第15章 聖女はなぜ罪を望んだか――七日間裁判の終わりと、新しい審問庁
王都中央広場から、処刑台が撤去された。
黒い木材は、一本ずつ解体され、王国兵と異端審問庁の記録官立ち会いのもとで運び出された。
人々は遠巻きにそれを見ていた。
かつて、聖女セラフィーナ・エルシアの首を落とすために建てられた台。
七本目の封印柱。
断罪剣を支えるための祭壇。
魔王因子を王都へ流すための装置。
そして、七日目の裁判で王国の嘘が裁かれた場所。
それが今、ただの焦げた木片になっていく。
誰も歓声を上げなかった。
誰も祈らなかった。
誰も、石を投げなかった。
ただ、見ていた。
見なければならないと思ったからだ。
自分たちが、あの台の前で何を信じ、何を恐れ、何を見なかったことにしていたのか。
その答えを、誰もすぐには言葉にできなかった。
処刑台の跡地には、白い灰がまだ残っていた。
断罪剣が砕けた時に降った灰。
魔王因子が消滅した時に散った光の名残。
子どもがそれに触れようとして、母親に手を引かれた。
「触っちゃ駄目」
「どうして?」
「……まだ、分からないから」
母親はそう言って、子どもを抱きしめた。
分からない。
王都の誰もが、その言葉の中にいた。
聖女は本当に無実だった。
勇者は嘘をついていた。
王弟は魔王因子を狙っていた。
聖務卿は騎士を殺した。
王家は魔王因子計画を知っていた。
聖教会は、人々の祈りを使って嘘を守っていた。
では、これから何を信じればいいのか。
誰に祈ればいいのか。
誰を責めればいいのか。
誰に謝ればいいのか。
王都は、答えのない問いを抱えたまま、朝を迎え、昼を過ごし、夜を閉じた。
七日目の裁判から、三週間が過ぎていた。
*
王都中央大聖堂の鐘は、鳴らなくなった。
正確には、鳴らせなくなった。
地下にあった沈黙の鐘は、逆鳴りによって魔王因子を消滅させた後、完全にひび割れた。聖銀の器は内側から白く焼け、七本の封印柱へ続く導線も大半が崩壊している。
聖教会は、表向きには「大聖堂修復のため」と発表した。
だが、王都の人々はもう、その言葉だけでは納得しなかった。
大聖堂前には、毎日のように人が集まった。
「地下を公開しろ」
「オズワルドの裁判はいつだ」
「聖女様に謝罪しろ」
「王家も同罪だ」
「違う、王女殿下は真実を語った」
「では、王は何を知っていたんだ」
「魔王因子の犠牲者の名前を出せ」
怒りは、方向を定めきれずに渦巻いていた。
聖務卿オズワルドは失脚した。
魔王因子を自ら取り込んだ影響で、彼の身体は半ば壊れていた。治療牢に収容され、王国医師と異端審問庁の監視下に置かれている。
王弟ギルベルトは、逃亡を図ったところを王国騎士団の一部に拘束された。
彼を捕らえた騎士たちは、かつて彼の命令を受けていた者たちだった。だが七日目の裁判で、ライネル・フォードの記録魔石を見た。王弟の口から出た「処理しろ」という言葉を聞いた。
彼らは剣を抜く相手を変えた。
ギルベルトは反逆罪、王権簒奪未遂、国家機密兵器の不正利用、騎士殺害関与の疑いで幽閉された。
だが、彼はまだ正式に裁かれていない。
王家が王族を裁くには、手続きが必要だった。
その手続きの中心に、王女クラウディアがいた。
彼女は、調査委員会の設立を宣言した。
王家、異端審問庁、騎士団、聖教会の下級聖職者、そして民間代表を含む臨時調査委員会。
議長はクラウディア王女。
監査役は異端審問庁長官アーヴィン・グラント。
証人保護担当に、勇者ユリウス・ヴァン・グレイ。
記録保全担当に、レオン・アルバート。
その発表を聞いた時、王都中がまた揺れた。
レオン・アルバートは、つい三週間前まで逃亡犯として手配されていた男である。
だが今、彼は王国最大の不正事件を記録する側に立っている。
皮肉と呼ぶには、あまりに王国らしかった。
*
異端審問庁の新庁舎は、まだ存在しない。
正確には、旧庁舎の東棟を臨時改装しただけの場所だった。
焦げた資料室。
封印解除された地下保管庫。
急造の証言室。
壁には、新しい木札がかけられている。
――臨時真実調査室。
その文字を見たダニエル・レイは、初日に腹を抱えて笑った。
「臨時真実調査室って、もうちょっと格好いい名前なかったのかよ」
レオンは書類から顔を上げずに答えた。
「候補はありました」
「何だ?」
「第一案、王都魔王因子事件特別再審及び証拠保全管理室」
「長い。却下」
「第二案、聖女冤罪事件再調査局」
