26.命の責任 sideジーニアス
「山火事が起きた時、お前は宿に残ろうとする母さんに何も言わなかったよな……。なんで母さんを説得しようとしなかったんだよ」
そう問われて、僕はあの時の悔しさを奥歯で噛みしめながら、拳をきつく握りしめた。
「僕じゃ……母さんを説得できなかったから……」
自信がなかった。
僕が、母さんに何て言えばいいのかも分からなかった。
だけど、兄さんなら母さんを説得できるかもしれない。
そう思って、兄さんが出てきてくれるのを待っていた。
そう、僕はずっと……待っていたんだ。
俯いたまま黙りこくる僕を見て、兄さんは深い溜息を吐き出した。
「あの時、お前が俺に任せようとしていたのは知っていた。俺は、お前が頭の中で考えていることも聞いていたからな」
「……」
――なんだ。じゃあ、兄さんは全部知っているんじゃないか。
こんなどうしようもなく情けない僕も。
すさんで醜くなった僕の心も。
「知っていたなら、わざわざ訊かなくてもいいじゃないか……。それに、僕の考えていることが分かっていたなら、兄さんが母さんを説得してくれれば良かったのに……」
苛立ちからか、口調が少しきつくなった。
こんな話を兄さんとしたかったわけじゃない。
もっと楽しい話をしたかったのに……。
だけど、兄さんの鋭い視線は変わらず僕を刺し続けている。
「すでに死んでる俺が、どう説得しろって言うんだよ……。あの時は、お前が行くべきだった」
「……無理だよ。だって僕は……」
――大切な人を失い、死にたくなるほどの深い悲しみを知っている。
僕だって兄さんが殺された時、自分だけが生きていても仕方がないと思った。
僕には兄さんしかいなかったから。
生きる喜びも全て、兄さんがいたからこそ感じられたものだ。
兄さんがいなければ、僕はこの世に存在することもできなかった。
兄さんの居ない世界を生きるくらいなら、死んだ方がマシだった。
だから、僕を殺そうとした暗殺者を前にして、抵抗をやめた。
それでも生き延びてしまった僕は、自らの首に刃を突き立て、死のうとした。
結局は、どちらも兄さんの手によって未遂に終わってしまったけど。
「兄さんには分からないよ。自分の命よりも大切だった人を失って、一人悲しみを抱え続けながら生きていかなきゃならない辛さが……」
「いや、分かるよ。俺はお前の感情も、自分の感情のように感じていたからな……。お前の苦しみも、痛みも全部、俺たちは共有していたんだ」
「!」
驚いた。
まさか、そこまで密接に僕たちが繋がっていたなんて、知らなかったから。
「だけどよ。それでもお前は、その辛さに耐えて生きてきたじゃねぇか」
「それは……僕の中で兄さんが生きているのだと知ったから……。兄さんの存在が、僕の心の支えになっていた。……でも、母さんは違う。母さんの旦那さんはもう……」
その先の言葉を詰まらせ、僕は俯いた。
母さんが、故郷を捨ててまで愛を貫いた相手は、もうこの世にはいない。
夜になると、酒を手にして亡き夫の部屋に引きこもり、ひとり泣いていた母さんを思い出す。
扉の奥から聞こえてくるすすり泣く声。
時には机を激しく叩くような音も聞こえてきた。
悲しみに暮れ、酒に溺れ、心がボロボロに傷ついていても、母さんは生きるしかなかった。
あの宿を守るため。
愛する人との約束を守るため。
せめて二人の間に子供がいれば、母さんの心の支えとなれたかもしれない。
母さんの心を満たす事ができる、誰かがいてくれたのなら――。
「お前がいたじゃねぇか」
「……!」
兄さんの言葉に、ハッと顔を上げた。
うっすらと輝きを放つ赤い瞳が、僕を真っすぐ見据えている。
「お前は、母さんに死んでほしくなかったんだろ? ならそれを、母さんにそのまま伝えればよかったじゃねぇか」
「でも、あの時の母さんは……死にたがっていたから」
遠くで山火事が起きている光景を、母さんは怖がる事もなく、むしろ希望を見出したかのように眺めていた。
長く苦しめられていた呪縛から解き放たれることを期待しているかのように、僕には見えた。
「じゃあお前は、母さんが死んでも後悔しなかったのか⁉ これで良かった。母さんは救われたって、心の底から思えたのかよ⁉」
「そんなわけないじゃないか!」
思わずカッとなり、兄さんに負けないくらい声を荒げた。
「でも、僕じゃ駄目だったんだよ! 僕は、母さんの支えになれなかった!」
宿に残ると母さんが言いだした時、やはり母さんは死のうとしているのだと察した。
それと同時に、僕はひどくショックを受けた。
――母さんまで……僕を残して死んでしまうの……?
