第三話/アデーレとエリザベッタ
ようやく悪阻が治まったアデーレであったが、心安らかに出産を迎えることは難しいようだ。また問題児のヴィトーが、警察の厄介になってしまったのである。
毎週花を届け、手紙で愛を訴えても、エリザベッタからは何の反応もない。じれたヴィトーは強硬手段に出た。何と、妓楼の離れの裏手から屋内に侵入しようとしたのである。
物音に気付いた守衛に取り押さえられ、未遂に終わったから良かったものの、もしもエリザベッタに接触して訴えられでもすれば、絵を注文してくれた顧客に顔向けできなくなる。ヴィトーはアデーレとトーラスからきつい叱責を受けたが、ぼんやりとして部屋に閉じこもっている。ここまで来ると一種の病気に近いと言える。
「そりゃあ、まずいな。あの妓楼の主は、裏にも顔が効く人物だ。揉め事を起こすと、面倒なことになる。そっちには俺から話を付けておくから、お前さんはエリザベッタに直接、頭を下げに行きな」
シャイロに相談すると、うまい立ち回り方を教えてくれた。こういう時、最も頼りになるのは世故に長けた夫である。通常であれば、貴族が娼婦に謝罪するなどありえないことだが、社会的地位が通用しない世界もある。ましてや今回は、アデーレの管理下にある画家が迷惑をかけたのだ。責任者としてアデーレは素直に謝罪することにした。
「まあまあ、貴族の奥さまが娼婦風情に頭を下げられるなんて、世間に知れたら大変なんじゃございませんか?」
「こちらに非があるのですから、お詫びをするのは当然ですわ」
エリザベッタは評判通り、すこぶるつきの美人であった。灰緑の光沢を湛えた深いブルネットの髪は、ゆるやかなウェーブを描いて乳白色の肌を縁取っている。弓なりの眉の下には、琥珀色の大きな瞳。まばたきで風が起こりそうな長いまつ毛と、ふっくら赤く艶やかな唇が印象的である。なるほど、ヴィトーがのぼせ上がるのも無理はない。
エリザベッタはすらりと美しい指先で部屋のトローリーを指し、アデーレが謝罪のために持参した品々に対する礼を述べた。少し掠れた低い声が、妙に艶めかしい響きである。
「素敵なお品をありがとうございます。さすがはノヴァク男爵家だわ。どれも一級品ばかり」
シャイロが揃えた品々は、外国の珍しい絹織物や希少価値の高い酒などで、娼婦が身を飾ったり上客にふるまうことを想定して選ばれている。アデーレは当初、花を贈るつもりだったのだが、その案はシャイロに一蹴されてしまった。
「花をもらって喜ぶのは、素人女だけだ。娼婦なんざ、客から山のようにもらって飽き飽きしてるさ。お前さんとこの小僧だって、毎週届けてるそうじゃねえか」
やはり世間一般の作法は通用しないらしい。織物や酒をエリザベッタが喜んでいるのを見て、アデーレは安堵した。
「ところで、うちのヴィトーが騒ぎを起こしてご迷惑をおかけしました」
「奥さまに謝っていただくことじゃございませんよ。よくあるんです、ああいうことは」
「そうなんですか?」
あっけらかんと笑うエリザベッタは、その瞬間だけ幼く見えた。ヴィトーが「心を開かない」と言っていたので、とっつきにくいのかと思っていたが、意外にも話してみるとさばさばとして気風のいい女である。
ここへ来る前は、どんな悪女がヴィトーを誑かしたのだろうと、先入観が勝っていたのだが、シャイロの人物評の方が正しかった。彼女は美しく頭の回転の速い、もてなしの玄人なのである。ただの画家であるヴィトーに、一線を引くのは当然だ。それなのに、他の女たちのように靡かないことに業を煮やしたヴィトーが、勝手に暴走してしまったのである。
「金ならいくらでも払うから部屋へ通せ、って怒鳴る客もいれば、泣き落としにかかる客、裏口から忍び込もうとする客もいますね」
ヴィトーのことだ。そういう客をうまくあしらいながら商売をするもの大変だろう。アデーレは頭の中にある、高級娼婦の印象が上書きされていくのを感じた。
「絵描きの坊やには申し訳ないんですが、彼を部屋に上げるわけにはいかないんですよ。あたしの客は貴族やお偉いさんばかりなもので、そこへ普通の客が混じるとお得意さんが気を悪くしますからね」
「それはよくわかります。信用商売ですものね」
「ええ、いくら金を積もうともだめものはだめだと、あの坊やに言い聞かせていただけませんでしょうか。お貴族さまと同じで、あたしらの商売にも格付けがあるんです」