「それはそれで直接的すぎる」
「第三案、嘘を剥がす部屋」
「誰が考えた?」
「ユリウスです」
「勇者様、疲れてるな」
「本人は真剣でした」
「余計怖いわ」
ダニエルは笑いながら、机の上に新しい証言記録を置いた。
厚い束だった。
「北門の封印柱関係者、三名分。全員、二十年前の点検記録に改ざんがあるって言ってる」
「証言の整合は?」
「二人は一致。一人は怪しい。たぶん自分の責任を軽くしようとしてる」
「では、再尋問」
「だと思ったよ」
「あと、感情で責めるな」
「分かってる」
「本当に?」
「……なるべく」
レオンはようやく顔を上げた。
彼の顔色は、まだ悪い。
七日目の裁判で真実宣告を限界まで使った代償は大きかった。数日間、彼は高熱で意識を失い、目覚めても右手の感覚が戻らなかった。
今も、補助印を握っていた指先には包帯が巻かれている。
文字を書く時は、左手を添えなければならない。
それでも彼は、毎日ここへ来ていた。
アーヴィン所長には休めと言われた。
クラウディア王女にも休めと言われた。
ユリウスには「さすがに死に急ぎすぎだ」と言われた。
セラフィーナには、何も言われなかった。
ただ、じっと見られた。
その視線が一番効いた。
だからレオンは、以前より少しだけ早く帰るようになった。
本人は、それを大きな進歩だと思っている。
「なあ、レオン」
ダニエルは椅子に腰掛けた。
「新しい審問庁って、本当に作れると思うか?」
「作らなければならないでしょう」
「そうじゃなくてさ」
彼は窓の外を見た。
王都の空は晴れている。
だが大聖堂の鐘楼には、まだ修復用の足場が組まれていた。
「今までの審問庁だって、最初は正しいことをするために作られたんだろ。嘘を見つけて、危険な異端を止めて、民を守るために」
「おそらく」
「でも、気づいたら権力の都合のいい記録係になってた。なら、新しくしても、また同じになるんじゃないか」
レオンは、しばらく答えなかった。
机の上には、いくつもの名前が並んでいる。
魔王因子の適合実験で死んだ者。
魔族災害として処理された村人。
異端者として記録から消された捕虜。
第二礼拝堂の骨に付けられていた番号。
その番号を、一つずつ名前に戻す作業。
それが、今の臨時真実調査室の仕事だった。
「同じになる可能性はあります」
レオンは言った。
「おい」
「人が作る制度です。腐る可能性は常にある」
「絶望的なことをさらっと言うな」
「だから、記録を残す」
「記録?」
「誰が何を決めたのか。誰が反対したのか。誰が沈黙したのか。誰が恐れたのか。全部残す」
レオンは、包帯の巻かれた指で書類を押さえた。
「人は間違えます。制度も腐ります。なら、腐った時に気づけるようにするしかない」
「つまり?」
「新しい審問庁は、正義の組織ではない」
ダニエルが眉をひそめる。
「じゃあ何だよ」
「嘘を見つけた時に、見なかったことにしない組織です」
ダニエルは、少し黙った。
それから、苦笑する。
「地味だな」
「地味でいい」
「売れないぞ」
「何が?」
「英雄譚として」
「審問庁に英雄譚は不要です」
「まあ、そうだな」
ダニエルは立ち上がり、扉へ向かった。
「じゃあ、怪しい証人を連れてくる。あと、今日こそ早く帰れよ」
「努力します」
「努力じゃなくて、帰れ」
「……帰ります」
「よし」
扉が閉まる。
レオンは、しばらく書類を見つめた。
そこには、まだ名前のない死者がいる。
番号だけで残された人間がいる。
彼らを、魔王因子計画の「犠牲者」とだけ呼んでしまえば楽だった。
だが、それでは足りない。
ライネルが言った。
名前を、覚えておけ。
それは、今のレオンの仕事になっていた。
*
王宮の薔薇温室は、公開裁判後、しばらく閉鎖されていた。
クラウディア王女が、そこを開けたのは三週間ぶりだった。
薔薇は少し傷んでいた。
水やりはされていたが、手入れは足りていない。枝は伸び、枯れた花弁が床に落ちている。
クラウディアは、それを一つずつ拾った。
王女の手で。
侍女たちは止めようとしたが、彼女は首を振った。
「これは、私がします」
誰も、それ以上は言わなかった。
温室の片隅には、小さな白い花が置かれていた。
マリナのための花だった。
クラウディアはその前に立ち、しばらく黙っていた。
「泣くのは後で、とあなたは言いましたね」
彼女は小さく呟いた。
「後、とはいつなのでしょう」
答えはない。
マリナはもういない。
