後篇
学校では当事者として事情を説明してほしいと数人の教師と彼女が呼ばれたが、彼女がどうして咲耶に詰め寄ったかその理由を一切話そうとしなかったことで、彼女が咲耶を突き落したのではないかと状況しか見ようとしない教師の声が上がった。
籐伊はそれに異を唱える。
咲耶は彼女を押しのけて、自分から足をもつれさせて転げ落ちたのだと。
籐伊からの援護に、教師の重圧に俯いていた彼女は跳ねるように顔を上げた。まさか、自分を庇ってもらえるとは露とも思っていないどころか、さきほどの籐伊の話しぶりからするとそのまま口を閉ざして無言を貫くか、教師に仕立てられたスケープゴートをそのまま是と言われ、いもしない犯人に仕立て上げられるのだろうと思っていたからだ。
ああ、やっぱり籐伊君は。
あんなに酷いことを言われたばかりだというのに、彼女には籐伊の真正直な性格が悔しいほど眩しく映った。
かたや籐伊といえば、正直に答えることで自分の立ち位置を確かめただけだった。
籐伊は決して咲耶を突き落した犯人にはなりえない。それは職員室の前で教師と話していた直後に起こった事故だったからだ。教師は十分すぎる証人になりえるし、誰一人その場に居合わせた籐伊に不審な目を向けることはない。目の前で彼女が階段から転げ落ち、重体となって運ばれていった悲劇の人と憐れみを施されていたが。
下手に教師に同意して、潤んだ瞳で籐伊を見上げる虫唾が走る女だが執拗に罪を与えても、咲耶が目覚めさえすればあっさりと嘘は見破られ、不動の位置にいるはずの籐伊の立場を揺るがせる。真実が一番の逃げ道を用意する。真実を告げることで疑惑の彼女を救い、恩を売れればさらによい。糖衣は彼女のために真実を話したわけでなく、自分のために真実を告げたにすぎなかった。
たとえ直前に口論していようが、咲耶自身の不注意で階段から落ちたと結論付けられた。もともと事件性など何もない。早々に会議は解散され、籐伊は先生たちの同情を受けながら咲耶が運ばれた病院を教えてもらい、学校を後にした。
病室の時間は止まっているようだった。
急設えのテーブルの上では時計がカチカチと確かな時間を刻んでいるというのに、籐伊にはまったく意味をなさなかった。
理由は明白だ。
病室の主がぴくとも身じろぎもせず規則正しい呼吸を繰り返しているだけだからだ。
ベッドに横たわる咲耶は青白い顔を一層青くさせていて、頭には痛々しいネットが、布団から出ている腕には固定具が無情にも取り付けられている。
疲れた顔をした咲耶の母親は駆け付けた籐伊に椅子を勧めた後、こちらも身動きもせずに佇んでいる。
階段から落ちて、すでに半日。
怪我の手当てはすでに終わっているため、後は意識を取り戻すだけだというのにそれがない。
窓の外はすでに帳が落ち、面会時間終了が間近に迫る。
籐伊は名残惜しげに眠る咲耶に視線を向けると、母親に一礼をして家路についた。
翌日、籐伊は面会時間に間に合うように病室を訪れた。
あまり眠ってはいないだろう母親が疲れ切った顔を籐伊から隠すように入れ違いに席を立った。
咲耶は相変わらず微動だにしない。
かたん、と椅子を引く音だけが病室にこだまする。
壁に背中を預けて、籐いは眠り続ける咲耶をじっと見ていた。
「…う、」
どのくらい経ったのかわからないほどの時間を過ぎたころ、咲耶の乾いたくちびるの内側から音が洩れた。
「う、ううう、うぁ」
何か苦しい夢でも見ているのだろうか、喉声が大きくなるとともに目をつむりながらも顔をしかめている。
籐伊は上体を起こしてベッドに近寄ると、咲耶の苦しげに皺を寄せた額を親指の腹で撫で始めた。そうすることで皺が解けていくように思えたからだ。
ところが咲耶の皺はなくなるどころかどんどんと深くなり、頬も引きつりを見せはじめた。
起こしたほうがいいのだろうか。
自分の判断よりも咲耶の母親に伺おうと思ったが、まだ病室には戻ってきていない。それに、
咲耶の意識のないときにしか、触れることはできない。
唸り声を上げている今なら、たとえ母親が戻ってきたとしても心配しているようにしか見えないだろう。
