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初恋の横顔  作者: 細井雪
あの日から(エドモンド視点)
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「エド」


 家族だけが呼ぶ親しみを込めたその呼び方に、エドモンドは声の聞こえた方を振り返った。


「兄さん。今帰りですか?」

「ああ」


 通りの向こうから手を振る兄の姿を見つけてエドモンドは駆け寄る。

 帰り道は途中まで一緒なので、二人は歩きながら話をした。


「結婚生活の方はどうだ?」

「まぁ、うまくやっていますよ」


 すまし顔でそう言う弟に、兄は苦笑を浮かべた。

 年上の兄姉に囲まれて育ったせいか、この弟は大人ぶる癖がある。

 そんな弟が唯一必死になったのが初恋の相手のときだったと、少し前の騒動とも呼べる経緯を思い出した。


「彼女は優しい人柄だしな、きっとうまくやっていけるだろう。今度うちに二人で遊びに来い」

「はい。ありがとうございます」


 エドモンドの兄は、一回り以上年の離れた弟を可愛がっているが、一家の主となったので甘やかすだけではいけないと考えた。

 結婚生活の先輩として家庭円満の秘訣でも伝授しようと、些かお節介とも言えることを思いつく。


「いいか、結婚生活は妻が少し強いくらいの方が上手くいくんだぞ。妻に我慢を強いるような家庭は良くない」

「我慢……?」


 兄の言葉で、エドモンドはセシリアが家であまり笑うことがないことに気づいた。

 いつも微笑んではいるのだが、初めて会った時のような笑顔はまだ見ていない。

 セシリアは何か我慢しているのだろうかと、エドモンドは心配になった。

 そういえば彼女は服や物などを欲しがったこともない。

 慎ましく家庭のこともやりくりしているが、もしかしたら遠慮しているのだろうかと不安が込み上げてきた。


 そう思って、エドモンドは翌朝セシリアに尋ねてみた。


「……何か困っていることはありませんか?」


 けれど、セシリアの返事は大丈夫というものだった。

 それでもエドモンドには、セシリアが気を使ってそう答えたのではないだろうかと不安が残ったが、それ以上追及することもできず気になりながら仕事へ向かった。

 兄に相談してみようかと、そんなことを思うほどエドモンドの不安は増す。


 そう考えていた矢先、仕事場に突然セシリアが訪ねてきた。

 来客の報せを受けたエドモンドは、それまで取り繕っていたすまし顔を浮かべる余裕もなく、慌てて部屋を飛び出した。

 二階から下りるときに、男性ばかりの職場で目立っている妻の姿を見てエドモンドは青くなった。

 もし彼女に声をかける男がいればどうしようか。

 彼女が年上の男を見て、やはり年下の夫では不足だと思ったらどうしようか。

 そんな心配しすぎなことばかりが頭を巡り、朝の不安も加わってエドモンドは冷静さを欠いていた。


 そうして妻に向かって大声を出してしまった。

 来た理由が、忘れていた財布を届けにきたと知って、ますます焦りが増した。

 自分の忘れ物などで彼女の手を煩わせたくなかった。

 頼りないところなんて見せたくなかった。

 そんな思いから声を荒げてしまった。

 セシリアが怯えていたことにも気づかずに。


 彼女が馬車に乗り込む姿を確認して一気に冷静に戻ったが、その時にはもう遅かった。

 手にした自分の財布を見ながら後悔が押し寄せる。

 なぜ最初に礼を言えなかったのか。

 あれだけセシリアの父に大切にすると約束したのに、一番大事なことを守れていない。

 そんなエドモンドの行いは同僚たちにも苦言を呈された。


「おまえ、あれは良くないぞ」

「奥方が心配なのは分かるが、あれでは可哀そうだ」


 エドモンドは何も反論できなかった。

 目に見えて落ち込むエドモンドに、周囲は助言をしてくれた。


「今日帰ったらきちんと謝るんだ」

「何か手土産を買っていった方が良い。適当なやつではだめだぞ、きちんとしたものだ」


 同僚の一人が提案した言葉に、エドモンドは顔を上げた。


「手土産……?」