扉の外で、護衛騎士が誰かの来訪を告げた。
「勇者ユリウス様です」
「通してください」
ユリウスは、以前のような白い軍服ではなく、質素な外套を着ていた。
聖剣は持っている。
だが、腰の後ろに控えめに下げていた。
かつてのように、民衆へ見せるためではない。
必要な時に使うための剣として。
「王女殿下」
「証人、と呼んでくださっても構いません」
「それはレオンの影響ですか」
「ええ。困ったことに」
ユリウスは苦笑した。
クラウディアは花弁を拾いながら問う。
「証人保護の状況は?」
「エリスは安全です。フォード家の親類宅ではなく、審問庁の保護施設に移しました。王弟派の残党が接触しようとしていたので」
「やはり」
「ですが、彼女は強いですね」
「ええ」
「昨日、彼女に言われました。『兄の名前を、慰霊碑の一番上に置かないでください』と」
クラウディアは手を止めた。
「なぜ?」
「兄だけが特別だったわけではないから、と。第二礼拝堂で死んだ名も知らない人たちも、同じように名前を刻んでほしいそうです」
クラウディアは目を閉じた。
「ライネル卿の妹らしいですね」
「はい」
しばらく沈黙があった。
温室の中に、柔らかな光が差している。
だが二人の間にあるものは、穏やかとは言い難かった。
王国は変わろうとしている。
しかし変化は、いつも痛みを伴う。
王家への反発は強い。
聖教会への不信も広がっている。
辺境では、魔王因子計画を理由に王国から離反しようとする領主も出始めている。
隣国は、その隙を見て国境に兵を集めている。
王都を救ったからといって、平和が訪れたわけではない。
「勇者様」
クラウディアが言った。
「あなたは、これからどうされるのですか」
「その呼び名は、まだ使いますか」
「民はまだ、あなたをそう呼んでいます」
「裏切り者とも呼びます」
「はい」
「嘘つきの勇者とも」
「はい」
「臆病者とも」
「はい」
「正直ですね」
「真実宣告の影響です」
「それ、流行ってるんですか」
「一部で」
ユリウスは笑った。
それから、温室の外へ目を向けた。
「私は、しばらく証人保護に回ります。私の名前が役に立つなら、今度は誰かを黙らせるためではなく、誰かが話せるように使いたい」
「勇者として?」
「人として」
クラウディアは頷いた。
「良いと思います」
「王女殿下は?」
「私は、王家の中に残ります」
「厳しい道ですね」
「逃げたいです」
クラウディアは笑った。
正直な笑みだった。
「父が何を知っていたのか。叔父上以外に誰が関与していたのか。王家がどこまで腐っていたのか。知らなければなりません。知れば、たぶんもっと傷つきます」
「それでも?」
「それでも」
彼女は、マリナの花へ視線を落とした。
「私は箱を開けるのが遅すぎました。もう遅れたくありません」
ユリウスは、深く頭を下げた。
「手が必要なら、呼んでください」
「あなたも」
「私も?」
「一人で勇者になろうとしないでください」
ユリウスは、少し驚いた顔をした。
それから、困ったように笑った。
「セラフィーナみたいなことを言いますね」
「彼女なら、もっと優しく言います」
「レオンなら?」
「もっと刺します」
「間違いない」
二人は少しだけ笑った。
その笑いは、失ったものを消すものではない。
けれど、失った後も続いていくための呼吸だった。
*
セラフィーナ・エルシアは、王都北区の小さな療養院にいた。
大聖堂でも、王宮でもない。
聖女の私室でも、地下牢でもない。
古い修道院を改装した、静かな療養院。
庭には薬草が植えられ、午後になると洗濯物が白く揺れる。
そこに、彼女はいた。
白い聖衣ではなく、淡い灰色の服を着ている。
銀の髪はまだ短いままだ。
処刑前に切られた髪は、すぐには戻らない。
手首には、枷の跡が残っている。
喉元にも、封言の首輪が焼いた薄い痕がある。
彼女の身体には、魔王因子の残滓がわずかに残っていた。
医師の診断では、命に関わる量ではない。
だが、時折、体温が下がり、指先に黒い光が走ることがある。
そのたびに彼女は、深く息を吸い、祈りではなく、自分の名前を呟いた。
「セラフィーナ」
自分で自分を呼ぶ。
聖女でもなく。
器でもなく。
死刑囚でもなく。
セラフィーナ。
それは、彼女が療養院に来てから覚えた習慣だった。
彼女にそれを教えたのは、意外にも看護師長だった。
厳しい顔をした中年の女性で、聖女だからといって特別扱いをしない。
