にも部屋に電話があるのだ。
ステレオから音楽がもれていた。知らないうちに眠ってしまっていたようだった。
「……もしもし」
男の声。それは異質だった。乾燥しきっていて、あくまで異質。
耳が痛い。
「木更津香織さんのお宅でしょうか」
「そうです」
「須賀署の加納と申しますが。夜分遅くに恐れ入ります」
時計を見る。十二時。きっかり午前零時。メリークリスマス。
「失礼ですが、あなたは」
「彼女の、木更津香織の――恋人です」
そうですか、と声がひっそり沈んだ。大変申しあげにくいのですが、と言葉をのむ。
「木更津香織さんが亡くなりました」
なんの前触れもなく、耳鳴りがやんだ。
「……もしもし?」
「どこ、ですか」
かすれていた。飲みこむつばさえない。
「杉ヶ先埠頭です。クルマごと海に突っ込んだようです。申し訳ありませんが、これから……」
(いらないなんて)
(言わないで。おまえは要る人間なんだって……)
(――世界を)
(ちょうだい)
七
ひと。
ひと。
人。
凍える風。
冷たい波。
溶けた空。
光。
光。
ひかり。
車が吊るされている。
黄色。
丸いがひしゃげている。
「現段階では事故とも自殺とも判断できませんが」
警察の、一度も顔を見ていない。見たかったのは黄色。
「いまのところクルマに異常は見あたらないようだし、遺書の類も見つかっておりません。なにか心あたりは……」
首をふる。ちゃんと振れただろうか。
「彼女はどうしてこんな場所に来たんでしょうか。こんな日だというのに――一緒にいたわけじゃないんですか」
もう一度ふる。
首を。
ちゃんと。
振れただろうか。
「ええっと……高校生?」
また振った。どこの、と声が続けたが、彼女はどうしたのかとたずねた。
「ああ、――念のため会ってもらえるかな」
なにが念のためだろう。確認が必要なのはわかっていた。死んだ人間を生きた人間が認めなければならないのだ。木更津香織ではない、他の誰かかもしれないからだ。
そのほうがよほど恐ろしい。
カオリと信じ、カオリでないものを認める。それは怖い。
それならいっそ――
死んだのはカオリのほうがいい。
でも。
いやだ。
誰がカオリを見るのだろう。
誰がカオリを認めるのだろう。
(オレでなくてもいい!)
想像のなかで質感が、重みをともなって襲ってくる。
濡れた髪、青ざめた顔、冷たい肌。それは誰だ。
美しい淡い瞳、開いているのだろうか閉じているのだろうか。なにを見ているのだろう。小さな口はなにをなぞり、誰のキスを待つ?
誰が。
誰の?
誰か!
ダレ、ダレ、ダレ――。
それはカオリではない。
その身体、そのすべてはすでに呼吸をなくし、細胞の朽ちて分解していくさまを一体誰が信じるだろう。誰がそれを彼女と呼ぶのだろう。
死んだ瞬間から、人はヒトでなくなるのか。
では――では、人とはなにか。生きていることの証か。権利か。
――死が人を無くすのか。
叫んでいた。
理解できない。
なにが。
自分が。
制御できない。
ちゃんと首を振れただろうか。
きっと気が触れたのだろうか。
気がついたときには、もう駆けだしていた。
逃げだしたのだ。
風が冷たく強い。
「だれか――」
誰かに聞いてほしかった。言ってほしかった。
居てほしかった。
自分が自分でなくなってしまう。
恐ろしい。
認めてほしかった。
佐山晶人はここにいる、と。
自分を証明することができない。こんなの望んでなかったのに!
叫びは声にならず、喉の奥で何度も苦しげな音が鳴った。
それは計り知れないほどの寂寥。
転んだ。倒れたまま這った。すがりつこうとした。服が汚れるのも構わず、どんどん進んだ。
まだ生きていたかった。
鼓膜を押し破らんばかりの波の音が、すさまじいほどの勢いで襲ってきていた。
「だれか」
くちびるがわなないた。自分の吐く息が、凍りついたようにいつまでも消えようとしなかった。
ごう、ごう、とうなりをあげる波音は途方もなく恐ろしくて、もうすぐそこまで迫っていた。
逃げたい。逃げたい。
「たすけて!」
――だれかたすけて。
逃げられない。もう、どこへも逃げられない。
叫び声をあげてこぶしを叩きつける。白くなった砂が舞いあがり、ちっぽけなくぼみができた。その穴を大きくしたくて、殴る手を止めなかった。
しんしんと雪が降り続いている。
八
肌が切り刻まれるほど空気は重くて冷たい。海から吹く風は、その何倍も痛かった。
白い息を吐くだけで、津野はなにも言わない。また無免許運転を頼んだときも、ふた言返事で承諾してくれた。
けれども、一度だけ訊いてきた。
「本当にいいのか」
あの日からファルア三号を見ていない。
早朝の冬の海岸には、他に誰もいなかった。
ふり返ると、氷のような砂浜に真新しい二人分の足跡が、ひどく傾いて並んでいた。
持ってきたラヴチェアを置く。漠然と、海を背に。
なにをしているのか、なにがしたいのか、考えることを一切拒絶する。
ガソリンを振りかける。風にのった強い揮発性の臭いが鼻につく。
火をつけた。
みるみるうちに赤い波がひろがっていく。
黄色を覆っていく。包んでいく。
そうして塗りかえし、小さく閉じ込めてしまう。
津野の眼鏡が炎を反射していた。
煙はずっと遠くまであがっていった。
めまぐるしく。
うずまいていた。
煙がしみたのか、どうしても涙が止まらなかった。
どこかで猫の声がする。




