2-9 一矢は報いたぞ
後ろでにぎやかな声が聞こえてくる。
……あの二人はこんな時になんの話をしているのやら。
話はよく聞こえてはいなかったが、あの連れの女性も含めて楽しそうな姿がちらりと振り返った先に見えた。
仲が良いのは結構だが、せっかく研ぎ澄ませた緊張が抜けていきそうになってしまう。
目前の白い装束姿はこちらをまったく振り向こうともせず、一体どこへ向かっているのか。
まるでこちらのことなど気にもとめていない。そうも捉えられられる後ろ姿に俄然ひと泡吹かせてやりたい感情が強くなる。
だが、強い。
ただ歩くその所作だけでも、隙がない。
誇張でもなんでもなく、私は隙あらばその背に斬りかかってやるつもりだった。
実戦は甘くない。そう口にした本人へ意趣返ししてやろうと考えていた。
悪いが正々堂々と戦うなんて気分ではない。
正直、私は腹を立てている。
ゆうの言葉があって引き下がりはしたが、私は私の大切な記憶をねじ曲げたことを許すつもりはなかった。
だが、この先それを引きずるつもりもない。
だから、私は私の自己満足の意味もこめて、巫と呼ばれる白装束を誘った。
これから共に戦うためにも、私は自分を納得させておかなければならない。
――だから私を落胆させないでくれよ。
そうして白装束が足を止めたのは大学の敷地内のおおよそ脇にあたる広場。とはいっても棟同士の移動に使われるような場所でけして広くはない。
が、私達がやり合うには十分だ。それにおあつらえ向きに人の姿もない。
「人払いはしております。他の目を気になされる必要はございませぬ」
なるほど御膳立てしてくれたというわけか。
「来られませ」
その言葉が合図。
一気に距離を詰める。
身体は軽い。元々の小柄な体躯の私は体重がめっぽう軽いが、そういった意味でなく、踏みしめる脚は力が満ち、これまで感じたことのない内から湧き上がる活力を全身に行き渡らせる。
ほぼ一瞬で間合いはなくなり、硬い鋼に変じた右腕を袈裟に振り下ろす。
先程のように止めるつもりはない。
避けなければ胴を二つにわける一刀。本気の殺意を共にした一撃だった。
それを難なく受け止められた。
奴は無造作な立ち姿で、こちらの一撃にも微動だにしなかった。
まるで飛んできた小石を受け止めるような軽さで、私の一刀を片手の指だけで止めたのだ。
そして瞬間、弾け飛ぶように後ろへ引き下がる。
……殺られた。
私の必殺の一刀を受け止め、かつ私の胴を一撃で吹き飛ばされた――幻を見た。
幻覚の類いではない。
今のは奴の気迫に私が見た幻。
すさまじく強い。
巫という呼び名も、その時代錯誤な衣装もけして飾りではないわけだ。
知らず口の端があがる。
こんな時だというのに、私は笑っている。
自分でも不思議だが、今の結果をすんなりと受け入れている自分がいた。
やり合う前から心のどこかですでに悟ってはいた。この相手にはけして敵わない。
私とて十年間、自分を鍛え続けてきた自負はある。
空手、柔術、合気、剣術、居合、思いつくものは片っ端から手を出した。小柄な私は半端な努力では相手を抑えることなどできない。だから、死にもの狂いで鍛え続けた。
自分を苛めるのは苦ではなかった。
それはなにもできなかった自分への責め。
守ることさえできず死んでしまった家族への勝手な償いでもあった。結局それは事実ではなかったが、この十年間の私にとっては曲げようのない現実だった。
悠子さんの言うとおり、私は脆いただの小さな少女でしかない。
きっと、ゆうが死んだと思わされていなければ、私は『私』ではなかったんだろう。
だが、だからどうした。
私は私の記憶を歪めたことをけして許せないし、なにより今の自分を否定してしまっている自分自身が許せない。
きっと違っていた。そんなものはただの可能性でしかない。
私はただ今ここにいる私自身。それ以上でもそれ以下でもない。
なら、私がやるべきはまた出会うことのできた幸運に感謝し、今度こそ胸を張れるあいつの自慢の姉であること。
靴を脱ぎ捨て、靴下もとる。
はだしの足裏に地面の冷たさとざらつきが伝わる。荒れてしまうかもしれないが、靴が切れてダメになったら困る。
そして、髪を束ねていたゴムを外す。その一房を刃に変えた腕で斬り、片手に握る。
それは一瞬で髪と同じ色の黒い刀へと変わる。握る柄もない抜き身の刀身だ。それはまったく重さを感じず、文字通りの身体の一部。
その刀身を顔の横に持ち、八相と呼ばれる構えをとる。
やっぱり、こちらの方がしっくりくる。
自分の腕を変えたりするよりも、この手で握る感触があるほうがいい。
「来られませぬか?」
構えたまま動かない私に白布の下から問いかけられる。
「それで仕掛ける馬鹿はいないだろうさ」
私は軽口で返す。
実際はそんな余裕はないが、不敵に笑ってみせてやる。
「ではこちらから参ります」
すっとその身体が沈んだ。
と思ったその時にはすでに目前。咄嗟に傾けた頭の横を手刀がかすめていく。
次の一撃も即座にやって来る。引かれていた逆の腕を突き出してくると見えた時にはすでに触れる寸前。
またも咄嗟に構えていた刀の腹で受け止め、難を逃れる。強い衝撃で握る手に痺れが走った。
だが、離すわけにはいかない!