籐伊は微笑みながら咲耶に顔を近づけて、ひくつく頬を手で包んだ。
途端。
咲耶は閉じていた目をかっと見広げて、焦点の合わない瞳をあちこちに彷徨わせた。
驚いた籐伊は頬から手を離し、体を後ろに傾ける。
「咲耶……?咲耶、目が覚めた?」
体勢を立て直しながらも、ようやく目覚めた咲耶にほっとしたことは確かだ。
ベッドの枠に手をおき、咲耶の視界に入ろうと体重をかけた時、焦点が合った咲耶の顔が恐怖に歪んだ。
「あ、…………あ、あ、あぃ、い、いや、いやあぁぁぁぁあぁぁっっ!!!」
ひどい怪我のため身動きが取れないほどベッドに縛り付けられていたはずの咲耶は、それでも無理やり体を動かして籐伊から少しでも逃れようとする。手足をばたつかせる度に体を固定していた石膏と金属の枠が当たって鈍い音を巻き散らす。
「咲耶?……咲耶っ!?どうした、咲耶っ!」
ナースコールを押しながら咲耶をなだめようとする籐伊に、咲耶は激しく拒絶する。
「いや、いや、いや!触らないで!!」
咲耶は包帯で覆われた手を突き出して振り回す。
何が何だか分からない籐伊は、廊下を走ってやってきた看護師から部屋を出て行くようにと言われて仕方なしに廊下に出た。
向こうのほうからやってきていた母親は籐伊の佇まいと部屋から漏れる叫び声にあわてて歩みを速めてきた。
「高橋君、いったい」
「咲耶さんが目覚めた途端に暴れだして。今看護師さんがなだめて、」
話の途中で母親は籐伊の横を通り過ぎて病室に入って行った。
「おかあさん、おかあさんっ、助けて、怖いよ」
咲耶の泣け叫びながらも母親にすがる声が籐伊の胸に突き刺さった。
病室近くの長椅子の上で、籐伊は頭を抱えていた。
「落ち着いた頃にお呼びしますから」
慰めるように話す看護師の言葉が叶わないだろうと籐伊もわかっている。今日はもう暇するしかないと咲耶の両親に頭を下げながら病院を後にした。
翌日、授業が終わった後、クラス中から妙にざわつく視線を集めていた籐伊は募る疲労感を押して病院へと足を向けた。
病室の手前から朗らかに笑う咲耶の声が聞こえ、籐伊の重い足はすこしだけ軽くなった。
「こんにちは」
病室のドアを開けながら籐伊はいくぶん明るく作った声で挨拶をした。
「……籐、伊くん」
朗らかだった声色は籐伊の声を聞いた途端に怯えを含んだ。
ベッドの傍らの椅子に腰を掛けている咲耶の母親は、かたんと軽い音を立てて立ち上がった。
「ごめんなさいね。ちょっとこっちに来てもらえるかしら」
硬い口調は拒絶を許さなかった。籐伊は未練がましく咲耶をちらと見つめると、こちらを見ようともしない咲耶に愕然とした。
「咲耶」
声をかけても顔をあげてもくれない。
布団の上に出された包帯を巻かれている腕が、小刻みに震えていた。
連れていかれた待合室は閑散として、窓から見える夜の闇にむやみに明るい室内を異様に見せていた。
「もう、来ないで貰えないかしら」
椅子をすすめられずに立ったままで、咲耶の母親は籐伊に告げた。
「……なぜですか?」
「なぜ?それをあなたがいうの?昨日あなたが帰った後、女の子が一人、友達に連れられて泣きながらやってきたわ。そういえばわかるのかしら。彼女は後悔にさいなまれていたわ。馬鹿なことをしてしまったって。咲耶に言っても仕方がないことで咲耶を責めたてたって。たしかに咲耶を動転させたのはそのこともあるでしょう。けれどそのことだけじゃないことも私は知っているわ。
それに、あなたを見ると咲耶は感情が強く出て、身体を壊しかねないの。そのことは昨日の時点であなたにも分っていると思うけれど。
それでもあなたにここに来るなということがおかしいのかしら?」
静かに、ただ静かに告げられる内容は籐伊にしてみれば苛烈だった。
籐伊は頷くことしかできなかった。
籐伊がどれほど咲耶を望んでも、咲耶は学校にくることはなかった。
打ち身、捻挫、骨折。時間をかけて治るものはすでに治りきっている。ギブスで硬くなった体もリハビリで本来の柔軟さを取り戻し、体力もついたようだと自宅まで見舞いに行ったクラスメートからは教えてもらえた。
けれども、咲耶が学校にこない理由がわからなかった。
