27.別れの時 sideジーニアス
兄さんは、どこか後ろめたそうに僕から視線を外しながら、至極言いづらそうに言葉を連ねる。
「お前が生きようとしねぇんなら、俺が代わりにこの命を使って生きてやるって。やりたい事はいくらでもあった。もっと剣の腕を上げて強くなって、いつかあのスカした野郎をぶちのめしてやりたかったし、いろんな国を旅して、うまいもん食ったり、そこでしか見れない景色だったり、経験をしたりして、母さんにも土産話をたくさん聞かせてあげたかった。そりゃ、皇帝になるっていうんなら、そう自由には動けねぇだろうけど、それでもたまにはお忍びで出掛けるくらいできるだろうしな。皇宮から外へ出る抜け道だって知ってる。……塞がれてなかったらだけどな」
その抜け道とは、恐らくは兄さんが前ウィルフォード公爵と共に皇宮から脱した時に使ったものだろう。
――そこまでやりたい事がはっきりとしているのなら、やっぱり兄さんが生きるべきだ……。
僕には、そんな風にやりたい事なんて思いつかない。
生きる目的なんてない。
これまでだって、兄さんが僕の中で生きているのだと知っていたから、死ぬわけにはいかなかっただけだ。
「それなら」
「だけどよ」
僕の言葉に被せるように、兄さんは続けた。
「やり残したこと全てをやり遂げて、順風満帆な人生を送ったとしても……最期に残るのは、お前の人生を奪ってしまったっていう後悔だけだ」
「……!」
――後悔……? どうして……?
「僕がそれでいいって言ってるんだから、兄さんが後悔する必要はないよ」
「それでも、お前が生きていたら……って考えるだろ。先の未来なんて誰にも分からねぇんだから……。俺が何かに感動するたび、その感動をお前だって味わう可能性があったって思うだろうよ。それに、生きてさえいれば、あの男みたいに、運命的な出会いだってあるかもしれねぇだろ。『生きていて良かった』って思える瞬間もな」
それを聞いて、ふと思い出した。
僕が母さんに拾われた日に、母さんが作ってくれた温かいおじやの味を。
まともな食事を摂れていなかった僕がお腹を壊してしまわないようにと、消化が良く、それでいて栄養はたっぷり取れるようにと、母さんが作ってくれた。
くたくたに煮た野菜と、母さんの思いやりがたっぷりと入った優しい料理。
それを口にした時の衝撃は今も忘れない。
空っぽだったお腹の中も、ボロボロに傷ついてすさんだ心も全て、まるで魔法でもかけられたかのように癒されて、心地良い何かで満たされていくようだった。
温かくて、美味しくて……涙が勝手に溢れて止まらなくなるくらい、感動した。
僕はあの時、確かに思った。
――生きていて良かった、って……。
どれだけの沈黙が流れたかは分からない。
長かったのかもしれないし、短かったのかもしれない。
「ともかく、俺は後悔が残るって分かってる人生なんてまっぴらだ」
あっけらかんと言う兄さんの声が、沈黙を破った。
「だから、返すわ。お前の体」
「……え?」
あまりにもさらっと言われて、気の抜けた声が出た。
目を丸くする僕に、兄さんは人差し指を突き立てて言った。
「で、俺はいい加減消える。俺がいると、お前はすぐ俺に甘えようとするからな」
「は⁉」
全く理解が追い付かない僕に、それでも兄さんはたたみかけるように言う。
「だから俺はもう、お前を守ってやれねぇ。これからは、お前が自分で、自分を守って生きていくしかねぇんだ」
「……そんな……どうして……」
勝手に僕を生かしたくせに、勝手にいなくなるなんて……。
「兄さんは、僕が嫌いになったの……?」
途端、兄さんは僕の頭をがっしりと掴み、
「だーかーらー。そんなことひとつも言ってねぇだろーが!」
ガシガシと乱暴に撫でると、浅い溜息を吐き出した。
それから、僕の頭にぽんと手を置いた。
「ジーニアス。これはお前の人生だ。好きにすればいい。生きるか死ぬかもお前次第だ。別に、皇帝になっても、ならなくてもいい。母さんのところへ帰って、これまで通り、母さんとロキと一緒に暮らしてもいいんだ」
「でも……兄さんがいないんじゃ……これまで通りなんて無理だ」
「ジーニアス。俺たちは双子だ。生まれる前からずっと、見えない何かで繋がっていた。たとえ俺が消えても、この繋がりが絶たれることはない。またいつか……きっと会える日が来る。俺はそう信じてる」
その時、兄さんの体が淡い輝きに包まれた。その光はだんだんと兄さんの体を覆っていく。
兄さんが、僕の頭からそっと手を離す。
「待って……」
咄嗟に手を伸ばし、兄さんの体に触れようとしたが、僕の手は兄さんに触れることなく空回り、バランスを崩した僕は兄さんの体を通り抜けるようにして膝を着いた。
すぐに振り返ると、光に包まれた兄さんの体はほとんど見えなくなっていて、優しく微笑んでいる兄さんの顔がうっすらと見えるだけだ。
「置いていかないで……」
追い縋るように手を伸ばす。
兄さんは一瞬だけ辛そうな顔をするも、すぐにそれを振り払うよう、きつく目を瞑った。
そして、僕に向けてニカッと笑い、清々しく言い放った。
「ありがとな、ジーニアス。俺も、お前と双子で良かったぜ!」
次の瞬間、兄さんの姿は光と共に跡形もなく消え失せた。
目覚めた時と同じ、闇一色の景色だけがそこに残されている。
「にい……さん……兄さん!」
いくら叫んでも、兄さんの姿はどこにもない。
次の瞬間、ぐらりと足元が大きく揺らぎ、僕の体は地に引っ張られるようにして落ちて――。
「兄さん!」
叫ぶと同時に目が覚めた。
直後、視界に飛び込んできた眩しさに、再び目を閉じる。
「……?」
薄く目を開き、辺りを見回した。
見覚えのある光景。
ここは……。
――僕の部屋……?
