おまけ【二つのケーキと、上書きされた秋】
二〇二六年、九月九日。
二十三回目の結婚記念日。
キッチンには、バターと砂糖が焦げる甘くほろ苦い香りが満ちていた。
「ただいま」
玄関から聞こえた落ち着いた声に、真由子はオーブンから顔を上げた。
「えっ、誠さん、早いね」
リビングに姿を現した夫——誠は、スーツのネクタイを緩めながら、少しだけ得意げに微笑んだ。普段は夜遅くまで病院や研究室にいる彼が、こんな時間に帰ってくるのは珍しい。
「うん。だって、今日は……真由子ちゃん、お土産だよ」
そう言って誠が差し出したのは、上品なロゴがあしらわれた洋菓子店の箱だった。
「えっ?」
箱を開けると、そこには真由子の大好きな、ふんわりとしたロールケーキが美しく鎮座していた。
「うわぁ、ロールケーキだ! うれしい。ありがとう、誠さん」
パッと顔をほころばせた真由子を見て、誠の目尻が優しく下がる。だが、真由子は少しだけ困ったように微笑み、キッチンカウンターを示した。
「あ、あのね……まだ途中なんだけど。もうすぐ、できるから」
「なんだい?」
「アップルパイとまではいかなくて、ごめんなさい。美穂に頼んで送ってもらった信州のりんごで、タルトタタン焼いてるの」
誠が買ってきた、どこまでも甘く洗練されたプロのロールケーキ。それはまるで、彼が真由子を包み込んでくれる完璧で甘い日常そのものだった。
対して、オーブンの中で艶やかに色づき始めたタルトタタンは、焦がしたバターの風味に、林檎と砂糖のほろ苦さが混じり合う。一度目の人生のほろ苦い記憶を抱えながらも、彼と共に温め直してきた、手作りの今の人生のように。
二つのケーキを見比べ、誠は小さく吹き出した。
「今日はデザートだらけだね」
「ふふっ、本当に。でも、誠さんのケーキと一緒に、私のタルトタタンも食べてね」
「もちろん。どっちも残さずいただくよ」
——夜、寝室。
甘いデザートとささやかなお祝いのディナーを終え、二人きりの静かな時間が訪れていた。
「真由子ちゃん、これからもよろしくね。……これ、よかったら」
誠が手渡してくれた小さな箱。開けてみると、休日に二人で出かけた際、真由子がショーウィンドウ越しに「素敵だな」と眺めていたネックレスだった。
「うわー、素敵……! この間私が見てたネックレス。ありがとう」
真由子が胸元にそっと当てて見せると、誠はひどく満ち足りた瞳で頷いた。
「あのね、誠さん。私も……これ、よかったら」
真由子もまた、用意していた細長い箱を彼に差し出した。
「万年筆かい。ありがとう」
誠は愛おしそうに、その新しい滑らかな軸を指でなぞる。
「この時代になっても、やっぱり万年筆の書き心地が好きなんだ」
真由子が大学進学で松本を離れていた四年間、彼が数ヶ月に一度の頻度で送ってくれた手紙も、いつも万年筆で綴られていた。
付き合うようになってから、真由子が初めて彼に万年筆をプレゼントして以来、ペン先をメンテナンスし、インクを入れ替えながら、彼はずっと真由子が贈ったものだけを愛用してくれている。
定期的に真由子が新調するたび、古いものも大切に引き出しにしまわれているのだ。
『人間計算機』と呼ばれ、誰よりも合理的で最先端のデータに囲まれて生きている彼が、真由子からの贈り物というだけで、このひどくアナログな道具を何十年も大切に使い続けてくれている。
ふと、真由子は部屋の壁にかかったカレンダーに目をやった。
来月、十月の第一日曜日。それは、一度目の人生で、健二のモラハラに心身をすり減らした真由子が、極限の疲労の中で眩暈を起こし、歩道橋の階段から転落した『あの日』だ。娘のためにもっと頑張らなければと、虚空を掻く指先で必死に手すりを掴もうとした、あの絶望の朝。
あと一ヶ月足らずで、その日がやってくる。あまりにも満ち足りた日々だからこそ、ふとした瞬間に『これが夢だったらどうしよう』と微かな怖さが心を掠めることはある。けれど、今の真由子を縛る暗い絶望はもうどこにもなかった。
かつて地獄で途切れたはずの二〇二六年の秋は、目の前にいるこの不器用で誠実な夫によって、完璧に、そして圧倒的な愛で『上書き』されようとしている。
「……誠さん」
「ん?」
微笑み合う二人。言葉を尽くさずとも、重ねた二十三年の歳月が、確かな温度となって互いを包み込んでいた。
「今年もよろしくね」
真由子がそう囁くと、誠は静かに頷き、ひどく優しい手つきで彼女に触れた。
「……寝ましょうか」
パチン、と小さな音を立てて、寝室の電気が消える。
上書きされた穏やかな晩夏の夜は、どこまでも甘く、深く更けていった。