初日にセラフィーナが庭の患者全員を癒そうとして倒れかけた時、彼女は容赦なく叱った。
「あなたは療養に来たんです。奇跡の出張販売に来たんじゃありません」
セラフィーナは目を丸くした。
そんな怒られ方をしたのは、たぶん初めてだった。
その日から、彼女は一日に治癒祈祷を一度までと決められた。
患者たちは残念がった。
中には怒る者もいた。
けれど看護師長は言った。
「聖女様を使い潰してまで治りたいなら、まず私を倒してからにしなさい」
誰も倒せなかった。
セラフィーナは、そのことに少し救われた。
守られることに、慣れていなかった。
祈られることには慣れていた。
求められることにも慣れていた。
感謝されることにも、崇拝されることにも。
けれど、怒られ、止められ、休むよう命じられることには慣れていなかった。
だから最初は戸惑った。
でも、今は少しだけ分かる。
人間として扱われるとは、必ずしも優しくされることではない。
限界を見られること。
無理を止められること。
間違えたら叱られること。
そして、助けを求めてもよいとされること。
それもまた、人間として扱われることなのだ。
その日の午後、セラフィーナは庭の長椅子に座っていた。
膝には本。
だが、ほとんど読めていない。
文字を追っていると、時折、公開裁判の日の声が蘇る。
裏切り者。
魔王の器。
生きてください。
ごめんなさい。
聖女様。
人々の声は、まだ彼女の中で整理されていない。
許せるか分からない。
責めたい気持ちもある。
自分が黙ったせいだと思う気持ちもある。
助かってよかったと思う気持ちと、助かってしまったと思う気持ちが、同じ胸の中にある。
それでも、朝は来る。
食事は出る。
薬草は伸びる。
洗濯物は乾く。
生きるとは、劇的な答えが出ないまま、それでも次の一日を受け取ることなのだと、彼女は少しずつ知り始めていた。
「本を逆さに読む趣味が?」
声がした。
セラフィーナは、本を見下ろした。
逆さだった。
顔が熱くなる。
「……これは、そういう訓練です」
「何の?」
「逆境に慣れる訓練です」
「かなり高度ですね」
レオン・アルバートは、庭の入口に立っていた。
黒い審問官服ではなく、地味な外套を着ている。
右手には包帯。
顔色はまだ少し悪い。
それでも、前に見舞いに来た時よりはましだった。
「歩いて大丈夫なのですか」
セラフィーナが問うと、レオンは頷いた。
「医師から、短時間なら許可が出ました」
「本当ですか」
「……比較的」
「比較的?」
「歩くな、とは言われていません」
「歩いていい、とも言われていないのですね」
「解釈の問題です」
「審問官は、そうやって記録を都合よく読むのですか」
「今のは痛い」
レオンは素直にそう言い、彼女の隣に腰を下ろした。
セラフィーナは、本を閉じた。
二人の間に、庭の匂いがあった。
薬草。
湿った土。
干した布。
遠くで誰かが笑う声。
牢の冷気でも、処刑台の焦げ臭さでもない。
ただの午後だった。
「調査室は?」
セラフィーナが問う。
「混乱しています」
「でしょうね」
「証言が増えすぎています。今まで黙っていた者たちが、一斉に口を開き始めた」
「良いことでは?」
「良いことです。ただし、記録官が死にそうです」
「比喩ですか」
「今のところは」
「休ませてあげてください」
「努力します」
セラフィーナは、じっと彼を見た。
レオンは少しだけ視線を逸らす。
「休ませます」
「はい」
短い沈黙。
セラフィーナは、庭の白い花を見ながら言った。
「王都は、まだ混乱していますか」
「はい」
「私を信じてくださる方も、信じたくない方も、いますか」
「います」
「私をもう一度聖女に戻したい方も」
「います」
「私を危険だから閉じ込めるべきだという方も」
「います」
「そうですか」
セラフィーナは、静かに息を吐いた。
予想していた。
それでも、聞くと胸が重くなる。
「あなたは?」
レオンが問う。
「私は?」
「あなたは、どうしたい」
その問いは、以前にも聞かれた。
地下牢で。
処刑の前に。
王都を助けたい。
民を守りたい。
そう答えようとする彼女に、レオンは何度も聞いた。
あなたはどうしたい、と。
セラフィーナは、今もすぐには答えられなかった。
それでも、あの時よりは逃げなかった。
「私は」
彼女は、自分の手首の痕を見た。
「すぐに聖女へ戻るのは、怖いです」
「はい」
「祈ることは嫌いではありません。人を助けたい気持ちも、嘘ではありません」