籐伊は意を決して咲耶の家に向かった。
「なぜきたの」
久しぶりに会った咲耶の母親の憔悴ようは目に見えて明らかだった。
目の下の隅はどす黒く染まり、髪にちらほらと見えるのは以前には気が付かなかった白髪だ。くたびれた、疲れ切った姿に、籐伊は驚きを隠せない。
「あ、あの。怪我が完治したと聞いて……、会わせてもらえないか、と」
言い切ったときの咲耶の母親の形相は筆舌に尽くしがたいものだった。
「帰って。お願いだから、帰って」
どこから出しているのだろう、おそらく女性が出す声の最も深く暗いかすれ声を籐伊は確かに聞いた。
「お母さん?誰か、いるの?」
玄関の扉がかたんと開いて、そこから恐る恐る顔を出したのは、すっかり見違えるように元気になった咲耶だった。
「咲耶。ひさしぶり」
籐伊はほっと安心をして、頬を緩めながら可愛い咲耶に声をかけた。
返事の代わりに帰ってきたのは、切り裂くような悲鳴だった。
「いや、いや、いや、いやっ!!何で何で何でいるの!た、たすけて!たすけてっ!お母さん……っ!」
薄くなった体に骨だけになった腕を巻き付けてしゃがみこむ咲耶に、咲耶の母親は優しく声を掛けながら、射殺すような視線を籐伊に向けてあちらにいけと促した。
ぱたんとしまった扉の向こう側では、泣き叫ぶ咲耶となだめる母親。
大丈夫、大丈夫よ、今のは夢だから。ほら、ここに誰がいたっていうの?ここには咲耶と私しかいないじゃない。誰もあなたを苦しめたりしないわ。
籐伊は声が聞こえなくなるまで、玄関の前を動くことができなかった。
どのくらい立っていたのかはわからない。
気が付くと周りはすっかり暗くなって、門燈の灯りが煌々と輝いていた。
扉の開く音で、籐伊ははっと気が付いた。
「……まだ、いたの」
「あ、え……っと。はい」
「今、咲耶が眠ったからその間に買出しにいきたいのだけれど」
「……え」
「あなた、邪魔よといっているんだけれど、わかってもらえないかしら」
「あ、あの。咲耶は……完治した、んですよね?」
ふうぅと強く息を吐いたのは、疲れからか、それとも。ただ、吐き出された息は深い皺を刻み付けたことには変わりはない。
咲耶の母親は体をずらして、籐伊を家へと招き入れた。
案内されたリビングのテーブルの上にある緑色の籠の中には、咲耶の名前が書かれた薬の袋が整然と並んでいる。どうみても重病患者並の量に、籐伊は眉を潜めた。
「怪我は治ったわ。治らないのは……脳よ」
ことんと置かれたお茶の面が弧を描いて揺らいでいる。
「脳が、治らないのよ」
「治ら、ない?」
「そう。咲耶の脳は、怪我をしたあの日から前にすすむことができないの」
そこから咲耶の母親が言った言葉を、籐伊はうろ覚えにしか覚えてはいない。
長々と続く咲耶の症状でわかったことは一つ、咲耶は籐伊を脅威と思っていて、それは一生かわることがない、ということだった。
絶望が籐伊を支配した。
望んでいたのはこんな結末ではなかった。
入学式の日に一目ぼれした女の子を、籐伊だけのものにしたかっただけだった。
籐伊を知ってもらい、籐伊が頼りになることを覚えてもらい、籐伊なしでは生きていけない人になってほしかっただけだ。
たしかにやり方としては褒められたものではないが、誰だって絆を深めるために当て馬をあてがうだろう?雨降って地固まるというではないか。
息苦しさで吐きそうになった。
「トイレを、貸していただけませんか」
唐突な言葉に咲耶の母親はびくっと体を震わせて、指で場所を示すだけだった。
好都合だった。
咲耶の母親が深いため息をついている背中を確かめると、籐伊はトイレにはいるふりをして隣の扉を開けてみた。
咲耶がいた。
照明のついていない薄暗い部屋の中で、布団が呼吸に合わせてわずかに上下している。
―――――生きている。けれども、
籐伊は吸い寄せられるように咲耶の眠るベッドに歩み寄り、すぅすぅと心地よい寝息を立てて眠る咲耶を見下ろした。
「どうして……どうして、こんなことに」
籐伊はベッドの上で青白い顔をして眠る咲耶を揺さぶりなじりたい衝動を抑えることに必死だった。
「ここで何をしているの」