白装束は動きを止めず、私の足を払うように放つは下段の蹴り。その威力も受ければ私の細い足など叩き折られるだろう。
だが、今はその威力が逆効果だ。
狙われる脚を刀に変える。そのまま蹴りをぶつければ逆に足が切り飛ばされるぞ!
奴の判断は速かった。放った蹴りを即座に引き、その勢いのまま回転と後ろ蹴り。
刀身で受けるも叩き折られて、身体が宙にまった。
地面にぶつかる寸前に受け身をとって、衝撃を殺す。
すぐさま体勢を整えて視線を向けると、白装束は私を追うこともせず、悠然と佇んでいた。
……笑えるほどに手も足も出ない。しかも今の蹴り、加減をされた。
今までの積み重ねを悉く否定された気分だった。
だが、それはきっと仕方のないこと。
どれだけ自分を苛め抜いても、結局は平和な場所にしかいなかった私と、口にしたとおり苛烈な命のやり取りに身を置いてきた者との絶対的な経験の差。
埋めようのない中身の差をまざまざと体感させられていた。
「これ以上は徒に傷を増やすのみ。貴方様の御力はすでにこの身にて十分お受けいたしました。さすればこの一戦ここまで――」
「まだだ」
終わりを告げようとするその声を止める。
ここで終わり?
冗談ではない。
「まだだ」
私はまだ納得していない!
再び切った髪を刀に変え、構える。白装束は無言で私を見据えている。
そして、再びその身体が動き出す。
来る!
同時に薙ぎはらうように斜めに斬りあげる。
見切られていた。だが、それは予測済み。
続けて、上段から斬り下ろす。これも半身の構えをとられ捌かれる。
そこから止まらずの連撃。しかしその悉くをいなされ、避けられ、かすることもできない。
その動きはわずかな無駄もなく、美しいとさえ感じる。
悔しい。まったく歯が立たない。
けれどやめるわけにいかない。
歯が立たないなら、せめて。
せめて一矢報いたい!
何度目かの斬撃をかわされ、それでも私は止まらない。
すでに息が切れはじめている。ここまでの相手との実戦に自分でも思う以上に体力を奪われていたらしい。
なら次が最後。
何度目かの斜めに斬りあげる逆袈裟の一撃。
やはりかわされ、相手もここで決めると判断したか、一気に間合いを詰められる。
やられる。振り上げた刀身を引き戻す暇はない。
このままその重い一撃をこの身に受けるだけ――しかし、私は迫る奴の目の前で身体を回転させる。
あえて背をさらすような動きに一瞬、奴が逡巡を見せたようにも見えた。
私の髪が回転する勢いになびき、それは白装束にもぶつかる手前。
私の髪が刃に変わる。
毛の一本一本が斬りさく細い刃に変わるのを自覚できる。それは止まることなく、薙ぎはらわれ、目前に迫っていた奴を細切れに切り裂く――。
手前で大きく飛び退かれた。
一体どういう反射神経をしているのか。
ほんの寸前にまで迫った無数の刃を難なく避けられてしまった。
だが、
「一矢は報いたな」
私の刃はその身には届かなかった。
しかし、ひらひらと舞い落ちる白布が地面に落ちる。
「隠塚」




