挿話:客室での騒動
サーラベルとアリフとその周辺の話。
視点がサーラベル(一部アリフ)→イリーシャと切り替わります。
アリフにそっとベッドに座らされたサーラベルは、彼の温もりが離れることを少しだけ残念に思った。
けれど。
「後はゆっくり休んでくれ」
穏やかな声とともに額にキスをされ、固まった後に頬が熱くなる。
反射的にアリフを見上げると、彼の顔はまだ驚くほど近くにあって━━
「サーラベル」
大きな手がそっと頬を包み、それは愛しげに名を呼ばれる。
「アリフ殿下━━」
許可なく唇を奪われたが、抵抗できないほど強引ではなく、同時に抗う気が失せるほど優しく甘い触れ合いだった。
だから、キスが深められても押し退けることはなく。
「んっ……あ」
サーラベル自身が恥ずかしくなるほど甘ったるい声が出てしまう。
もっともアリフはそれが好ましいようで、制御していたはずの情熱の箍が少しばかり外れ、サーラベルをゆっくりベッドに押し倒した。
月光のごとき銀髪がシーツに広がり、白い肌を赤く染めてこちらを見上げてくる姿はあまりにも美しく扇情的で、知らずアリフの喉が鳴る。
正式に娶るまでは一線を超える気はないが、もう少し味見をしても━━と不埒な考えがよぎったその瞬間、ひりつくような殺気を肌に感じた。
襲撃者を一瞥もせず手首を手刀で弾けば、ナイフの煌めきが宙を舞い、ふかふかの絨毯に受け止められて音を立てることなく落ちる。
そして━━
「はーいマナちゃん、そこまでだよ」
「〜〜〜〜!!」
いつ寝室に入ってきたのか、マナを羽交い締めにしたスランが手で小さな口を塞ぎ、楽しそうに耳元でささやきかけている。どうやら殺気の主はサーラベルの侍女マナで、アリフに切りかかったところをスランが護衛らしく止めたということだろう。少々遅いと言わざるを得ないが、そこはマナの行動の素早さを褒めるべきか。
腕の中、マナは当然ながらじたばたもがいている。
「〜〜〜〜!!」
「こらこら、おとなしくしようねマナちゃん。でないとこの状況、アリフ殿下のお命が目的のハニトラって解釈しちゃうよ?」
「有り得ない話はやめておけ。悪いのは暴走しかけた俺だというのは分かるだろう」
「それはそうですけどね。とりあえず俺はマナちゃんを連れて失礼しますので、殿下も早々にお願いいたします」
「ああ。ではサーラベル、俺たちはこれで」
「はい……あの、マナはわたくしを守ろうとしただけですので、どうかお手柔らかに。わたくしからもしっかり釘を刺しておきますから」
「分かっている。心配しなくて大丈夫だ。……とは言え、守られたかったか?」
「え」
何を聞かれているのか数秒後に理解したサーラベルは、再び耳まで赤くなった。
くっくっくと笑いながら立ち上がるアリフを恨めしげに睨む。
「……アリフ殿下は意地悪ですわ」
「そんな顔で否定せずそう言われても、あまりにも可愛いから俺の宮に引っ越してきてほしくなるだけだぞ。何なら今すぐさらっていきたいが」
「い、いけません! わたくしはまだ、心の準備ができておりませんもの」
「まだ、か。別に俺の住まいに来たからって、即既成事実を作るつもりはないんだがな。さっきまでのことで説得力に欠けるというのはさておき」
「そこはさておかないでくださいませ」
と突っ込みはしたものの、アリフが本気で言っていることはサーラベルも理解できるし信じられる。
(……何故かしら)
自らの心境に首を捻っていると、左手が取られてその甲、薬指の付け根あたりにアリフの唇が触れてきた。
「また近いうちに」
……ぱたん、と寝室のドアが閉まった後も、サーラベルはしばらく固まっていた。
「……することなすこと、意味深すぎるのはどうにかしていただきたいわ……」
ぽすん、と横たわり切実につぶやくが、結局のところアリフの行動の意味は一つだと彼女も理解している。端的に言えば「結婚してくれ」だ。
分かってはいるし、彼女なりにアリフに好感を抱いているのも間違いない。けれど、もしも━━もしもまた関係が駄目になったとしたら、一体自分はどうなってしまうのか。それがサーラベルは怖かった。現に一度の婚約破棄がきっかけで、精神面と環境面で激変が生じる事態になっている。
サーラベルは、以前では思いもよらないほど臆病になってしまっていた。それは相手がアリフだからだろうけれども、元婚約者との関係を上手く築けなかったことへの後悔も確かにある。
「……アリフ殿下に、素直に打ち明けてみようかしら」