押し殺した声はなかなか戻ってこない籐伊に不信を感じた母親のものだった。
「早くここから出て行って。ここはあなたが入っていい場所じゃないわ」
強くなじりながらも声を荒げることで咲耶が起きることを恐れたのか、母親は声を潜めて手で廊下を指さした。
優しげな顔立ちに不似合いな強すぎる視線を受けても、籐伊は自分の愚かさに気づかない。
「トイレのドアがわからなかったので」
白々しい嘘を重ねて母親の横を通り出た。
塩をまかれる勢いで家を追い出されたのは当然だった。
それからというもの、家に何度も電話を入れても、玄関の前に立ってチャイムを押しても、此花家の扉は固く閉ざされて二度と受け入れられることはなかった。
しばらくすると、咲耶が退学した。
単位が足りなくなったという理由だった。
母親が学校に挨拶に来たことを知ったのは、クラスメイトが目ざとく見つけたからだった。
そのこのろ籐伊は皆から少し距離を置いた存在となっていた。
件の彼女が話を広げたわけでもなく、片割れと思われていた咲耶が退学したことのせいでもない。
自身の醸し出す雰囲気が人を寄せ付けなくなっていた。
あれほどしつこかった誘いのメールもなくなり、これを幸いに勉学に励むことにした。
いつか咲耶が籐伊の手の中に落ちてきたときを夢見て、ネームバリューのある大学に進み、一流といわれる企業に就職するために。
一方では季節の変わり目ごとに手紙をしたためた。
開封されるかされないかと問われればきっと開封されはしないだろうと自嘲気味になってしまうが、それでもこの方法でしか接点は持てない。絹糸よりも細くもろい糸でもいい、つながりが欲しかった。
高校を卒業し、望んでいた以上の大学へと進学して、そして誰もが名前を知っている企業への就職。
傍から見れば籐伊は順風満帆な人生を歩んでいるだろう。
けれども誰に靡かれても見向きもしないストイックさに知り合って間もない友人たちは驚いていたが、付き合っていくうちに思い人がいることが知れると誰も何も言わないくなった。
唯一の楽しみは手紙を書くために季節に合わせて便箋を選ぶことだ。最近の文具店では多種多様な封筒と便箋が置かれている。女々しいとは思いながらも、少しでも慰みになればと優しい彩の便箋と封筒を籠に入れる。
仕事で役職がつくようになった頃、籐伊は一通の手紙を受け取った。
裏に書かれていた名前は、此花 孝子。咲耶の苗字だ。
外套を脱ぐ時間も惜しいとばかりに、リビングにあるソファに鞄を投げ置くと性急さを押し殺して丁寧に手紙を開封した。
最近ではあまり見かけることのなくなった流れるような美しい文字からは、一つの願いが読み取れた。
―――まだ咲耶を想ってくれているのなら。
想っているに決まっている。
執着といわれようが、昔の思い出を美化しているだけだと言われようが、籐伊は咲耶を想いつづけていた。
だからこそ、この無遠慮で無謀な願いを有難いとすら感じていた。
読み終わった手紙を綺麗に畳み直し、籐伊は携帯電話に手を伸ばした。
咲耶の母親は弱っていた。
記憶にあるのは高校二年生の時の、あの激しい瞳をぶつけてきた姿だった。
今の彼女には疲労以外の何かが彼女の体も心も蝕んでいる。
「結婚、ですか」
「そう。もしあなたがまだ咲耶を好いていてくれているのなら」
悔しさか、疲れか。深いため息交じりに咲耶の母親は籐伊に告げた。
「私はもう長くない。夫も三年前に事故で亡くなったわ。……わかっているの。あなたをずっと拒絶していたのは私たち。咲耶に恐怖を与え続けているあなたを許すことはできないの。だけど」
「いえ、当然のことだと」
「……あなたは変わらないわね。それが吉と出るか凶とでるか、私にはもう見守る時間が無いに等しい。だから、あなたに。あなたなら、咲耶を酷くしないことを知っているから、あなたに、咲耶を」
年齢よりもはるかに年を取ったように皺が深く刻まれた目尻に、つう、と涙が落ちていく。
よほど悔しいのだろう。許せないほど憎い籐伊に咲耶を託さねばならないことが。小刻みに震える腕が更なる証拠だ。
「いつにしますか。すぐですか?」
「……あなた、本気で?」
