序曲 二〇二六年【歩道橋と、不協和音の終わり】
二〇二六年、秋。
都心に近いマンションの一室には、鉛のように重く淀んだ空気が立ち込めていた。休日の朝だというのに、真由子の身体はひどく重い。
リビングでは、娘の遥が緊張した面持ちで予備校の模試に向かう準備をしている。その小さな背中に、ソファで寝転がりながらテレビを眺めていた夫・健二の冷酷な声が投げつけられた。
「女が勉強したって仕方ないだろう。ましてや理系なんて、まったく意味がないね」
遥の肩がビクッと跳ねる。彼女は何も言い返さず、ただ暗く沈んだ顔で「……行ってきます」とだけ呟き、逃げるように玄関を出ていった。真由子は胸を締め付けられる思いで、その背中を見送ることしかできなかった。
トップ証券マンである健二の収入は、十分すぎるほどある。だが、「俺だけの給料で食べていけるんだから感謝しろ。働くのは勝手だが、家の事は百パーセントしっかりやらないと許さないからな」という古い価値観と支配欲に囚われた彼は、遥の学費を一切出そうとしなかった。
理系の大学に進めば、これからさらに莫大なお金がかかる。真由子は遥の夢を叶えるためだけに、平日は派遣社員としてフルタイムで働き、家事を完璧にこなし、そして今日のような日曜日でさえ、試験監督の単発アルバイトを入れて小銭を稼いでいた。
更年期の不調と過労で、真由子の心身はとうに限界を超え、ボロボロだった。それでも、遥の存在だけが真由子にとって唯一の希望だった。
「じゃあ、私も行ってくるから」
真由子の声に、健二はテレビ画面から目を離すこともなく、気怠げに鼻を鳴らすだけだった。
重い足取りで、駅へと続く歩道橋の階段を上る。
暦の上では秋だが、まだまだ夏といっていいほどの晴天。突き刺さるような眩しい朝日が、寝不足の真由子の視界を容赦なく白く飛ばした。
(遥に、あんな思いばかりさせて……。ごめんね。でも、お母さん、がんばるから……)
ふらり、と視界が揺れた。
更年期の目眩か、それとも極限の疲労か。踏み出したはずの足が、虚空を掻く。
重力に引っ張られ、身体が傾く。手すりを掴もうとした指先は空を切り、冷たいコンクリートの階段が猛スピードで迫ってきた。
激しい衝撃。そして、プツリと世界が途切れた。
(……遥……遥……!)
「——真由子。……ねえ、真由子!」
不意に、肩を強く揺さぶられた。
耳元で誰かの声がする。頭がガンガン痛むが、コンクリートに叩きつけられたようなあの絶望的な痛みではない。
肌に触れる空気は、東京のまとわりつくような空気とは違う、カラッと乾いた涼しい風。
そして、やけに騒がしい。プープーという奇妙な音や、金属がぶつかるような音が反響している。
(あれ……私、歩道橋から落ちたはず……)
ゆっくりと重い目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、見知らぬ病院の真っ白な天井ではなく、古びた蛍光灯と無数の穴が空いた吸音ボードだった。
「……ここは、どこの病院ですか?」
掠れた声で呟くと、目の前にいたセーラー服姿の少女が吹き出した。
「やだ真由子、寝ぼけてる? 病院なわけないじゃん。音楽室だよ!」
少女の後ろで、乾いたスネアドラムの音が弾ける。強い日差しと、管楽器のバルブオイルの独特な匂い。
四十九歳の真由子は、一九九〇年の六月——十二歳の「浅野真由子」として目を覚ました。
『序曲』お読みいただき、ありがとうございました!
タイムリープした真由子。
ここから、彼女自身の足で立ち上がり、運命を完璧に上書きしていくお話がスタートします。お楽しみください。