「はい」
「でも、また皆さんが私に祈るようになったら、私はきっと、自分を見失います」
「でしょうね」
「否定してくれないのですね」
「嘘になります」
「本当に、あなたは」
「ひどい?」
「正直です」
「それは褒め言葉ですか」
「たぶん」
セラフィーナは少し笑った。
笑えるようになったことに、自分で少し驚いた。
「だから、しばらくはここにいます。療養院で、できる範囲のことをします。祈りも、治癒も、一日に一度まで」
「看護師長の命令ですか」
「はい。絶対命令です」
「王国法より強そうですね」
「強いです」
二人は、また少し笑った。
その後、セラフィーナは真剣な顔に戻った。
「でも、逃げるつもりはありません」
「はい」
「調査委員会には、証言します。魔王ゼルヴァ様の記憶も、私が知っていることも、全部」
「苦しいですよ」
「はい」
「民衆は、あなたに優しい質問だけをするとは限らない」
「はい」
「聖教会の残党は、あなたを利用しようとする」
「はい」
「王家を憎む者は、あなたを旗印にしようとする」
「はい」
「あなたは、また背負おうとする」
セラフィーナは、そこで言葉を止めた。
レオンは彼女を見た。
「その時は」
彼女は言った。
「止めてください」
「何度でも」
「あなたもです」
「私も?」
「一人で記録しようとしないでください。一人で裁こうとしないでください。一人で血を吐かないでください」
「最後のは難しいですね」
「難しくありません」
「生理現象なので」
「屁理屈です」
「はい」
レオンは、なぜか素直に頷いた。
セラフィーナは少し驚く。
「今日は素直ですね」
「医師から、反論は体力を使うと言われました」
「良い医師ですね」
「あなたと同じことを言います」
「では、とても良い医師です」
沈黙。
けれど、今度の沈黙は苦しくなかった。
レオンは懐から、小さな布包みを取り出した。
「これを」
「何ですか?」
セラフィーナが受け取る。
布を開くと、そこにはひび割れた銀の聖印があった。
魔王城で彼女が落とし、ユリウスが拾い、レオンが持ち続けていたもの。
裏には古代語。
器を壊せ。王都を救え。
その文字は、もう淡くなっている。
魔王因子が消えたからかもしれない。
「返します」
レオンは言った。
「これは、あなたのものです」
セラフィーナは聖印を見つめた。
長い旅の記憶が蘇る。
魔王城。
ゼルヴァ。
血の匂い。
祈り。
逃げられなかった罪。
そして、そこから始まった七日間。
「……これは、私の罪の証でもあります」
「違います」
レオンは即答した。
セラフィーナが顔を上げる。
「これは、あなたが終わらせようとした証です」
「終わらせられませんでした」
「一人では」
レオンは言った。
「でも、終わりました」
セラフィーナは、聖印を胸元に握った。
冷たい銀の感触。
それは、もう首輪ではない。
枷でもない。
彼女自身が持つことを選べるものだった。
「レオン」
「はい」
「私は、なぜ罪を望んだのでしょう」
その問いは、最終審問のようだった。
いや、彼女自身が自分に向けた審問だった。
「自分が悪になれば、誰かが明日を生きられると思ったからです」
レオンは答えた。
「私は、間違っていましたか」
「一部は」
「一部」
「あなたが民を守りたいと思ったことは、間違いではありません。王都の混乱を恐れたことも、間違いではない。真実だけでは人が救われないという言葉も、たぶん正しい」
「では」
「でも、自分一人を罪にして全てを終わらせようとしたことは、間違いです」
セラフィーナは目を伏せた。
「はい」
「あなたは罪を望んだのではない」
レオンは続けた。
「裁きを望んだのだと思います」
「裁き?」
「誰かがこの罪を終わらせなければならない。誰かが魔王因子の歴史を止めなければならない。そう思った。でも、裁かれるべきものが大きすぎた。王国、聖教会、歴史、人の弱さ。だから、あなたは一番近くにあった自分を差し出した」
セラフィーナは、何も言わなかった。
言葉が胸の奥に沈んでいく。
「それは優しさでもあり、傲慢でもある」
レオンは言った。
「傲慢……ですか」
「ええ」
「聖女に向かって、傲慢と」
「人間なので」
セラフィーナは、少しだけ笑った。
痛いところを突かれた笑みだった。
「そうですね」
「あなた一人に裁ける罪ではなかった」
「はい」
「だから、これからは分ける」
「罪を?」