正確には、ウィルフォード家の別荘にある一室で、僕に割り当てられている居住スペースだ。
何度か瞬きし、そろそろ眩しさに目が慣れる頃なのに、いつまで経っても眩しさが和らがない。
そこで気付いた。
いつも僕の視界を覆っていた前髪が、短くなっていることに。
そして、深緑に染めていたはずの髪の色が白銀色に戻っていることも。
白銀色の髪は目立つからと、レスティーエル帝国から脱する時、ウィルフォード家の使いの人間に染められ、染料もいくつか渡された。
それ以来、ずっと髪の色には気を付けてきた。
母さんにだって、髪の色を落とした姿を見せたことはない。
ここに来てからも、染める必要はないと言われたけど、根元の白銀色を見るたびに落ち着かなくなり、結局染め続けていた。
前髪も、兄さんとの区別が付かないから括るようにと言われていたけど、一人の時は下ろしていた。
今まで、兄さんが僕の容姿に勝手に手を加えることはなかった。
それは僕の体を、あくまでも借りものとして使っていたからだと思う。
――兄さんは本当に、この体を自分のものとして生きようとしていた……。
その痕跡が、今の僕の姿なのだと思うと、喉の奥から何かがせり上がる。
兄さんは、生きたがっていた。
生きようとしていた。
それなのに……。
――どうして僕たちは、どちらか一人だけしか生きられないんだろう……。
仕方がないことなのに、そう思わずにはいられない。
ふいに、消えると言っていた兄さんの言葉を思い出した。
「……兄さん……?」
咄嗟に呼び掛けたものの、返事が無いのは分かっている。
それでも、今度は心の中で問いかける。
――まだ、そこにいるんだよね……?
兄さんは、僕の考えている事も全て聞こえていたと言っていた。
それなら、この声だって聞こえているはずだ。
たとえ返答がなくても、ちゃんと聞こえているはずなんだ。
「ねぇ、出てきてよ……。僕の声が聞こえているのなら……お願いだから……兄さん!」
焦れる気持ちが叫びに変わる。
それでも、何も起きない。
何も変わらない。
僕の意識はここに留まったままだ。
――嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!
言い知れない焦燥に駆られて、僕は裸足のままベッドから立ち上がり、その足で書斎机へと向かった。
引き出しからペーパーナイフを取り出し、それを逆手にして握りしめる。
「兄さん……僕の考えている事が分かるなら、今すぐ出てきてよ!」
開いた左手を机の上に押し付け、ペーパーナイフの切っ先を手の甲に向ける。
僕が自分を傷つけようとすれば、兄さんはきっと止めてくれるはず。
今までだって、そうだったから。
そうやって、僕を守ってくれていた。
だから、絶対に出てきてくれるはずだ。
そう確信しているのに、ペーパーナイフを握りしめる手が小刻みに震えている。
――だけど、もしも本当に、兄さんが出てこなかったら……?
兄さんがいる事を証明しようとしているのに、もしも兄さんが姿を現さなければ……兄さんは、本当に居なくなったのだという証明になってしまう。
それに、ペーパーナイフとはいえ、鋭く尖った剣先は左手の皮膚を貫くには十分な性能だ。
その痛みを想像すれば、嫌な汗が手の平にまで滲み、握りしめているペーパーナイフを取り落としそうになる。
それでも、僕は思いきり頭を振って、余計な思考を全て追いやった。
――構うもんか……やってやる!
半ばやけくそになりながら、今一度ペーパーナイフを力いっぱいに握り込む。
今度は躊躇しなかった。
僕は右手を思いきり振り上げ、自分の左手めがけて一直線に振り下ろした。




