第四十話 二〇〇四年〜二〇〇六年【育児計算式の崩壊と、二人の赤ん坊】
二〇〇四年、六月。
真由子は生後二ヶ月になった奏を連れ、誠の運転する車でついに東京へとやってきた。
T大の近くに借りた、日当たりが良くて少し広めの新しいマンション。ここが、家族三人で築いていく新しいお城だ。
夜間の授乳や細切れの睡眠で体力的な疲労はあるものの、真由子の心は驚くほど穏やかだった。
一度目の人生で経験した、一人きりで孤独に耐えるしかなかった育児とはまったく違う。 今回は頼りになる夫が、宣言通り並々ならぬ熱意で「父親の権利」を行使しようと隣で奮闘してくれているからだ。 ……奮闘してはいるのだが。
「ま、真由子ちゃん!! 早く来て!!」
引っ越してきて間もない頃。浴室から響き渡った誠の悲痛な叫び声に、真由子は慌ててバスタオルを掴んで脱衣所へ駆け込んだ。
中を覗くと、初めてベビーバスで奏を沐浴させている誠が、ガチガチに肩に力を入れてパニックを起こしていた。
「どうしたの!?」
「せ、石鹸のせいで、乳児の皮膚の摩擦係数が極端に低下している! 僕の腕力とホールド力では、彼が滑り落ちるのを計算上防ぎきれない! 落としてしまいそうだ、早く助けて……っ!」
「もう、大げさなんだから」
真由子が苦笑いしながらヒョイッと奏を抱き上げると、誠はその場にへたり込み、ゼェゼェと息を切らして魂が抜けたような顔をしていた。
そして、恐怖の「夜泣き」。
深夜二時。ギャンギャンと泣き叫ぶ奏を前に、誠はパソコンの画面と育児書を交互に睨みつけ、本気で頭を抱えていた。
「室温は最適解の二十四度、湿度は五十パーセントをキープ。授乳は二時間前に二十分、正確に摂取済み。オムツの不快指数もゼロ。……なぜだ。僕の構築した完璧な環境設定の中で、なぜ彼は泣き止まないんだ……っ!」
「誠さん……あのね」
真由子はふらふらと起き上がると、誠の腕からひょいっと奏を奪い取った。 そして、ゆらゆらと揺れながら背中をトントンと優しく叩いてやる。
すると、あんなに泣き叫んでいた奏は、たったの数分でピタッと泣き止み、スゥスゥと心地よさそうな寝息を立て始めたのだ。
「……嘘だろう」
誠は、信じられないものを見るような目で真由子を見た。
「特別な論理も技術も使っていないのに、なぜ……いや、熟練の技術なのか?」
その顔は、解けない難問を前にして悔し涙を流す、まるで小さな子どものようだった。
(……あれ?)
真由子は、すやすやと眠る奏と、その横で「僕の計算式が……」と本気で落ち込んでいる夫を見比べた。
(私……赤ちゃんを二人育ててない?)