 それを皮切りに、同僚たちはどの手土産が良いかと相談し始めた。


「大通りに最近開店した菓子屋がある。人気という噂だ」

「ああ、そこが良い! 必ず買って帰るんだぞ!」


 エドモンドは同僚たちの助言の通り、仕事が終わると菓子を買いに行った。

 けれど帰宅してからセシリアに道中のことを尋ねて、馬車を下りたときに声をかけられていたことを知って、また大声を出して怯えさせてしまった。


 エドモンドは、自分がこれほどまでに感情に振り回されることを初めて知った。

 落ち着いている方だと思っていたが、それは自惚れだったと思わざる得ないくらい、妻の前では平常心でいられない。

 それでも、渡した菓子をセシリアが夕食の後に食べて微笑んでいたのを見て安堵した。


 それからというもの、エドモンドは時々菓子を買って帰るようになった。

 兄嫁にまで菓子店の情報を聞いて、色々な菓子をセシリアに贈った。

 渡すたびに嬉しそうにするセシリアを見てほっとする。

 そんな妻を見て心に誓った。

 二度と彼女に対して声を荒げることも、怖がらせることもしないと。

 頼れる夫となり彼女を大切にするのだと、強く自分に誓った。


 そう思っていたが――噛み合わない話の末に離縁されると誤解して嫌だと言い張り、初めて会った日のことも洗いざらい白状して、顔を真っ赤にしながら好きだと告白する日がくることを、この時のエドモンドはまだ知らなかった――。






***






 窓から陽ざしが差し込む。

 柔らかな明るさに目を細めながら、エドモンドは腕の中の温もりを抱きしめた。


「エド……?」


 腕の中で温もりが身じろぎ、呼ばれた名前に胸の奥が温かくなる。


「起こしてしまいましたか……?」

「いえ……。おはようございます」

「おはようございます」


 エドモンドは妻の額にそっと唇を押し当てた。

 セシリアがくすぐったそうな声を漏らす。

 結婚してからしばらくの間、妻より早く起きて寝顔を見つめるしかできなかったエドモンドは、ようやく一緒に起きることができるようになったこの瞬間がとても好きだった。

 愛する妻を抱きしめてもう少し微睡んでいたいと、そう思いながらいつもは仕事に行くため仕方なく起きるのだが、今日は休みの日だ。

 こうしているのも悪くないけれど、窓の外は暖かな日差しが注いでいる。


「あの、今日は一緒に出かけませんか?」

「一緒にですか?」

「一緒に外出したことがまだないので……」

「そうでしたね……。ええ、一緒に出かけましょう」


 セシリアが笑ったのを見て、エドモンドは表情を明るくさせた。

 まだ髪も整えていないので、感情が溢れ出すと普段より幼くなる。

 きっとエドモンドはそのことに気づいていないだろう。

 最近のエドモンドは、以前より目に見えて分かりやすくなった。


「……あの、前はなぜ外出に誘っても応じてくれなかったんですか?」


 以前に外出に誘っても断られていたことが気になって、エドモンドはセシリアに尋ねた。

 するとセシリアは困ったように視線を伏せた。


「年上の妻が一緒では、恥ずかしい思いをさせないかと心配で……」

「恥ずかしい? あなたをですか?」


 セシリアの言葉にエドモンドは驚いた。


「そんなことは決してありません! 俺はずっとあなたと結婚したかったんですから!」


 まだ静かな朝の空気にエドモンドの声が響く。

 夫の真っ直ぐな言葉に、セシリアは恥ずかしそうに頬を赤らめた。

 そんな姿を見て、エドモンドも自分の発言に遅まきながら照れだす。

 けれど、セシリアの表情が嬉しそうに笑うのを見て、エドモンドもまた笑った。


「早く起きて支度をしましょうか」

「ええ、そうですね」


 エドモンドの言葉にセシリアも頷くと、起きて外出の準備を始めた。

 初めて一緒に出かけたその日は、二人にとって思い出に残る一日となった――。






本編の裏では必死だったエドモンド視点でした。

ここまで読んで頂きありがとうございました。


3/17誤字訂正しました。ありがとうございます。


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