未来と向き合うために②
アキナ ― 森吉山・里山 ―
私は縄を握りしめながら、男を連れて人里へ向かって下山していた。男の両手はギンジロウさんから渡された縄で縛られている。その縄の持ち手を握る私の手は、汗で少し湿っていた。
スマホの画面を開く。電波の表示は弱いけれど、かろうじて繋がっている。
アキナ「電波は、大丈夫だね……」
警察に連絡しようとした瞬間――
頭の奥で、何かが弾けた。
ズキッ!
アキナ「うぐっ……!」
視界が揺れ、私は木にもたれかかった。胸の奥がざわつく。嫌な予感が、背骨を冷たく撫でた。
アキナ(……来る)
その瞬間だった。背後から、獣のような気配が跳ね上がる。
猿女「ギィ!!」
反射的に身体が動いた。攻撃がどこから来ても避けれるように身構えていた。そのおかげで、かろうじて回避できた。
だけど――縄が切られた。
ザンッ!
男は目を見開き、歓喜の声を上げた。
ごろつきD「ヤッター!!これで俺は自由の身だぁあああ!!」
男は森の奥へと逃げていく。
私は手を伸ばした。
アキナ「待って……!!」
だけど男は振り返り、私を嘲笑った。
ごろつきD「誰が止まるかバァカ!!俺は刑務所に行かねぇよ!!」
その瞬間、私は鬼神へ変身しようとした――
猿女はその一瞬の隙を逃さなかった。
猿女「ペッ」
唾が飛ぶ。空中で石化し、鋭いナイフのようになって男の喉へ突き刺さった。
ごろつきD「ゴフッ!?」
男はその場で崩れ落ちた。喉を押さえ、何が起きたのか理解できないまま藻掻いている。
アキナ(駄目だ……あの人は、もう助からない)
私はまた守れなかった。ただ、彼が苦しみながら死んでいくのを見ていることしかできなかった。
男と目が合う。その瞳は恐怖と後悔で濁っていた。
ごろつきD「た、す、け……」
その声は途中で途切れ、男は動かなくなった。
アキナ「また……死んだ……」
胸の奥がぎゅっと縮む。
呼吸が浅くなる。
視界が滲む。
その隙を、猿女は見逃さなかった。
猿女「ギギギッ!!」
背後から迫る殺意。私は振り向こうとした――
けれど、身体が動揺で遅れてしまった。
猿女の爪が、私の顔へ迫る。
もう避けられない。
パァンッ!!
銃声が森に響いた。猿女の右肩に弾丸が撃ち込まれ、吹き飛ぶ。
猿女「ガァッ!!」
私は銃声の方向を見て、目を細める。
アキナ(もしかして……ギンジロウさん!?)
けれど、遠くてよく見えない。鬼神にならないと視力が足りない。
アキナ(やっぱり……鬼神にならないと遠くは見えないよね……)
ダァンッ!
猿女がカエルのように空高く跳んだ。その方向は、銃声の向こう。
アキナ「ギンジロウさんが危ない!!」
私はすぐに鬼神へ変身し、猿女の後を追った。
胸の奥で、“怖い”と“行かなきゃ”が同時に叫んでいた。
アサヒ ― 森吉山・深部 ―
双眼鏡を覗くと森の奥で何かが跳ねた。影が地面を蹴り、木々の間を縫うように迫ってくる。
アサヒ「猿女が来る。凄い速さだ……ここからは白兵戦だ」
双眼鏡を地面に置き、刀を抜いた。刃が薄く光る。だが、ギンジロウが手を軽く挙げて俺を制した。
ギンジロウ「手を出すなアサヒ。ここからは、俺一人で猿女を倒す」
その声は低く、乾いていて、覚悟を飲み込んだ男の声だった。
死ぬつもりの声だ。
俺は眉をひそめた。
アサヒ「あの猿女は大巫女が邪神化したものだ。並みの魔物より遥かに強い。……死ぬつもりなのか」
ギンジロウは不敵に笑った。その笑みは獣が獲物を前にした時のように静かで、どこか寂しげだった。
ギンジロウ「いいや、生き残るのは俺だ。ただ、一人でけりを付けないと自分を許すことができないだけだ。要は拘りだよ」
ギンジロウは猟銃を肩に担ぎ、森の奥を睨んだ。
ギンジロウ「だから、アキナを止めておいてくれないか?」
その背中は、長い年月を背負った男の背中だった。俺は刀を収め、ギンジロウの背中を軽く叩いた。
アサヒ「分かった。勝てよ。俺よりもまだ長生きできるんだからな」
ギンジロウは振り返り、怒鳴った。
ギンジロウ「ガキに言われたくねぇ!!」
その怒りは本気ではなく、どこか照れ隠しのように見えた。俺は大笑いした。笑いながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。
ギンジロウは死ぬつもりだ。
だが、生きていてほしい。
彼の技術は、彼の生き方は、この世界にとって価値がある。
そして――
ギンジロウも、俺に対して同じことを思っている。
それでも、俺たちには命を賭してでも果たさなければならないものがある。
それは自己犠牲ではない。
他者のためでもない。
責任を果たす為だ。
ならば、ギンジロウの戦いの邪魔をするわけにはいかない。
俺は双眼鏡を拾い、アキナの方へ向かって走り出した。
胸の奥で、何かが熱く燃えた。
ギンジロウ ― 森吉山・深部 ―
深い森の奥。風も止まり、木々のざわめきすら消えた空間で、俺は猿女と向き合っていた。
互いに一歩も動かない。
ただ、呼吸だけが静かに森へ溶けていく。
言葉はいらない。
いいや、元から邪神や魔物に言葉なんて通じない。
狩るか、狩られるか。
それだけだ。
だから――こいつをキンコだと思うな。
そう自分に言い聞かせた。
猟銃にはすでに弾丸を装填してある。魔物の骨を削り、磨き、何年もかけて弾丸に加工してきた。そのために、何度も魔物と一人で戦い続けた。
片目を失ったのも、その過程だ。
それでも戦えたのは――
この瞬間のためだ。
猿女は強い。アサヒが言っていた通りだ。そして俺が戦ってきた魔物の中で、間違いなく最速だ。
一発外せば終わり。
二発目を撃とうとした隙に殺される。
ギンジロウ(仕留めるなら、一発か)
猟銃を構える。狙うなら、頭か心臓。
手が震えた。
呼吸を整え、緊張を押し殺す。
猿女の瞳が細くなる。
その瞬間――
猿女「ギィヤァアアア!!」
甲高い雄叫びとともに、猿女が猛スピードで直進してきた。
ギンジロウ「一直線か……!」
思わず笑みが漏れた。一直線なら、弾は当てやすい。
照準を猿女の頭へ合わせる。
だが――
猿女の身体が突然ジグザグに揺れた。
銃口が追いつかない。
ギンジロウ「速い……!」
照準を合わせようと必死に追う。だが、もう猿女の身体にすら合わなくなっていた。
そして――
いつの間にか、猿女の姿が消えていた。
ギンジロウ「馬鹿な……見失ったか!?」
周囲を見渡す。
森の影が揺れる。
風が戻る。
その瞬間――
背後から腹を貫かれた。
ズドンッ!!
熱い痛みが腹を突き抜ける。猿女の腕が俺の腹に深く刺さっていた。猿女はニヤリと笑い、勝利の高笑いを上げた。
猿女「キャッキャッキャッキャッキャッ!!」
その笑い声は森の奥へ響き渡り、死を祝福するかのようだった。




