稲島文夫
「ハハハ。お前、農家のお婿さんとして期待されてるんだろうよ」
稲島文夫が豪快に笑いながら言った。武が札幌に戻った後、教会で稲島と打合せしていたのだ。稲島と武は来月に刑務所へ慰問する。
武は困惑気味に、
「信頼関係は有るけれど、恋愛感情なんて二人はこっちには持ってないですよ」
稲島は微笑み、
「仮に二人に好かれてたらどうするんだ」
「さあ。考えた事がないですね」
武が曖昧に答えると稲島は、
「お前、結婚願望が無くなったんだ。それとも農家の婿が嫌なのか」
武は眉を寄せて、
「勝手に俺も皆も騒いだら二人に迷惑がかかるでしょう」
稲島は短く笑い、
「そうだけどさ、俺は憧れるよ。俺がもっと誠実で若ければ口説いてたな」
「セクハラですよ」
武は軽く注意する。
武は年末年始の時、虹倉姉妹に稲島について説明していたし、SNSでも伝えていた。
稲島は二十代の頃には一流の音楽家だった。音楽に詳しくない者ですら彼の曲を聴いていた。テレビにも出演していた。他のメンバーと共にギターを弾きながら歌い踊る。聴覚的にも視覚的にも圧倒してきた。
しかし、薬物使用と所持で逮捕されてそのまま実刑判決になった。評判は一気に急落し、現在では稲島を知る者は限られている。当時の稲島は人気を維持する重圧と多忙な仕事に耐えきれなくて現実逃避をしたのだ。誘惑はどこにも潜んでいた。気付けば薬物に手を染めていた。
十年に及ぶ刑務所生活と更生生活。禁断症状に苦しんだ。けれども教誨師として来た牧師と知り合い、叱咤激励を受けながら耐えていった。稲島は改宗し、薬物を断つ事を誓う。
出所した時、武の両親が経営しているラーメン屋にアルバイトとして就職を希望したが、両親は苦い顔をした。武はまだ中学生になりたてで弟は小学生だった。前科有る者を身近に置く恐怖と更生したがる男を断る躊躇いがあった。父親は雇う代わりに条件を出した。非暴力で武に音楽を教える。そうすれば毎日一杯はおごる。けれども武や周りを傷付けたり脅したりすれば縁を切る。稲島は快諾した。
結局、稲島は建設関係の会社に雇われた。慣れない仕事で上司や先輩から怒鳴られ足蹴りにされる。稲島は教会で涙を流して苦痛を訴える。牧師と信徒仲間達は叱咤激励した。会社が応募を振るうなら会社を批判し、稲島が甘えているなら稲島を叱った。
現在では稲島は時折、刑務所や拘置所に慰問して音楽を披露している。たまに武も誘う。今回は女子用の刑務所を慰問する。武が期待せずに虹倉姉妹を誘ったら、姉妹は意外にもそれに乗った。大学三年生になる実花が就職活動を始めるので具体的な日程は決まっていない。
稲島について姉妹は最初驚きと怯えを隠せなかったが、武が熱弁するうちに興味を持つようになった。