アデーレは了承し、辞去するために席を立った。玄関まで見送りに来たエリザベッタが、くすくすと笑いながら胸を撫でおろす仕草をした。
「奥さまが、ものわかりの良い方でよかったわ。実は、文句を言いにいらしたんじゃないかって、ひやひやしてたんですよ」
「文句?」
「ええ。実はお客様の奥さまが、文句を言いに来られることも多いんです。夫を誑かすのをやめろって」
エリザベッタがうんざりした顔で肩をすくめる。アデーレは、俄然興味がわいてきた。
「あなた、そういう時は何ておっしゃるの」
「男を誑かすのが私の商売よ、貴女もご主人がここへ来なくていいように、せいぜい男の誑かし方を学んでごらんになっては? って言うわ」
「傑作ね、あなた面白いわ!」
実に愉快な気分で、アデーレは妓楼を後にした。なぜ街の名士たちが、大金を払ってエリザベッタの部屋へ通うのか理解できた気がする。その分、ヴィトーにはいよいよ高嶺の花だということがはっきりした。それをヴィトー本人に告げると、相当に衝撃を受けたようで、しばらくは誰とも口を聞こうとしなかった。
これでようやく、安心してお産を迎えられると思ったアデーレだったが、その数か月後に再び厄介事が起こった。ヴィトーの世話役が画廊の執務室を訪れ、困り果てた顔でアデーレに助けを求めたのである。
「ヴィトーが仕事先に現れないのです。家にも行ってみましたが、寝室から出てこないと女中が言っています」
その日は子爵家から注文のあった、肖像画の打ち合わせの日であった。午前中に伺うと約束していたのだが、もう間もなく正午になろうかという時間だ。アデーレは急いで世話役を子爵家に走らせ、ヴィトーが急病のため日を改めさせて欲しいと伝言させた。失礼も甚だしいが、後ほど自分が出向いて謝罪すれば大ごとにはならないだろう。それよりも問題はヴィトー本人だ。
アデーレは画廊を臨時休業にして、ハンナとトーラスを伴いヴィトーの家へ急いだ。もしも本当に病気で倒れているのなら、動かすのに男手が必要である。しかし、どうやらそういうことではないらしい。アデーレたちが家へ着くと、女中が落ち着かない様子で待っていた。
「多分……お客さまと一緒に休んでおられるのだと思います。あの、最近……起きて来られないことが、よくあるので」
女中は住み込みではなく通いで、食事の世話と洗濯が主な仕事だ。彼女の亭主である小間使いも、掃除と修繕くらいの手伝いなので、誰が泊っているかはよく知らないという。しかしアデーレには中の様子が想像できた。
「私が許すわ、開けてちょうだい」
小間使いにそう命じて、体当たりでドアを開けさせた。果たして室内には、乱れたベッドに三人の裸の男女。一人はヴィトーで、あとの二人は娼婦と思われる女たちだった。突然の大きな音に目を覚ましたヴィトーは、そこにアデーレがいるのを見てぎょっとしたが、やがて開き直ったように髪をかきむしり「何の用」と吐き捨てた。
「何の用、じゃないわよ。あなた今日は仕事の約束があったでしょう」
「ああ……、そういう気分じゃない」
そこで叱咤を飛ばしたのがトーラスである。画廊の責任者として、契約を反故にする発言は許せなかったのだ。
「お前がどういう気分であろうと、関係ない。受注した限りは、それを遂行する義務があるんだ。今回は奥さまが取りなしてくださったが、次回こういうことがあればお前はもう絵描きとしてやって行けんぞ」
ヴィトーは仏頂面だったが、絵を描けなくなるのは困るようで、最終的には謝罪の言葉を口にした。そのうち女たちが起き出したので一行は退出したが、せっかく絵に集中させるために構えたアトリエなのに、自堕落な生活を送るようでは意味がない。アデーレは住み込みの監督者を雇うことも視野に入れた。
帰り際、寝室の隣にある作業部屋を覗いてみた。そこには夥しい数のスケッチが壁に張り巡らされている。どれもエリザベッタで、引き裂かれたものや焼け焦げたものもある。とても正気の沙汰ではない。
アデーレは再び自分の中に、醜い嫉妬の靄が生まれてくるのを感じた。いったいこの男は、どこまで自分を苦しめれば気が済むのだろう。そしてそんな男から離れられない自分にも、アデーレはほとほと嫌気がさしていた。