自分で話しておきながら、まさか受け入れるだろうとは信じていなかった声が上がる。
「もちろん、本気ですよ。なんなら今すぐパソコンにアクセスして届け用紙をプリントしますか?」
こうして籐伊は図らずも咲耶を手に入れることができた。
だが、希望は打ち砕かれる。
防音対策のきちんととられたマンションを購入し、咲耶と義母を受け入れて一緒に住みだした次の朝には、咲耶の悲鳴が部屋にひびいた。
「な、なんでっ!どうしてっ!お母さん、おかあさんおかあさんおかあさんっっ!!」
起きるときに籐伊が横にいれば、必ず咲耶は錯乱した。
母親の顔を見て安心してベッドに沈み込む咲耶を見るたびに、籐伊の疲労はましていく。
けれどもすやすやと気持ちよく寝ている姿は愛おしく、額に口づける毎日だ。
籐伊は咲耶が寝ている間に仕事に出かけ、夜戻ってくるときは母親に一報入れてから家に入るようになった。
これでは結婚しているとは言い難い。
手を伸ばせば咲耶に触れることができるというのに傍にいることの許されない現状は、以前の手の届かなかった時とは違う焦燥を籐伊に与える。
苛立ちと悔しさで絞殺されそうだった。
日々弱弱しくなる義母のひそやかな復讐かとも思えた。
一冊のノートを手渡されたのは、結婚してからずいぶん経った頃だった。
「咲耶に書かせたの。たとえ翌朝には覚えていなくてもこれを見れば知ることはできるだろうから」
げっそりと痩せ衰えた義母は、力なくソファに座り込む。
籐伊はその横に立ったまま、手渡されたノートの表紙をめくった。
『未来の私へ』
そう書き出された文字は、たしかに咲耶が書いたものだった。
『あなたは病気になりました。記憶をなくす病気です。今のあなたはたぶん高校生だと思っているでしょうがそれはちがいます。新聞の日付をみてください。嘘だと思うことでしょう。ですから、今度は鏡をみてください。高校生のあなたではない、大人のあなたが写るはずです』
「それを起き抜けのあの子に見せてあげて。一ページめくれば新聞を、もう一ページめくれば鏡を渡せば納得するはずよ……試したから」
そうだ、もう高校生ではない。
咲耶は十分に大人の女になっている。たとえ見かけだけでも。
最近義母が咲耶を美容院に連れて行った。真っ黒だった髪が明るい茶色に、ストレートだった髪をゆるいウェーブがかかっていた。眉も整えられ、薄く口紅を塗れば、信じられないほど印象の変わった咲耶の誕生だ。年齢と共に培われる色気はないにしても十分鮮やかな印象に変わった。
ゆっくりと認識されればいい。
毎朝、年を取ったという現実を受け入れることは決してたやすいことではないだろうが、それが事実なのだから。
現に籐伊だって違っている。高校の頃にはなかった皺も貫録もでてきた。そのせいで夜帰宅すると咲耶には知らないおじさんが訪ねてきていると勘違いされる日もでてきていた。地味に傷ついたが。
いくら一緒に住んでいても彼女がしていることは結婚する前と何も変わっていないのだ。籐伊から咲耶を遠ざけて、二人してあの事故が起きた日を繰り返し生きているだけだったのだから。だがその時もタイムリミットまであと少しということに籐伊と結婚させたことで安心しきって現実を直視しなかった母親がやっと気が付いたということだろう。
この日を境に、籐伊は咲耶と寝室を共にした。
朝、お姫様の目覚めを待つ。
目覚めれば不審そうな瞳を向けられるが、何食わぬ顔でノートを渡す。タイミングは大切だ。その日の朝刊を差し出し、鏡を手渡す。そしてまんじりとした時間の後、咲耶は籐伊を見上げる。
「籐伊、だよ。咲耶の夫になったんだ」
恐怖に青ざめる咲耶を見つめたのはこれで何度目のことか、籐伊はもう数を数えるのをやめた。
とうとう義母が亡くなった。
もってあと1年と言われた日から随分と長生きはしてくれたものの、日本の平均寿命と比べれば若い死だった。
咲耶は母親が亡くなったことも認識できなかった。
もちろん夜寝るまでは覚えている。が、朝になればリセットされて新たな悲しみに暮れるのだ。
慟哭が胸を潰す。
痛みを和らげるはずの日数は、咲耶には存在しなかった。
