この良き日の終わりに・後編
一度家に帰り、驚く家族には仕事が入ったと告げ、荷物をまとめて電車に乗った。東北へ向かう新幹線の中、真っ黒な携帯の画面をぼんやりと見つめる。
歌織が欠席の旨を伝えてくれているはずだ。もしかしたら翔平から連絡が入っているかも知れない。彼のことだ、気づかなくてごめん、などと言ってくるに違いない。彼のせいではないのに、明希子の嘘で気遣わせる。しかもこの良き日に。その想像が事実になるのが怖くて、家を出た瞬間早々に電源を切ってしまった。別に、切ったからといって何かが変わるわけではないのに。
家に帰る途中、うっかりSNSを開いてしまった。途端に飛び込んでくる、披露宴の写真。参加部員たちが祝いの言葉と共にこぞってアップしているそれには、明希子もちゃんと映っていた。一応ちゃんと明るい顔をしていたようで安心したけれど、それ以上は見られずに画面を閉じる。歌織の言ったとおりだった。もしかしたらしばらくはバド部仲間の投稿も見られないのではないかと思うと、ますます気持ちが落ち込んでいく。落ち込んだ気持ちは横に流れて、やがて翔平の隣で笑う可憐な花嫁へと向かっていく。理不尽極まりない感情に、自分で自分が嫌になる。そのループを延々と繰り返していた。
歌織の言葉が、ずっと頭から離れない。
翔平は多分、歌織が言うほど計算高くない。ただ善良で、能天気で、少しだけ周りの繊細さに疎いだけ。だから、彼が親友と言えば間違いなくそうで、相手の、明希子の心情おかまいなしに、配慮も遠慮もなく今に至っても親友の距離感で接してくる。
だから、お門違いな感情をいつまでも引きずって勝手に振り回されているのは明希子の問題だ。気負いなく語れる、あの距離感が心地よかった。例え決して恋人になれないとしても、彼と人生最良の日を迎えることができなくても。翔平の「特別」でいることは、確かに明希子のステータスだった。
……そのステータスも結局は明希子の思い込みで、翔平にとって明希子は、これまでに作ってきた多くの親友の一人に過ぎないのだろうけれど。そんなことも気づかずに、花嫁に恨みまで抱いて、一体自分は何様のつもりなのだろう。
「……ほんっと、馬鹿みたい」
このまま消えてしまいたかった。
ひたすら北上し、夕闇に覆われる頃に最寄り駅まで帰ってくる。地元では縁遠かった肌寒さに、椅子に手荷物を置き、中から上着を引っ張り出した。出したところで、ふと手が止まる。下から出てきた引き出物、実家に置いていこうと思ったのに、うっかり持ってきてしまった。逃げてこちらに来る以上、何も持ってこないと決めていたのに。
ぼんやりと見下ろしていたその時。
「着ないの?」
隣から、ハスキートーンの声がかかった。
聞き覚えのある声にのろのろと顔を上げる。
「風邪引くわよ」
現実が、帰ってくる。
「……細野、チーフ」
明希子よりひとまわりほど年上の女性が、腕を組み、眉をひそめて立っていた。
「……何、その幽霊のような声は」
「すみません……」
「別に仕事じゃないから怒ってないけど」
「……すみま、せん」
なぜ、こんな時に。少しだけ恨めしい気持ちがわく。転勤時から、この鋭い雰囲気が苦手だった。黙りこくってしまった明希子の耳が、呆れるようなため息を拾う。気配が横を抜けていき、自販機のピッ、ゴトンが2度聞こえ、ヒールの音が戻ってきたかと思うと、唐突に目の前に温茶が差し出された。反射で出した手を、温もりがあっという間に巡る。
「座って。飲みなさい」
思わず顔をあげた瞬間、目力に圧されて大人しく座る。ちびちびと飲む明希子の隣で、上司は豪快に缶コーヒーをあおった。
「……で、結婚式参列で明日まで帰省しているはずの貴女が、なぜそんな顔でここにいるのかしら」
カツン、と椅子の手すりに缶の当たる音がした。明希子の肩が小さく揺れる。
「……それは、仕事と関係ありますか」
飲み物をおごってもらっておきながら、ついそんなことを問い返してしまう。
「経験上、そういう顔をしている人は確実に数日は引きずる。仕事にも当然、ミスが出るわね」
そして明希子のミスをカバーするのは、いつだって細野だ。その彼女に、明希子は「大丈夫だ」なんて言えなかった。言ったら今後の自分に地獄が待っている。
でも、明後日からも顔を合わせるこの人に、一体何を語れば良いのだろう。