正直なところ、それもどうなるのか怖い。でもアリフならば、しっかり受け止めてくれるのではないだろうか。
きゅっと胸の前で手を握りしめ、サーラベルは布団にくるまり目を閉じた。
いきなり寝室に入っていったかと思うと、ほどなくマナを抱えて出てきたスランだったが。
「━━━━!?」
一体何を感じ取ったのか。スランの顔から表情が消え、即座にマナから距離を取る。
それでもすぐに口元が笑みの形に戻ったものの、寸前までの余裕は薄くなっていた。
「あっぶないなあ。マナちゃん、袖口に毒針仕込んでるの? 別に俺、君やサーラベル姫様の敵じゃないよ? 基本的には味方よ? なのに、あんまり厄介なもの向けられたら悲しくなるんだけど」
「あなたが変態めいた挙動をするからです。それに、アクティ屈指の実力者であるあなたに冷や汗をかかせられたなら御の字です。私が非礼を働いたのは認めますが、そのこととあなたにセクハラをされることは全くの別物ですから」
マナの口調は淡々としているが、右耳を押さえる手に比べ顔は分かりやすく赤い。確かに先ほどまで、彼女の右耳にはスランの唇が触れそうなほど近づいており、それも恐らく意図的だっただろうから、セクハラと言われても文句は言えないだろう。
イリーシャは半目になって言った。
「スラン様。そうやってことあるごとにマナさんに過剰反応されるような振る舞いはやめてください。マナさんも、針やナイフだけならまだしもスラン様相手に毒を持ち出すのは禁止だと、サーラベル殿下からのお達しがありましたよね?」
「えっ。サーラベル姫様って、実は地味に俺に厳しい?」
「姫様は主人として、私を気づかってくださっただけです。セクハラ被害に無抵抗でいる必要はないと。それに、スラン様ならば並みの武器程度で沈むことはないという信頼の表れでしょう」
「だからって毒は塗っちゃいけないでしょう毒は! 不測の事態のために常備しているのはいいとしても、それを痴漢もといスラン様撃退にまで使うのはやりすぎですから! マナさんはいちいち過激すぎるんです!」
「わあ痴漢扱いされた。やっぱりイリーシャちゃんも辛辣ー……と言うか、マナちゃんに説教できる時点で凄いな。側妃様の姪ってだけはあるのか」
スランが軽く感心していると、ほどなくアリフも戻ってきた。
「……どうしてスランとマナが正座させられているんだ? また何かやらかしたのか」
「誤解を招く言い方はやめてください、殿下。まるで俺がしょっちゅう色々とやらかしてるみたいじゃないですか」
「さして違わないだろう。で、イリーシャ。俺からお前とマナに聞きたいことがあるんだがいいか?」
「何なりと、と申し上げたいところですが。サーラベル殿下に関してのことであれば、マナさんの方が正確な答えを差し上げられるかと存じます。殿下の侍女歴はマナさんが大先輩ですので」
その大先輩を正座させて説教できるイリーシャも色々おかしいのだが。
後にマナがスランに語ったところによると、「イリーシャさんは叔母上のカイラ側妃様そっくりなんです。見かけではなく気性が……カイラ側妃様は、イサーク王宮では『陰の女官長』と呼ばれていらっしゃるお方ですから」ということだった。要するに、イリーシャは叔母同様に強者だということらしい。
未来の話はさておき、アリフの質問は次のようなものだった。
「サーラベルとその元婚約者、アトルシャン・グレンダルだったか。二人の相性はどうだったんだ?」
「良くありませんでした」
マナは即答した。
「表面上は当たり障りない交際でしたが、婚約者としての義務を超えた交流はなかったはずです。姫様は王女としての責務にご多忙な中でも、公爵夫人の役割を学ばれるため定期的にグレンダル邸をご訪問なさっていましたが、その際にアトルシャン様と顔を合わせることは……当初はともかく、年々減る一方でしたので。結局のところあの男、ではなくてアトルシャン様は、同い年なのに自分よりも優秀な姫様が気に入らなかったのではないかと。婚約破棄について話し合った席で、『完璧な王女でいらっしゃるサーラベル殿下ではなく、か弱くもお優しいシャルティナ殿下をこそ私は隣でお支えしたいのです』などとほざきやがった時には、全力で延髄を刺してやろうかと思いましたが」
「いやマナちゃん、それ死ぬからね? 即死だからね?」
スランからもツッコミが入るレベルで危険なことを言う小柄な侍女に、アリフは無言で苦笑するしかない。
