独奏・佐藤誠 後編【黒い手帳の真実と、計算を終わらせた純粋な愛】
翌朝。
俺がキッチンで淹れたコーヒーの香りで、真由子ちゃんは目を覚ました。
「おはよう、真由子ちゃん。コーヒー、飲む?」
俺がいつものように穏やかに声をかけると、彼女は酷くばつが悪そうな顔をしながら身体を起こした。
「……いただきます」
差し出されたマグカップを両手で包み込み、彼女はゆっくりと一口飲んだ。
重たい沈黙がリビングに落ちる。やがて真由子ちゃんは、静かに、けれど確かな決意を持って息を吐き出すと、自分のバッグから黒い小さな手帳を取り出した。
「……先生。昨夜言ったことは、嘘じゃないんです」
真由子ちゃんは、その黒い手帳を真っ直ぐに俺へと差し出した。
「これが、私が未来から来たという証拠です。ここに、これから起こる出来事や、私が守りたかったものが……全部書いてあります」
俺はマグカップをテーブルに置き、静かに手を伸ばして、その手帳を受け取った。そして、彼女のすべてを受け入れる覚悟で、ゆっくりとそのページを開き始めた。
俺は長い時間をかけて、真由子ちゃんが差し出した黒ビニールの手帳のページを、一つ一つ捲り続けた。
そこにびっしりと記されていたのは、一九九〇年から二〇二六年までの株価の推移や日本・世界の重大ニュース。
そして——俺の中学時代からの親友である花岡健二との結婚、愛娘『遥』の誕生と……その後に始まったという、健二からの容赦ないモラル・ハラスメントと暴力の記録だった。
タイムリープという非現実的な現象を経験した彼女が、記憶が薄れないうちに未来のすべてを書き出しておいたのだ。
読み進めるにつれ、俺のページを繰る指先にギリッと強い力が籠もる。
俺の親友——母さんが亡くなった高校二年のあのとき、あんなに親身になって支えてくれた男気のある健二——が、未来で彼女にこれほどの地獄を見せ、尊厳を踏みにじっていたというのか。
ただ……記録から読み取れるアイツの執着は、今までの適当な女の扱いとは明らかに違っていた。アイツなりに、真由子ちゃんのことを心底愛していたことだけはわかる。だからこそ、自分の支配下に置くためなら彼女の心を壊すことすら厭わないその歪んだ愛情が、余計に胸糞悪く、絶対に許せなかった。
胸中で、健二に対する凄まじい怒りと、彼女が一人で耐え抜いてきた孤独にもっと早く気づいてやれなかった自分への歯痒さが荒れ狂っていた。俺は必死に頭の計算機を回し、暴走しそうな感情をどうにか押さえ込んでいた。
最後のページまで読み終え、俺は静かに手帳を閉じた。そして眼鏡を外し、疲労と衝撃の混じる眉間を指で強く押さえた。
「……浅野さん。いや、真由子ちゃん」
俺はできるだけ冷静な声を保ち、顔を上げた。
「荒唐無稽な話だ。普通なら、精神の失調を疑うところだろう。……けれど、この手帳に書かれている過去数年の経済推移、そしてまだ起きていないはずの医療技術の進歩や社会情勢の予測。これらを『偶然』や『妄想』として片付ける方が、僕にとっては非論理的だ」
俺は真っ直ぐに真由子ちゃんを見つめた。その瞳には、もう狂気も困惑もなく、ただ真実を受け入れるだけの深い納得があった。
「ずっと、君に対して抱いていた違和感の正体がようやく解けたよ。出会った高校生の頃から、君は時折、同年代の少女にはあり得ないほどの、すべてを悟ったような悲しい目をしていた。合奏で初見のはずの曲を淀みなく吹いたことも、周囲の感情の機微を先回りして察知する能力も。……それが、四十九歳の魂が持つ重みと経験だったんだね」
「……信じて、くれるんですか?」
「ああ。僕の頭の中の計算はすべて合ったよ。……そして、君が最も苦しんでいる『遥』という娘さんの件についても、僕なりの解を出した」
俺は椅子を引き寄せ、彼女の正面に座った。
ここからは、彼女を縛り付ける呪いを解くための、論理の戦いだ。
「真由子ちゃん。君は、健二の元に戻らなければ同じ娘は生まれない、だから自分は幸福になってはいけないと考えているね。けれど、それは残酷な誤解だ。命の誕生というのは、遺伝子の組み合わせ、受精のタイミング、母体の環境……天文学的で、気が遠くなるような偶然の連続の上に成り立つものなんだ。たとえ君が過去と寸分違わぬ行動をなぞり、あの男と同じ日、同じ瞬間に結ばれたとしても、過去と『全く同じ魂の配列』を持った娘が宿る確率など、数学的にも生物学的にも、事実上ゼロだ」