沈黙が続く。空き缶を指で弾く音だけがホームを抜ける。掌の温度とお茶の温度が混ざっていく感覚がやけに際立った。
もう良いや。不意に明希子の中で何かが振り切れた。明後日のことも、隣のこの人がこれからどのような目で明希子を見るのかも、もう、どうでも。
「……チーフは」
ポツンと声が転がり出る。
「チーフは、失恋したことって、ありますか」
「……一つ聞きたいのだけれど」
前を向き、腕を組んで明希子の告白を聞き終えた細野は、人指し指をスッと立てた。身構える気力もない明希子は、小さく頷くことで応える。
「貴女、その彼女に実際に何かするつもりでいる?」
「……え?」
予想外の問いに顔を上げる。
「何か、とは?」
「丑の刻参り、呪いの手紙、嫌がらせのメール、今ならSNSで風評被害とか」
「そんなことしませんよ!」
それは、躊躇いの欠片もない反論だった。明希子の中に、その選択肢はない。思いつきもしなかった。
心外だという表情すらする彼女に、細野はもう一度、今度ははっきりと頷くと、あっさりと言い放った。
「なら良いんじゃない。恨もうが憎もうが、それがどれだけ自分勝手で見当違いでも」
「……は?」
今度こそ、明希子は言葉を失った。困惑も明らかな彼女に、例えば、と細野は続ける。
「例えば、私はA社の営業が来ると、いつも毒入りの茶を出す自分を想像する」
「……そうだったんですか?」
それは、どんな理不尽を言われてもいつも顔色一つ変えずに対応する彼女からは、到底想像できない姿。
「お茶を運んで来た貴女に、『何で毒入れて来ないのよ』と腹が立ったこともある」
「それとんだとばっちり……」
「えぇ。でも、それを貴女に言ったことはないし、実際に毒を入れたこともない」
「……はい」
「そういうことよ。誰を逆恨もうと殺そうと、想像では自由。自分の想像は自分の中だけのものだから、それに誰がどうこう言う資格はない。自分さえ、『これはあくまで想像だ』とわかっていれば良い」
それは驚くほど柔軟に、明希子の中に落ちてきた。二度ほど大きく息を吐いて、それから改めて、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。静かに、ゆっくりと、時間をかけて。同じだけの時間をかけて温かな息を吐くと、明希子はふと、口元を緩めた。
「チーフがそんな考えをもっていたなんて、意外でした」
「そう? 仕事に支障が出なければ、別に何だって良いというだけなのだけれど」
ああ。このシンプルさが、今はとても心地よい。
細野の例え話はまだ続く。
「貴女、チョコレートは好き?」
「はい」
「嫌いな食べ物は?」
「……パクチーは、ちょっと、無理です」
「パクチー入りチョコレートがあったら、食べる?」
「……いえ」
「そういうことよ」
今度は明希子にも容易にわかった。あぁ、と天を仰ぐ。
「どれだけ好きでも、好きだからというだけで何でも認めるわけではないでしょう。苦手なもの、嫌いなものが混ざっていれば距離を置くこともある」
「……そうですね」
感情に躓いて、関係に固執して、記憶に追い縋って、こんなにも身近なことに、こんなにも気づけない。
「……本当に、その通りです」
明後日からちゃんと仕事ができそうね。そう言って去っていく上司に深々と頭を下げ、明希子もまた帰路につく。携帯の電源を入れると、いくつかの通知の中に翔平のものがあった。
《体調は大丈夫?やっぱそっちから来るのは疲れるよな、悪い。今日は来てくれて本当にありがとな。またそのうち、飯行こう》
ふ、と吐息を風に流して、夜の空を見上げる。本当にこの男は、予想を裏切らない。なんて優しくて、残酷な人。
《せっかくの良き日に心配かけてごめん。もう大丈夫。良い式でした》
それからふと思いついて、指を動かした。
《翔平になんと言われようと、あの時私は、確かに翔平が好きでした。でも今、その優しさは本当に苦痛です。だから、もう会うつもりはありません。せいぜいお嫁さんとお幸せに。ばーか》
そうやって能天気に生きて、いつか奥さんに呆れられれば良い。それで泣きついてきても、自分は鼻で笑うだけだ。
「……バーカ」
小さく呟いてからその文章を消していく。少しだけ考えて、しばらく指をさ迷わせ、 それから少し書き換えて、送信ボタンを押した。
《どうぞ、お嫁さんとお幸せに。それでは》