そんな中、咲耶が妊娠した。
籐伊だって聖人じゃない。想いを寄せる相手からどれほど怖れられていようが愛していることにかわりがない。一日を満たすように咲耶に接すると落ち着いた咲耶は籐伊に少し歩み寄ることもあった。もちろん籐伊はそれに付け入る。嫌がろうが次の日には忘れているのだ。籐伊には好都合といえた。
産婦人科医はどうして避妊しなかったのかと籐伊に問うたが、籐伊は証がほしかったのだ。咲耶と強く太い糸でつながった証が。脆くほどけそうな絹糸ではなく、鋼鉄でねじ切られることを知らない糸を、生きた証を。咲耶には育てることも難しいといわれれば、乳母をやとうからと医師を説き伏せて出産に至らせた。
可愛い。
これほど可愛い存在はこの世に存在しない。もちろん咲耶を除いてだが。
腕の中にすっぽりと納まる小さないとし子を籐伊は飽きることなく眺めていた。
籐伊は前にもまして仕事に励み、家庭では至福の時を味わっていた。
相変わらず咲耶からは怖がられる毎日だが、家に帰れば愛する咲耶と可愛い我が子がいる。それだけで籐伊は満たされた。おむつ替えも夜中のミルクも率先して行い、何も覚えることのできない咲耶に変わって育ててきた。母親の事情を理解しているのか手のかからい子供だった。
咲耶のノートには追加事項が増えている。
随分と汚れたノートだったが、咲耶の命綱だ。捨てることも取り換えることも何もできない。
そして時は過ぎ、子供はこの歪な家庭から巣立っていき、籐伊は定年を迎えて家にいるようになった。
咲耶と二人きり。
繰り返す朝は、まるで一つの劇を毎日見続けているかのようだった。
感情が育つことのない咲耶は、高校生のまま老後を迎えた。
初々しい咲耶。
目の前にいる老人が籐伊と認識するまでの戸惑いと、わかった後の恐怖に歪む顔。
事故からの日々を小説を朗読するかのように咲耶に伝え、見せるのは家庭を持った我が子と孫たちの写真となった。
咲耶と共に老いた顔を鏡で見つけた籐伊は自分の衰えを悟った。
どちらが先に死ぬのか、それが問題だった。
別の家庭を気づいた我が子にこの負担を追わせたくはない。かわいい孫たちに恐怖におびえる祖母を見せたくもない。我が子に負の遺産は残せなかった。
籐伊は決断した。
時折現状を確認するために通院していたのも幸いしたのか、人生の最期を迎えるための施設への入所手続きはスムーズにすんだ。
家を売り、施設へ入所する日となった朝に咲耶は倒れた。
度重なる恐怖を受けた体が、悲鳴を上げたのだ。
駄目だ、逝くな。
籐伊は救急車を呼びながら叫び泣いた。
まだ早い、まだ何もしていない。
はあ、はあ、と苦しげに息をする咲耶に籐伊は無力感に襲われた。
子供もできて孫が生まれて、沢山の時間を共有していたというのに、僕たちはなにもわかりあえていないんだ。愛してる。愛している。愛してるから、僕を見て。
意識がうつろう咲耶の手を握る。
サイレンの音が遠くに聴こえる。
あと少しで助けがくるよ。だから待って。僕を置いていかないで。
「咲耶、咲耶。僕を置いていくな」
願いが叶ったのか、握っていた手がぴくっと動いた。
「咲耶っ!」
ゆっくりと瞼が上がり、揺らいでいた焦点が合わさる。
咲耶は、籐伊を、見た。
「籐伊、くん……」
―――――信じられない。
咲耶が年老いた自分を一目見て誰だか理解したのだ。
途方もない年月を一緒に重ねて初めての出来事に、籐伊は知らず泣いていた。咲耶の枯れ枝の様な手をさらに強く握りしめようとした籐伊の手が、はじかれた。
歓喜に震えた心が、咲耶の拒絶を、弾かれて痛んだ手を、理解しようとしなかった。
ただ咲耶の、籐伊が愛してやまない凛とした雰囲気がこの瞬間に生き返ったことだけは見て取れた。
「咲耶……咲耶っ?」
籐伊はすうぅと息を強く吸った咲耶を呼んだ。
その行為は、先に亡くなった義母が死に逝くときに見せたものだったからだ。
まさか。
籐伊は咲耶の瞳を食い入るように見つめた。
真っ黒い瞳の奥はなにかをあざ笑うように光り、そうして一息ついて、籐伊に微笑んだ。
「お前なんて、大嫌い」
救急車の赤い回転灯が虚しく回っていた。