第五話/甘い夢と苦い現実
ある日の朝、届けられた手紙を読んだエリザベッタは、深い溜息を吐いて頭を抱え、やがて決心したように立ち上がると、妓楼の主の家へ出かけて行った。
基本的に、娼婦の仕事に休みはない。親兄弟の不幸など、よほどの場合には暇を与えられることもあるが、その場合も客の予約が入っていないことが条件で、休んだ日の売上は自分の借金として計上されてしまう仕組みだ。
エリザベッタほどの売れっ子ともなれば、常に客が引きも切らない状態ではあるのだが、そこを曲げて三日ほど休ませて欲しいと交渉を願い出た。楼主はかなり渋ったものの、結局はエリザベッタの機嫌を損ねては後々困るということで、仕方なく通常の売上の半額を楼主に支払うという約束で休みを許可した。
「どちらへ、おいでになるんですか」
部屋付きの女中が行く先を訪ねたが、エリザベッタは「ちょっと野暮用ができた」としか答えず、深いボンネットに毛織のドレスという、まるで下町の主婦のような格好で、お付きも連れずに出て行った。
エリザベッタの向かったのは、レヴェックから乗り合い馬車で半日程度にある、とある商業都市である。レヴェックほど賑やかではないが、小さな港があり住みやすそうだ。その町に、この10年間待ち続けた男が暮らしていることを、偶然にもエリザベッタは知ってしまった。
それは、封筒のインク汚れから判明した。宛名を書いた後に吸い取り紙を使うのを忘れて、乾ききらないインクがエリザベッタ宛ての封筒に移ったらしい。よく目を凝らしてみると、鏡文字になってはいるが誰かの名前と住所が見て取れた。
好奇心が湧いたエリザベッタは、その文字をインクでなぞってみた。すると、宛先が自分の恋人だったのである。それに気づいた時には、手が震えた。なぜなら、その男は政治犯として逃亡中であり、点々と移動する隠れ家を政府に悟られないよう、知り合いの酒屋を介して手紙のやり取りをしていたからだ。そのため、エリザベッタはこの時初めて男の居所を知った。
「政府はまず、俺の恋人であるエリザベッタを真っ先に疑うだろう。手紙を送るときはアルの店を経由しよう。いつか必ず迎えに来るから、待っていてくれ」
エリザベッタが19歳の時だった。以来、彼女は男の反政府運動を支えるため娼婦に身を落とした。そして逃亡に必要な金を、アルの店を通じて送り続けた。その男が、まさかこんな近くに住んでいたとは思いもせずに。
約10年間の間に、男がエリザベッタに会いに来たのは、両手の指で足りるほど。しかもここ5年は、顔を見せないどころか手紙も間が開くようになってきた。それを責めると、彼は必ず言うのだ。
「組織が大きくなって、危険が増している。お前を巻き込みたくないんだ。どうか、信じて待っていてくれ」
気が付けば、もうまもなく三十路を迎える。女の最も良い時代を、妓楼の薄暗い部屋で使い果たしてしまった。しかも、商売がら仕方のないことだとわかっていたが、客の子を何度か身籠り、そのたびに闇医者にかかって子が産めない体になってしまった。
この町へ来たことで、エリザベッタにとって辛い現実と向き合うことになるかもしれない。しかし、もうそろそろ答えを出すべきだろう。エリザベッタは疲れ果てていた。迎えに来ない男を待ち続けることに。
「奥さまのご友人という方がいらしているのですが……、その、少々お酒をお過ごしになっておられまして……」
ノヴァク男爵家の執事が、部屋で寛いでいたアデーレに来客を知らせた。どうもエリザベッタが泥酔して、アデーレに会わせろと門前でくだを巻いているらしい。本来なら娼婦が貴族の奥方に面会を求めるなど言語道断なのだが、何か良からぬ予感がしたため、アデーレは別棟のゲストルームに彼女を通すように言いつけた。
「アデーレ様、私が追い返して参りますよ」