「責任を。記録を。怒りを。悲しみを。祈りを」
セラフィーナは、聖印を握った。
「生きることも?」
「もちろん」
レオンの声は、少しだけ柔らかかった。
「それも、分けてください」
セラフィーナは顔を上げた。
「あなたと?」
「私だけではなく」
「では、誰と」
「ユリウス。クラウディア王女。エリス。ダニエル。看護師長。調査室の記録官。あなたを許せない人たち。あなたに謝りたい人たち。あなたがまだ許せない人たち」
「多いですね」
「生きるとは、関係者が多いものです」
「審問記録のように言わないでください」
「似ています」
「似ていません」
「似ています。関係者が多いほど、記録は複雑になる」
「では、私は複雑な記録なのですね」
「かなり」
「あなたもです」
「私は比較的単純です」
「嘘です」
レオンは少し黙った。
「今のは、真実宣告がなくてよかった」
「やっぱり嘘なのですね」
「比較的」
セラフィーナは、今度こそ声を出して笑った。
それは小さな笑いだった。
けれど、レオンは初めて聞く種類の笑いだと思った。
聖女の微笑みではない。
死刑囚の諦めでもない。
一人の女性が、庭の午後に笑っただけの声。
それだけなのに、奇跡よりも貴重に聞こえた。
*
その夕方、レオンは療養院を出た。
門の前で、セラフィーナが見送った。
「次はいつ来ますか」
彼女が問う。
「調査室の状況によります」
「では、来ないつもりですね」
「なぜそうなる」
「あなたは書類を優先しがちです」
「否定できない」
「来週、調査委員会で私の証言があります」
「もちろん同席します」
「その前に、来てください」
レオンは少し驚いた。
セラフィーナは、自分から望みを口にした。
小さなことかもしれない。
だが、彼女にとっては大きな変化だった。
「分かりました」
「本当に?」
「本当に」
「では、約束です」
「はい」
「破ったら?」
「審問を受けます」
「私がします」
「厳しそうですね」
「はい。最近、看護師長に鍛えられていますので」
「それは恐ろしい」
セラフィーナは、門の前で少しだけ迷った。
そして言った。
「レオン」
「はい」
「助けてくれて、ありがとうございました」
その言葉は、以前も聞いた。
地下牢で。
壁が閉じる直前に。
だが、今は違った。
あの時の感謝は、死へ向かう者の最後の祈りのようだった。
今の感謝は、生きている者が、生きている者へ向ける言葉だった。
「こちらこそ」
レオンは答えた。
「何にですか」
「生きてくれて」
セラフィーナは、目を見開いた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「はい」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「生きます」
夕陽が、短い銀髪を淡く照らしていた。
レオンは一礼し、療養院を後にした。
*
王都の夕暮れは、以前と同じようで、少し違っていた。
パン屋からは焼きたての香りがする。
市場では値切り合いが続いている。
子どもたちは路地を走る。
馬車の車輪が石畳を叩く。
日常は戻りつつあった。
だが、広場の中央にはまだ処刑台の跡が残っている。
大聖堂の鐘は鳴らない。
掲示板には、新しい布告が貼られている。
――聖女セラフィーナ・エルシアの死刑判決を無効とする。
――魔王因子計画に関する証言を求む。
――第二礼拝堂犠牲者の身元確認に協力されたし。
その前で、人々が足を止めていた。
読む者。
目を逸らす者。
泣く者。
怒る者。
祈ろうとして、手を下ろす者。
王国は変わっていない。
まだ。
だが、変わらなければならないことを知ってしまった。
それだけで、もう昨日と同じではいられない。
レオンは、中央広場の端で足を止めた。
処刑台の跡地に、白い花が一輪置かれていた。
誰が置いたのかは分からない。
聖女へ捧げたのか。
ライネルへ捧げたのか。
名もなき犠牲者へ捧げたのか。
あるいは、自分が信じていた嘘への弔いか。
分からない。
分からないままで、よかった。
すぐに意味を決めつけることが、どれほど危険かを、彼はもう知っている。
「レオン」
声がした。
アーヴィン所長だった。
いつもの黒い外套。
疲れた顔。
だが、以前より少しだけ肩の力が抜けているように見えた。
「所長」
「療養院か」
「はい」
「セラフィーナは?」
「生きています」
「それは報告になっていない」