「そうですね。姫様はそんなことはお望みではないでしょうから思いとどまりました。……姫様が完璧であろうとなさっていたのは、国のためであると同時に嫁ぎ先のグレンダル家のため、つまりはアトルシャン様の妻となるためであったのだと、その程度のことも分からないような朴念仁に姫様が嫁がずに済んだことは、不謹慎ながらほっとしております」
「なるほど。俺としては朴念仁な奴で助かったが、それはそれとして元婚約者は随分と勿体ないことをしたんだな。いくら自分より出来がよくて身分が高かろうと、サーラベルが愛すべき一人の女性であることは変わりないだろうに。少し踏み込むだけであれだけ可愛い顔を見せてくれる婚約者を、ただ『完璧な王女』としか評せないのはなあ……サーラベルが踏み込ませなかったのは簡単に想像できるが、王女としての上っ面しか見ていない相手に踏み込まれたくない気持ちもよく分かる」
「仰りたいことは分かりますけど、アリフ殿下。単なる貴族子息が王女殿下を『身分や肩書きを取っ払った一人の女性』として見ろというのはハードルが高いですよ。未来の夫ならそうすべきだというのももっともですが」
アクティ王子というサーラベルとは対等以上の立場にあり、心身ともに年上であるアリフだからこそ容易く彼女の壁を壊せたのだろうとスランは言った。
結論としては、まだ未熟でしかない貴族子息にとってはサーラベルという存在は荷が重かったということだ。それこそマナの言葉通り「相性が良くなかった」に尽きる。だからと言って元婚約者が、他国に嫁ぐ予定の第三王女に心を移していい理由にはならないが。二人が思惑通りに結ばれたところで、イサーク王国やグレンダル家の利がほぼないだけならまだしも、二人の結婚生活が円満なものになる可能性などは無きに等しいのだから。
「相性が悪いのだとしても、婚約者同士であるからには双方が歩み寄って、夫婦として最低限尊重し合える程度までは改善すべきですものね……難しい話ですけれど」
そう言うイリーシャは、元婚約者とは幼馴染で相性自体は悪くなかったと思っている。ただそれはあくまでも幼馴染としての話であって、恋人や婚約者としてはどうだったかと問われれば首を捻らざるを得ない。やはり男女の仲というものは難しいとしみじみ思う。
いや、むしろ難しいのは婚約関係だろうか。王侯貴族に生まれればほぼ避けられないこととは言え、明確な婚約関係になければ合う合わないや好き嫌いによる関係解消は比較的簡単に可能なのだから。
「簡単に関係解消できるからこそ、お互いに努力する必要性が出てくる側面もあると思うよ。あっさり捨てられたりしないように、ってね」
「捨てる以前に拾いたくない相手も世の中には存在しますけれどね」
「え、それもしかして俺のこと? 流石に酷すぎないマナちゃん」
「そこまでは言っていません。ですが当然自覚なさっているように、スラン様の言動は軽薄すぎて信用ならないものですから」
「ふうん? じゃ、今度からちょっとばかり真剣になるとしようかな。マナちゃんを口説き落とすために」
言ったスランの瞳と声音は分かりやすく本気だった。無関係のはずのイリーシャが不安を覚えるくらいには。
「……大丈夫かしら、マナさん」
「さて、どうだろうな。ディーロ家の人間は総じて、狙った獲物を逃さないのは確かだが」
「それはつまり、全く大丈夫ではないということでは?」
思わずアリフに突っ込んだイリーシャだが、主人の未来の夫となるだろう男性はただ人の悪い笑みを浮かべるだけだった。
なおその後、サーラベルがマナに下した罰は七日間の謹慎だった。アリフが半ばわざと実行したということもあり、処分としては軽い。
が、当然その間は主人の側に侍ることはできないため、マナは滂沱の涙を流していたとか。
「……やっぱりマナさんはサーラベル殿下を慕いすぎでは……?」
一体過去に何があったのかと考えるイリーシャだったが、思えばサーラベルの母リリアベル側妃の侍女も古株ほど忠誠心が凄まじかった気がする。
似た者母娘……と少しばかり恐ろしく思いながらも、日々の仕事をてきぱきこなしていくイリーシャであった。
アリフとスラン、女性相手にやってることのレベルは前者の方が明確に上なんですが、セクハラ呼ばわりされるのは後者という。こういうことはされた側がどう思うかが問題なので仕方ないですけど。
ちなみにわざとマナを挑発したような形のアリフは、「わざわざご自身を囮になさらないでください!」とカラムに雷を落とされた模様。