「いいのよ、私も彼女の部屋に無理を言って押しかけたんだもの。今度はこっちが話を聞く番だわ」
ハンナが追い返そうとしたが、アデーレはそれを制して別棟へ向かった。以前会ったときのエリザベッタは、ユーモアがあり理知的な印象であった。あの女性が乱れるほど酩酊するなど、いったい何があったのであろうか。
「あーら、話のわかる奥さま、ごきげんよう! まあ、素敵なご邸宅ですこと。この街で、いちばんお金のかかった家ですもんね。ここに入った娼婦は、後にも先にもきっとあたしだけだわ」
エリザベッタはすっかりご機嫌な様子で、長椅子にだらしなく腰掛けていた。アデーレはハンナにレモン水を持って来させると、人払いをして二人きりで話ができるよう椅子を寄せた。そのとき、ふとエリザベッタの着衣が目に入った。先日は艶やかな絹のガウンだったが、今日は灰色の毛織である。
「あなた、今日はずいぶんと地味な恰好をなさっているのね」
「ふふ、わかります? あたし、お忍びで隣町まで行ってきたんです。恋人だった男が住んでるんですけど、まあ聞いてくださいよ。あたし、その男に10年くらい金を貢いでいたんです。それなのに」
そこまで言って、エリザベッタは一気にレモン水を煽った。アデーレがすかさずカラフからレモン水をグラスに注ぎ足す。それも半分くらいまで一気に飲んで、落ち着いたのかエリザベッタが溜息を吐いた。
「見事に、騙されてました」
「えっ?」
「女房がいました。子どもまで。待ってろって言うから待ってたのに、ひどい嘘つきじゃありませんか」
手紙の番地を訪ねていくと、そこは閑静な住宅街で、とても反政府運動のお尋ね者が潜んでいるような雰囲気ではない。彼は居所を転々としているというし、もしや何かの間違いであったかと、しばらく通りの反対側から眺めているうち、中年の男が玄関から姿を現した。外の小屋に焚き木を取りに来たようだ。
一瞬、それが誰であるかわからなかったが、少し癖のある歩き方を見てエリザベッタの胸が震えた。10年間、待ち続けた恋人である。かつてレヴェックにいた頃は、眼光鋭いナイフのような男だった。それが今ではすっかりだらしなく下腹が出て、年相応のくたびれた風体になっている。それでも恋をしていた時代の想い出が蘇り、男の名前を呼ぼうとしたその時、ドアから女が顔を出した。
「ねえ、高いところの物を取ってちょうだい」
「ああ、すぐ行く」
懐かしい声に涙があふれそうになるのと同時に、エリザベッタは激しく打ちのめされた。女は赤ん坊を身籠っており、その後ろに5歳くらいの男の子がくっついていたからだ。
自分が苦界で身を削りながら、好きでもない男に春を鬻いでいたその時、彼はこの町で所帯を持ってぬくぬくと暮らしていたのだ。きっと酒屋のアルと手を組んで、送金を山分けしていたのだろう。何が革命だ、何がこの国の未来だ。エリザベッタの中で憤怒の炎が燃え上がった。
騙されているのではないかと、心の片隅で疑っていた。ここ数年は、もう彼が迎えに来ないのではと、不安で眠れない日が多くなった。それでも、絶対に認めたくなかった。エリザベッタにとってこの10年が無駄骨だったなど、考えただけでも気が狂いそうになる。
ふらふらと通りを渡り、男の家に近づくと、塀を回ったところに裏木戸の入り口が見えた。エリザベッタはその戸を開けて、裏庭へ入った。見つかれば大ごとになるだろうが、そんなことはもうどうでもいい。
小屋の戸が少し開いており、さっき男が持ちだした焚き木が中に積まれている。その脇に木を割る鉈が無造作に放置されていた。大きくてよく研がれた、見事な鉈だ。一振りで、ちょっとした枝なら真っ二つになるだろう。
「――あたしね、気がついたらその鉈を握ってました」
アデーレの喉から、短い「ひっ」という悲鳴が漏れた。