「では、少し笑いました」
アーヴィンは、わずかに目を細めた。
「そうか」
「はい」
「お前は?」
「生きています」
「それも報告になっていない」
「では、少し疲れています」
「それは見れば分かる」
アーヴィンは、処刑台跡地を見た。
「調査室に戻るか」
「はい」
「今日は帰れ」
「ですが」
「命令だ」
「……はい」
レオンが素直に頷くと、アーヴィンは逆に不審そうな顔をした。
「熱でもあるのか」
「なぜです」
「お前が素直だ」
「最近、よく言われます」
「誰に」
「主にセラフィーナに」
「なら、効果があるな」
アーヴィンは小さく笑った。
それから、懐から一通の書状を出した。
「正式な辞令だ」
「辞令?」
「臨時真実調査室を、恒久機関にする案が通った」
レオンは書状を受け取った。
そこには、王家印章と異端審問庁長官印が並んでいた。
新設機関名。
王国再審記録庁。
通称、新審問庁。
役割。
過去の裁判記録の再調査。
証人保護。
証拠保全。
権力機関による判決介入の監査。
そして、魔王因子計画関連事件の継続調査。
レオンは、最後の行を読んだ。
初代記録審問官候補。
レオン・アルバート。
「候補、ですか」
「不満か」
「いいえ。候補なら断れますか」
「断るのか」
「少し考えます」
「お前が?」
「はい」
アーヴィンは、今度こそ意外そうに見た。
レオンは書状を畳んだ。
「以前なら、受けたと思います。必要だと思えば、自分の体調も感情も無視して」
「今は?」
「相談します」
「誰に」
「関係者に」
「多そうだな」
「ええ。生きるとは、関係者が多いものらしいので」
アーヴィンは、しばらく黙っていた。
そして、低く笑った。
「いい傾向だ」
「そうでしょうか」
「ああ」
所長は、処刑台の跡地へ目を向けた。
「ノアの名も、調査記録に入れる」
レオンは、少しだけ息を止めた。
討伐隊の監察官。
帰還記録から消された男。
アーヴィンの弟子。
「はい」
「ライネルの名も、エルネストの名も、マリナの名も、ゼルヴァの名もだ」
「はい」
「名もない骨にも、名を戻す」
「はい」
「それが、新しい審問庁の最初の仕事だ」
レオンは、書状を握った。
「所長」
「何だ」
「これは、終わりではありませんね」
「当たり前だ」
アーヴィンは言った。
「裁判は、判決が出た後のほうが長い」
「嫌な真実ですね」
「お前が好きそうだろう」
「否定できません」
夕陽が、広場を赤く染めていた。
かつて処刑台が立っていた場所に、長い影が伸びる。
その影は、少しずつ薄れていく。
夜が来るからではない。
広場に、新しい灯りがともされ始めたからだ。
*
その夜、レオンは久しぶりに自分の部屋へ帰った。
異端審問庁の宿舎ではなく、王都東区の小さな部屋。
逃亡犯になる前は、ほとんど寝るためだけの場所だった。
机には古い本。
壁には地図。
棚には整然と並んだ記録帳。
以前と変わらない。
だが、部屋に入った瞬間、レオンは違和感を覚えた。
机の上に、一通の封筒が置かれている。
封蝋はない。
差出人もない。
だが、紙質は良い。
王宮か、聖教会か。
レオンは短剣に手を伸ばしかけ、やめた。
危険物の魔力反応はない。
封を開ける。
中には、一枚の紙だけが入っていた。
古い王都地下図。
その一部。
第二礼拝堂よりさらに深い場所に、赤い印がつけられている。
添えられた文は短かった。
――魔王因子は、すべて消えたわけではない。
レオンは、目を細めた。
脅迫か。
警告か。
告発か。
あるいは、まだ名を持たない誰かの祈りか。
彼は椅子に座り、紙を広げた。
心臓が、静かに速くなる。
疲れている。
休むべきだ。
約束もある。
セラフィーナに、来週の証言前に会うと約束した。
生きると約束した。
だから、すぐには動かない。
以前のレオンなら、夜のうちに地下へ向かっただろう。
今のレオンは、紙を封筒へ戻した。
そして、記録帳を開く。
日付を書いた。
差出人不明の地下図を受領。
内容、魔王因子残存の可能性。
即時単独調査は行わず。
関係者と共有の上、調査方針を決定する。
そこまで書いて、彼は少し手を止めた。
関係者。
ユリウス。
クラウディア。
アーヴィン。
ダニエル。
そして、セラフィーナ。
生きるとは、関係者が多い。
レオンは小さく息を吐いた。
「面倒だな」
けれど、その声には、ほんの少しだけ笑いが混じっていた。
*
翌朝。
療養院の庭では、セラフィーナが看護師長に叱られていた。
