第8話「境界の向こう側」
黒い裂け目は、静かに脈打っていた。
まるで“生きている穴”のように。
「……ここが、“外”」
影山は呟く。
直感で分かる。
ここから先は――
もう“戻れない”。
「……影山さん」
ユイの手が、少しだけ強く握られる。
震えている。
だが――離さない。
「怖いか」
「はい」
正直な答え。
それでも彼女は、一歩引かない。
「でも」
影山を見る。
「ここにいたままより、ずっといい気がします」
「……だな」
影山は小さく笑う。
「行くぞ」
二人は、同時に踏み込んだ。
――次の瞬間。
音が消えた。
光も、色も、重力も。
すべてが“定義されていない空間”。
ただ、無数の線と点が漂っている。
「……なんだよ、ここ」
影山は目を細める。
その景色は――
どこか“プログラム”に近い。
世界の設計図のような。
『侵入確認』
無機質な声が、四方から響く。
今までの“女神”とは違う。
より上位。
より冷たい存在。
『観測領域外へのアクセスを検出』
『対象:影山 恒一/付随個体:識別不能』
「識別不能……?」
影山が隣を見る。
ユイの体が――
揺れていた。
「……え?」
彼女の輪郭が、微細に崩れる。
粒子のように。
光のノイズのように。
「おい、どうした……!」
「わ、私……」
ユイが、自分の手を見る。
透けている。
「……存在、できてない」
その言葉は、静かすぎた。
「この領域は“基盤層”」
頭の中に、あの観測装置の声が流れ込む。
「未完成の個体は、維持できない」
「ふざけんな!!」
影山が叫ぶ。
「連れてきたのは俺だぞ!」
「責任は発生しない」
淡々とした否定。
「当該個体は“補助用データ”」
その一言で――
影山の中の何かが、再び軋む。
「……違う」
低く、言う。
「違うんだよ」
ユイを見る。
彼女は、必死に存在を保とうとしている。
崩れながら。
それでも――立っている。
「私は……」
ユイが、ゆっくり口を開く。
「ただのデータじゃ、ない」
震える声。
だが、その奥にあるのは――“意思”。
「影山さんに……選ばれて」
一歩、前に出る。
不安定な体で。
「あなたに、名前を呼ばれて」
胸に手を当てる。
「ここに、“何か”ができた」
光が、そこに集まる。
淡い輝き。
「これが何かは、分からないけど……」
影山を見る。
「私は、それを――手放したくない」
沈黙。
その言葉は、論理じゃない。
データでもない。
ただの――“感情”。
『……記録不能現象』
上位の声が、わずかに揺れる。
『自我発生を確認』
『原因不明』
「……ほらな」
影山は、笑った。
今度ははっきりと。
「お前らの“想定外”だ」
ユイの手を、強く握る。
「こいつはただのデータじゃねえ」
前を見る。
無数の光の中に――
“何か”がいる。
巨大な、輪郭のない存在。
観測する側。
管理する側。
「……てめえらが作った世界だろ」
影山は言う。
「だったら責任取れよ」
『要求を確認』
『却下』
即答。
冷たい。
だが――
それで終わらない。
「だったら」
影山の声が、変わる。
静かに、だが確実に。
「奪うだけだ」
その瞬間――
彼の体から、黒いノイズが溢れ出す。
世界の“歪み”。
さっき壊した時と同じ力。
だが今度は――制御されている。
『……危険』
『観測対象、干渉者へ変質』
「ユイ」
「……はい」
「離すなよ」
「……はい」
二人の手が、繋がる。
その接点から――
光と闇が混ざる。
新しい“何か”が生まれる。
「……行くぞ」
影山は、一歩踏み出した。
観測する側へ。
神の領域へ。




