第四十三話 二〇一二年【二〇一二年の日常と、計算機の敗北】
「ママ! 今日の僕の歩行速度と信号の青のサイクルから逆算すると、あと二分で家を出れば遅刻のリスクは完全にゼロだよ! いってきます!」
玄関に元気な声が響き渡る。
真新しいランドセルを揺らし、一切の無駄がない完璧な動線で飛び出していく奏の後ろ姿を見送った。
二〇一二年、春。
小学二年生になった息子は、最近ますます誠さんにそっくりになってきた。
高校時代、カリスマ性があって派手な健二さん(誰の目にも分かりやすい、華やかで男らしいタイプだった)の影に隠れがちだったが、誠さんは実のところ、非常に端正な顔立ちをしていた。涼しげで知的な美しさの中に、時折どうしようもなく人間臭くて不器用な愛嬌が覗く。奏はその誠さんの美しい遺伝子をそっくりそのまま引き継いでいて、この先どれだけ女の子たちに騒がれるようになるのか、母親としては少し心配になるほどだ。
「ママ、はやくはやく!」
私のスカートの裾を引っ張るのは、今年幼稚園に入ったばかりの遥だ。
「はいはい、今行くわよ。転ばないようにね」
小さな手をしっかりと握り、幼稚園へと向かう道を歩く。
見下ろすその顔立ちや体型は、私が一度目の人生で産み落とし、そして狂うほどに愛した「遥」のものとまったく同じだった。
けれど、かつていつも私の顔色を窺っていた怯えた瞳は、もうどこにもない。誠さんの底なしの愛情という安全な海で、たっぷりの栄養を与えられて育ったこの子は、まっすぐで、凛としていて……手前味噌だけれど、少しだけ私に似た芯の強さを見せ始めている。
そして何より——一度目の人生で、どうしても健二さんを思い起こさせてしまっていたあの指の形は、今の彼女にはない。
私が今繋いでいるこの小さな手は、誠さんの遺伝子を色濃く受け継いだ、彼そっくりの長く美しい指の形をしているのだ。
(同じ顔をした、悲しい幻なんかじゃない。この子は間違いなく、私と誠さんの大切な娘だ)
春の風に吹かれながら、私は繋いだその手を愛おしく握り返した。
誠さんは今や気鋭の枠を超え、名の知れた薬学研究者として、充実した顔で多忙な日々を送っている。
一方の私は、パートタイムで薬剤師の仕事を続けていた。
『真由子ちゃんがフルタイムで復帰したいなら、僕も家事育児の分担を再計算して完璧にサポートするよ。でも、もし君がもう少し家で子どもたちの傍にいたいと思うなら、それも大賛成だ。君の思いのままにしてほしい』
誠さんがそう言ってくれたおかげで、私は今、自分のペースで子どもたちの成長を一番近くで見守るという、この上ない贅沢な時間を過ごさせてもらっていた。
その日の夜。
奏と遥を寝かしつけ、静まり返った主寝室。
マンションから一軒家へ引っ越す際、誠さんが何がなんでもと執念で搬入した、あの広く寝心地の良いクイーンサイズのベッド。ほんのりとオレンジ色の間接照明だけが灯る中、隣に横たわった誠さんが私の髪を優しく撫でた。
そして、その大きな手がすっと独立したナイトテーブルの引き出しへと伸びようとした。
「あ……誠さん」
「ん?」
「今日は……」
私は少しだけ顔を赤くしながら、引き出しを開けようとした彼の手をそっと押さえた。
「今日は、安全日だから……気にしなくて、いいよ」
その瞬間。誠さんの「夫」としての甘い空気が一変し、研究者であり、医療従事者であり、「人間計算機」である彼の理性が、カチリと音を立てて作動した。
「真由子ちゃん。医学的に言えば『絶対的な安全日』などというものは存在しないんだよ。オギノ式をはじめとする基礎体温法も完全ではないし、統計学的・生物学的なパールインデックス(妊娠確率)のデータから見ても、万が一のリスクを考慮すれば……」
「…………」
「もちろん、僕としては三人目ができても生活設計や教育資金の再計算はすぐにできるから構わない。でも、真由子ちゃんの身体にまた大きな負担をかけるわけにはいかないからね。ここはやはり、確実なデータに基づいて——」
真面目な顔で、早口に科学的根拠を並べ立てる誠さん。
本当に、この人はどこまでも誠実で、理屈っぽくて、私のことが大切すぎるのだ。
私は彼が並べる正論を途中で遮るように、着ているパジャマの袖をきゅっと指先で掴んだ。
そして、ベッドのシーツに沈み込みながら、下から彼を見上げるようにして——意図的に、潤んだ瞳で真っ直ぐに見つめ返した。
「……誠さん、だめ?」
ぴたり、と。
誠さんの口から紡がれていた論理的な言葉が、一瞬にして止まった。
数秒間の、完全なフリーズ。
彼の脳内で、これまでの完璧な計算式が音を立てて崩れ去り、ショートしていくのが手にとるようにわかった。
「……あー、もう」
誠さんは深く、深くため息をつくと、自ら眼鏡を外してナイトテーブルに放り投げた。
「君には、本当に敵わないな」
医療従事者としての完璧な正論も、人間計算機としての理屈も、結局この人は最後には全部投げ打って、私に甘く負けてくれる。
私の世界で一番大好きな人が、呆れたような、それでいてたまらなくオスとしての熱を帯びた愛おしそうな顔をして、静かに私を腕の中に閉じ込めた。