俺は言葉を選びながら、静かに、けれど断固とした口調で続けた。
「君がたった一人で地獄に戻るという自己犠牲は、尊いけれど、あまりに悲しい幻に過ぎないんだよ。もう二度と再現できない『if』のために、今ここにある君自身の命と未来を投げ捨てることに、一体何の意味がある?」
「でも……でも、あの子は私にとって、すべてだったの……!」
「……わかっている。……なんて、偉そうに理屈っぽいことを並べたけれど」
ぼろぼろと涙をこぼす彼女を見て、俺はふっと自嘲気味に微笑んだ。
ああ、もういい。言葉では誤魔化せない。どれだけ正しい計算式を並べたところで、母親としての彼女の悲痛な本能を、理屈だけで救うことなどできはしないのだ。
……計算は、やめだ。
俺は六年間、自らを縛り付けてきた理性のタガを完全に外した。
そして席を立ち、真由子ちゃんの座るソファのすぐ隣に腰を下ろすと、彼女の震える両手を、俺の両手で優しく包み込んだ。
「本当は、そんなことどうでもいいんだ」
「え……」
「論理も、生物学も、未来の予測も関係ない。僕にとっては、目の前にいる君が一人で苦しんでいる、その事実だけが問題なんだ」
俺の瞳に、これまで隠し続けてきた、理性を完全に凌駕する剥き出しの情愛が宿る。
今すぐ「好きだ」と、募り続けた六年間分の想いをすべてぶちまけてしまいたかった。だが、俺はあえてその言葉を喉の奥へ押し留めた。
過去の呪縛と罪悪感でボロボロに傷ついている彼女の心に、『好きだ』という俺の恋心を押し付けるのは、あまりにも重すぎるノイズだ。
だから、今俺が彼女に捧げるべきは、恋の告白ではない。彼女を絶望の底から引き上げ、安心させるための「絶対的な味方でいる」という誓いだ。
「一緒にいよう、真由子ちゃん。君が背負っている四十九年分の重荷も、遥さんへの罪悪感も、全部僕が半分持つ。……いや、僕が全部上書きしてやる。君のこれからの人生に、悲しい過去の影なんて一切踏ませない。僕には、その覚悟がある」
「……佐藤、先生……っ」
「一緒にいよう。……僕が、君を絶対に幸せにする」
その真っ直ぐな言葉が届いた瞬間、彼女の中で張り詰めていたものが完全に決壊した。
「……あ、ああああ……っ!」
堰を切ったように、真由子ちゃんが泣き崩れ、俺の胸の中へと飛び込んできた。
俺はその細く震える背中に腕を回し、壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないという強い意志を込めて、力強く抱きしめ返した。
腕の中にすっぽりと収まる、この愛おしい重み。六年間、ずっと焦がれ、待ち望んでいた彼女の体温が、俺の胸を熱く満たしていく。
俺は彼女の柔らかい髪に頬を寄せながら、静かに、けれど揺るぎない決意を胸に刻んだ。
普門館でこの気持ちに気づいてから……いや、もっと前、彼女に初めて会った時からかもしれない。ずっと、ずっと、この日が来るのを待ち侘びていた。
もう、絶対に離さない。俺の命に代えても、この腕の中の奇跡を守り抜く。
俺は声を上げて泣く真由子ちゃんの髪を撫でながら、手帳の中に書かれていた、ある一節を反芻していた。
それは未来の記録ではなく、二度目の人生で彼女が俺たちの高校生活最後のコンクールを聴きに来た後に、書き留められていたものだった。
『吹奏楽コンクール。松本蒼峰高校。
健二さんのサックスは相変わらず素敵だった。
でも、ホルンの人の音。なんて音なんだろう。
あの頃の私には気づけなかった、ピッチの正確さ、アタックの巧妙さ。
何よりもあの音。深い知性を感じる響き。健二さんの暴力的な音までも包み込む、包容力のある音。
名前、思い出した。佐藤誠さん。健二さんに親友だって紹介してもらったんだった』
——ああ。なんだ、真由子ちゃん。
あの頃の君は気づけなかったと書いているけれど。二度目の人生の君は、四十九歳のその耳で、健二の華やかな音ではなく、俺の音を真っ直ぐに見つけ出してくれていたんじゃないか。
その事実がどれほど俺の心を救い、長年の渇きを満たしてくれたか、彼女は一生気づかないだろう。
俺は愛おしさで胸を詰まらせながら、未来から来た愛する人を、さらに強く抱きしめ続けた。
お読みいただきありがとうございます。
独奏、いかがでしたでしょうか。
明日は連載をお休みさせていただき、明後日からの第三楽章は再び22時20分の更新とさせていただきます。
引き続き応援頂けたら幸いです。