「人間計算機」が赤ん坊という最強のイレギュラーに振り回され、ボロボロに敗北していく姿は、ひどく滑稽で、けれど最高に愛おしい光景だった。
だが、誠はただ計算式が崩壊して終わるような男ではない。
休日の昼下がり。
「真由子ちゃん、オムツ替えは僕に任せて休んでいて。直近三日間の排泄サイクルと消化器官の動きから推測するに、今は完全に安全なタイミングだ」
誠は自信満々にそう宣言し、ベビーベッドで手足をバタバタさせる奏のオムツを手際よく外した。 その、直後だった。
「あ」
真由子が声を上げるより早く、オムツを外されて開放感に満ちた奏の下半身から、男の子特有の美しく完璧な放物線が、空高く打ち上がった。
「なっ……!?」
ピシャッ!という音とともに、誠の顔面——よりによって眼鏡のレンズのど真ん中に、温かい「洗礼」が直撃した。
「ふふっ、あははは!……あっ、ご、ごめんなさい誠さん! 大丈夫!? 目に入らなかった!?」
お腹を抱えて笑いながらも、真由子は慌てて真新しいタオルを取りに走り、彼の顔の傍へと寄る。
「とりあえずこれ。拭いたらすぐにシャワー浴びてきて? 奏の続きは私がやるから」
そう優しく声をかけた。
しかし、誠は真由子からタオルを受け取り、片手でさっと顔を拭うと、再びベビーベッドへと向き直った。その手は、決して奏のおむつから離れようとしない。
「誠さん?」
不思議そうに小首を傾げる真由子に対し、誠はわずかに曇ったレンズ越しに彼女を見つめ、極めて真面目なトーンで告げた。
「僕が物事を途中で投げ出す人間ではないことは、君が一番知っているだろう?」
顔を濡らしたまま放たれた、あまりにも彼らしい理屈っぽくて大真面目な切り返し。その姿に、真由子はたまらなくなり、今度こそ声をあげて笑ってしまった。
「もう、こんな時まで……っ」
「さあ、すっきりしたね。奏」
少しだけ汚れた顔のまま、誇らしげに微笑む誠。その背中を見つめながら、真由子の胸の奥は、これまで味わったことのない絶対的な安心感と幸福で満たされていた。
そんなカオスな日々から、少しの時間が流れた。 相変わらず予想外の動きをする赤ん坊に対し、誠の「学習能力」と「最適化」のスピードは凄まじかった。
「真由子ちゃん。奏の今日の機嫌と体力ゲージから逆算して、お風呂は十九時十五分に入れるのが最も効率的だ。準備をしておくよ」
「うん、ありがとう!」
週末のリビング。 手慣れた様子で奏をあやし、同時に真由子のサポートまで完璧にこなす誠。 その顔には、すっかり育児のペースを掴んだ「ドヤ顔」が張り付いていた。
(最初の頃はあんなにパニックになってたのに……誠さん、すっかりいいパパになったなぁ)
ソファで温かい紅茶(授乳中だからと誠がしっかりノンカフェインを用意してくれている)を飲みながら、ドヤ顔の夫とご機嫌な息子を見つめる。
イレギュラーだらけで、計算通りにいかないドタバタな毎日。けれど、その一コマ一コマにちりばめられた日常こそが、真由子が心の底から焦がれた「幸せ」そのものだった。
そして、奏が二歳になった頃。
一般的に「魔のイヤイヤ期」と呼ばれる時期に突入したはずの息子は、少しばかり珍しい子供に育ちつつあった。
ある日の夕食。奏のお皿に、小さく刻んだブロッコリーを乗せた時のことだ。
(来る)
普通の二歳児なら「やだー!」と床に這いつくばって泣き叫ぶか、お皿をひっくり返す場面である。真由子もそれを覚悟して身構えた。
しかし、奏は泣かなかった。
ちょこんとベビーチェアに座ったまま、誠にそっくりな涼しげで切れ長な目をスッと細め、ブロッコリーと真由子を交互に見つめた。 そして、小さな指でブロッコリーを指差し、二歳児とは思えない流暢な言葉で、真剣にこう言ったのだ。
「ママ、このブロッコリーは苦いから、今の僕の舌にはちょっと合わないみたい。残してもいいかな? 代わりに、あっちの甘いカボチャで栄養をとるから」
泣き叫ぶ代わりに、「なぜ自分がブロッコリーを食べたくないのか(苦いから)」「代わりに何を要求するのか(カボチャで栄養を補う)」を、完璧な文章と明確な論理で交渉してきたのである。
「……っ!」
真由子は驚きのあまり目を丸くした。
その極めて理路整然とした自己主張の姿は、どう見てもあの「人間計算機」の血を色濃く引いているとしか思えなかった。
「ふむ、なるほど。苦味成分に対する味蕾の拒否反応か。君の要求には正当な理由があるね。よし、今回はカボチャで代替しよう」
真剣な顔で二歳児の理論に頷き、カボチャを差し出す誠。
「ありがとう、パパ」
それを受け取り、満足そうに頷く奏。
(……うん。完全に、誠さんの遺伝子だわ)
真由子は、そっくりな顔をして真面目に頷き合う二人の「男たち」を見て、思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
騒がしくて、愛おしくて、理屈っぽい。 そんな温かい家族の歴史が、東京のマンションで、確かに刻まれていた。