「一日に一度と言いましたね」
「はい」
「今朝、祈りましたね」
「はい」
「では、なぜ二人目の患者に手を伸ばそうとしたのですか」
「……手が、勝手に」
「便利な手ですね。縛りますか」
「それは少し、思い出すので」
「では縛りません。代わりに草むしりです」
「はい……」
セラフィーナは、しょんぼりしながら庭の隅へ向かった。
手には小さな籠。
頭には日除けの布。
かつて王国中に肖像画が掲げられた聖女は、今、療養院の庭で草をむしっている。
その姿を、門の外から見たレオンは、しばらく黙った。
セラフィーナが気づく。
「レオン?」
「邪魔しましたか」
「見ていたなら助けてください」
「看護師長に逆らう権限はありません」
「新しい審問庁にも?」
「ありません」
「弱い組織ですね」
「改善課題です」
彼は門を開けて入った。
セラフィーナは籠を抱えたまま立ち上がる。
「どうしたのですか。約束は来週のはずでは」
「相談があって」
「相談」
彼女の表情が、少し真剣になる。
レオンは封筒を取り出した。
地下図を渡す。
セラフィーナは赤い印を見た瞬間、目を細めた。
「ここは……」
「知っていますか」
「魔王城で、ゼルヴァ様の記憶に一瞬だけ出てきた場所に似ています」
「王都地下です」
「はい。でも、王都ではないようにも見えます」
「どういう意味です」
「たぶん、王都地下とどこか別の場所が繋がっている」
レオンは黙った。
新しい事件の匂いがした。
王国の嘘は裁かれた。
だが、魔王因子の歴史は、王都だけで完結していないのかもしれない。
セラフィーナは地図を見つめ、やがて顔を上げた。
「行くのですか」
「一人では行きません」
セラフィーナは、少しだけ目を丸くした。
「本当に変わりましたね」
「よく言われます」
「誰に?」
「あなたに」
「では、私も行きます」
「療養中です」
「相談したのでしょう」
「しました」
「なら、私も関係者です」
「そう言うと思いました」
「止めますか」
「止めます」
「では、私は怒ります」
「でしょうね」
二人はしばらく見つめ合った。
やがて、レオンが先に息を吐く。
「まず、医師の許可を取ります」
「はい」
「看護師長の許可も」
「そこが一番難関ですね」
「そして、ユリウスとクラウディア王女、アーヴィン所長にも共有します」
「はい」
「それから、調査計画を立てます」
「はい」
「絶対に、一人で動かない」
セラフィーナは、柔らかく笑った。
「お互いに」
「はい」
朝の光が庭に降り注いでいた。
薬草の葉が揺れる。
洗濯物が白くはためく。
遠くで、鐘の代わりに子どもの笑い声が響いた。
セラフィーナは、地図を胸に抱えた。
もう祈りだけで全てを背負う聖女ではない。
レオンは、記録帳を抱えた。
もう一人で真実を裁こうとする審問官ではない。
王国はまだ傷ついている。
嘘はまだ残っている。
魔王因子の残滓も、きっとどこかに眠っている。
それでも、二人は知っている。
真実は人を傷つける。
だが、嘘の中に閉じ込めたままでは、人はいつか誰かを器にする。
だから、見る。
記録する。
裁く。
祈る。
そして、生きる。
「レオン」
「はい」
「今度は、七日もかけないでくださいね」
「何を」
「私が無理をしていたら、止めることです」
「努力します」
セラフィーナは、じっと見た。
レオンは言い直した。
「止めます」
「はい」
「あなたも、私が無理をしていたら止めてください」
「もちろんです」
「方法は穏便に」
「看護師長に相談します」
「それは穏便ではない」
「最も有効です」
レオンは、少しだけ顔をしかめた。
セラフィーナは笑った。
朝の光の中で。
聖女ではなく、一人の人間として。
その笑みを見て、レオンは思った。
七日間の裁判は終わった。
けれど、彼女が生きるための審問は、まだ始まったばかりなのだと。
そして自分もまた、同じ場所に立っている。
誰かを裁く側ではなく。
誰かと共に、嘘の前に立つ側に。
王都の空は、高く晴れていた。
大聖堂の鐘は、まだ鳴らない。
それでも、人々は朝を始めている。
新しい審問庁の扉は、今日、開かれる。
そこにはきっと、また書類の山と、証言の矛盾と、面倒な真実が待っている。
レオンは地図を見た。
セラフィーナは、草むしりの籠を置いた。
二人は並んで、療養院の庭を歩き出した。
生きるために。
裁くために。
そして、もう誰も便利な犠牲にしないために。
(了)