あっさりと見放されてしまったような気になって、僕は母さんに何も言えなかった。
何も言えないまま、宿を後にした。
僕を息子だと言ってくれたのに……結局は、血が繋がっていないから……。
僕は母さんにとっての、本当の家族にはなれなかったのだと、思い知らされた。
本当の家族ではない僕は、母さんの支えにはなれない。
「母さんを救ったのはマリエーヌさんだ。どうやって母さんを説得したのかは知らないけど……きっと僕では、母さんを救えなかった」
口にすれば、余計に自分が情けなくて、やるせない気持ちでいっぱいになる。
無理だからと、僕が諦めたことを、マリエーヌさんはやってみせた。
母さんを説得し、あの宿から連れ出した。
あんなにも死ぬことを望んでいた母さんが、とても晴れやかな笑顔をしていた。
「お前だって、説得できたかもしれないだろ」
「無理だよ……。どうせまた、失敗する」
ついそんな言い方をしてしまい、僕は小さく「あ……」と声を漏らす。
咄嗟に兄さんを見ると、その顔はひどく苦い表情をしていた。
「悪かったな」
「え?」
「お前がそこまで自分を卑下するようになったのは、俺があの時、お前の話を信じてやれなかったからだろ」
「……」
否定も肯定も口にできず、僕は沈黙を選んだ。
七年前――第三皇子が亡くなったことにより、兄さんは帝位継承第一位となった。
それは、次に皇帝から命を狙われる人間が兄さんになったことを意味していた。
僕は、兄さんを守りたかった。
だから、これまでに起きた皇子殺害の首謀者が、父親である皇帝なのだと兄さんに告げた。
皇帝としての地位を奪われないため、皇子たちを殺害したのだと。
このままでは、いずれ兄さんも殺されてしまう。
だからその前に、僕と一緒に逃げよう、と。
結局、僕の話は信じてもらえず、兄さんの説得は失敗に終わった。
あの時もそうだ。
兄さんは、家族という枠組みから弾かれた僕ではなく、本当の家族である父親を選んだんだ。
「ジーニアス……ごめんな」
沈んだ声で、兄さんはもう一度僕に謝罪する。
それから寂しげな笑みを浮かべると、静かな声で続けた。
「ずっと謝りたかった。お前に謝ることもできないまま、死んじまったからな……。あの時の俺は、父親に認められたい一心で努力してたから、お前の話をすぐには受け入れられなかった。俺は……一度でも、親から愛されているっていう確証を得たかったんだ。……母親は、いないも同然だったから……」
その言葉に、僕は目を見開いて兄さんを見た。
兄さんが、実の母親について口にしたのは初めてだった。
そもそも、兄さんは生まれて以来、母親と会っていないのだから当然だ。
だけど僕は、三歳までは母親と共に別塔で過ごしていたから、僅かに覚えている。
母親の温もり、僕に向ける優しい笑顔を……。
だけど、兄さんは母親の顔すらも覚えていない。
僕は、家族と一緒に過ごせる兄さんが羨ましいと思っていた。
でも、もしかしたら兄さんも、母親と過ごしていた僕のことを羨ましいと思っていたのかもしれない。
お互いに、決してそれを口にすることはなかったとしても。
ふいに、兄さんはフッと笑みを零し、スッキリとした顔で告げた。
「今はもう、親からの愛とかに拘ってねぇけどな。母さんと出会えたおかげで、母親の愛っていうのは知れたし。あと……父親ってわけじゃねぇけど、俺を認めてくれた人もいるしな……」
言いながら、兄さんは少し唇を尖らせながら自らの頭に手を置いた。
ムスッとしているのに、なぜか笑っているようにも見える、よく分からない表情だ。
僕がその様子を怪訝に見ていると、兄さんは「とにかく!」と、やたら大きな声で切り出した。
「あの時は俺もガキだった。意固地になって、お前にもひどい事を言っちまった。それなのにお前は、俺が死んだのは自分のせいだって、自分を責め続けてただろ。そうじゃねぇよ。絶対にお前のせいじゃない。俺がお前を信じてやれなかったのが悪いんだって……ずっとお前に言ってやりたかった」
眉間に深い皺を刻みながら、兄さんは猛省するように告げた。
だけど、僕だって考え足らずなところはあった。
僕の話を聞いた兄さんがどういう反応をするかも、ちゃんと考えれば想像できたはずだ。
時間の猶予はあったのだから、もっと慎重に行動するべきだった。
「僕も、兄さんの気持ちを考えられなくて……ごめん」
「いや、お前はちゃんと正しかった。お前だけが、俺の心配をしてくれたのに……。そのくせ、俺を殺そうとしている人間に真相を聞いちまうんだから、本当に馬鹿だよな……。自分から殺されにいったようなもんだ」
兄さんは、顔面を手の平で覆うと、はぁ……と、深い溜息を吐き出した。
それから再び真剣な顔となり、僕を真っすぐ見据える。
「だから、俺が死んだのはお前のせいじゃねえ。それが分かったなら、お前はもう自分を責めるな。そんで、もっと自分に自信を持て。母さんは、ずっと俺たちを息子として見てくれていたじゃねぇか。母さんからの愛情は、お前の内側にいる俺にだって十分すぎるくらい伝わってきた。だから母さんは、お前の言葉ならちゃんと受け止めてくれたはずだ」
その言葉に、ズキン……と胸の奥が鈍く痛んだ。
「勝手なことを言わないでよ!」
気付いた時には、もう叫んでいた。
何もかも分かっているような口ぶりで僕を説き伏せようとする兄さんの言葉が、やけにイラついた。
――兄さんは、何も分かっていない……。
「兄さんと違って、僕は自信なんて持てない! だって僕は、誰からも必要とされていないから……」
兄さんが目を見開き、何かを言おうとしていたけど、僕の方が早かった。
「そもそも兄さんが僕の命を助けたんだから、兄さんがこの命を使えばいいじゃないか! 僕は死にたかったのに、兄さんが止めたんじゃないか! それなのに、僕に全てを押し付けないでよ! 勝手に期待しないでよ! 僕はもう、生きたくない……。辛いだけなんだよ……。だから、兄さんが最後までこの命の責任を取ってよ!」
言ってやった……。
言って、しまった……。
今まで必死に僕を守り続けてくれていた兄さんに対して……こんな残酷な言葉を……。
兄さんの顔が見れない。
口を噤んだまま、僕は視線を足元に落とす。
生温い雫が僕の瞳から滴り落ち、闇に消えていく。
いっそのこと、このまま僕の存在も消えてしまえばいいのに……。
「……ああ。俺も、一度はそうしてやろうかと思ったよ」
「え?」
予想外の言葉に、思わず顔を上げた。




