第二話/危険な綱渡り
アデーレは自分の行いを、愚かだと認めはしたが、後悔しなかった。明け方、主人の不在に気づいて門前で待っていたハンナには泣かれたが、心は晴れ晴れとしている。
アデーレとヴィトーとの間で唯一、エリザベッタにはできないこと。それは、恍惚状態の共鳴である。そして、それがヴィトーの新しい絵の可能性につながっていることも、アデーレの自尊心を支えていた。
ヴィトーが恋に堕ちたことで、その絆が失われるのではないかと不安になったアデーレは、自らの存在証明を求めて突発的にヴィトーのもとへ走ったのである。時に恋は狂気を生むというが、この時のアデーレがまさにそうであった。
しかし、独り身ならいざ知らず、今のアデーレはノヴァク男爵夫人である。この日はシャイロが不在で表面上は事なきを得たとは言え、もしもこのことが知れたらどうなっていたか。そう言ってハンナはアデーレを諫めたが、当のアデーレはけろりとしている。
「大丈夫よ。シャイロは悋気を起こすような人じゃないわ。情夫を作ったと言えば、うまくやってくれ、で済んじゃうわよ」
ハンナは目を丸くしたが、実際そういう男である。しかしアデーレは、ヴィトーとの出来事をシャイロに知らせる気はなかった。遊びで済まない本気の恋を、きっとシャイロは警戒するだろうとアデーレの勘が告げていたからだ。
一方、ヴィトーは相変わらず深い闇の中を彷徨っていた。毎週、エリザベッタに花と手紙を届けているが、窓から顔さえ見せてはくれない。時たま、立派な服を着た男が彼女の部屋に招き入れられるのを見ると、嫉妬で胸が焦げそうになる。彼女の陶器のように滑らかな肌を、あの男の手が這いまわるのかと想像し、大声で叫んで走り出したくなるのだ。
そんな不安定な精神状態の中、ミロスラヴの作風は変化を遂げていった。中でも、この頃から描き始めた自画像は話題を呼んだ。叫ぶ顔、泣く顔、怒る顔など、様々な苦悩や悲哀を表現した荒々しい表現は、かつてこの国の芸術界にはなかったもので、トーラスはそれらを一連にまとめて小規模な展示会を行った。
それらの中には、一種狂気を感じさせるものさえあったのだが、人々はそれを新しい芸術性の奔流だと評価し、どれも高い値段で買い取られた。ヴィトーの乱れた精神が反映された結果ではあるが、芸術家としてはまたひとつ高みに上ったといえよう。
それからしばらくして、アデーレは体に異変を感じた。二度目なので、はっきりわかる。子を身籠っているのだ。本来なら待ち望んだ懐妊の報せに、諸手を上げて喜ぶべき場面ではあるのだが、わずかにヴィトーの子である可能性も否めない。しばらくアデーレは逡巡し、覚悟を決めてシャイロに向かい合った。
「あなた、いいお報せがあるの。赤ちゃんを授かったのよ」
アデーレは、赤ん坊をシャイロの子と思い込むことにした。ヴィトーへの執着が消えたわけではない。むしろ、一生想いを抱えたままかもしれないが、その一方で今の暮らしを守りたいという、狡猾な考えもあった。
そして何よりも、今度こそ母親になりたい気持ちが強かった。メッシーナ辺境伯家で強いられた代理出産は、守秘義務があるためシャイロには知らせていない。そのため彼はアデーレが初産だと信じ、渋みのある強面を歪めて祝いの言葉を贈ってくれた。
「そうか、そりゃあ目出度い。お前さんと生まれてくる赤ん坊が、何不自由ないように手を尽くそう。安心して生んでくれ」
ひとりハンナだけが、面を張り付けたような顔をしてその場を見守っていた。この上は、どうかこの博打が悪い目に転がらないようにと、冷汗をかきながら祈るしか成す術がない。
時を同じくして、ヴィトーの身辺にも重大な動きがあった。ペルコヴィッチ伯爵家の金庫から絵を盗んで逃げていたリュドラスが、王都の外れで見つかったのだ。
ハンナからアデーレがシャイロに嫁ぐことになった理由を聞かされ、ヴィトーはリュドラスに対して強い復讐心を抱いた。元々は淫らな絵を描いた自分が悪いのだが、それを利用してアデーレを裏切ったリュドラスは許しがたい。何としてでも見つけ出し、相応の報いを受けさせねば気が済まなかった。
そこでヴィトーは、雑居アパートで知り合ったやくざ者の男を頼ることにした。ハンナから事の成り行きを聞いた、その足で繁華街に探しに行ったのだ。
ヴィトーはその男に、リュドラスを見つけ出して絵を売った金を取り戻してくれと頼んだ。そして同時に、アデーレを陥れた罪に対して制裁を加えて欲しいと付け加えた。
「いいぜ、ミロスには世話になったからな。その筋の連中に連絡を取れば、そのうち飛んだ先がわかるだろうぜ」
その男は一年ほど雑居アパートに転がり込み、ヴィトーに集って生活をしていた。その恩返しとして裏世界の伝手を使い、王都の賭博場に出入りしていたリュドラスを探し出した。もちろん、たっぷりと制裁を加えたことは言うまでもない。
「ほらよ、これでよかったんだろ」
そう言って男はヴィトーに小さな布の包みを差し出した。開くと、中には黒ずんだ豆のような塊が入っている。リュドラスの足の小指である。ヴィトーの叔父がかつて、伯爵夫人から痛めつけられたのと同じやり口をヴィトーは選んだ。
「ありがとう。これで酒でも買ってくれ」
残念ながら、絵を売った金は半分ほどに減っていたが、その中からヴィトーは金貨を2枚つまんで男に渡した。しばらく遊んで暮らせる額である。男はひゅうと口笛を吹き、機嫌よくその場を立ち去った。
数日後、画廊の執務室でヴィトーはアデーレから平手打ちをくらっていた。自分の恨みを晴らすためにやったことではあるが、アデーレのために良かれと思っていたことが、かえって彼女を怒らせてしまった。納得がいかないヴィトーは無然とした表情である。
「でも、お金だって全部ではないけど、戻ってきたじゃないか」
「お金なんて、どうでもいいのよ!」
ヴィトーは考えが浅い。せっかくアデーレが雑居アパートの仲間から彼を切り離したというのに、自分から接触をするなど思いもしなかった。しかも、やくざに汚れ仕事を頼んで金を払ってしまったのだ。そういう連中が金が尽きたらどういう行動に出るかは、温室育ちのアデーレでも容易に想像ができる。
「表沙汰にできないことを、やくざに頼む恐ろしさがわかっていないわ。あなた、弱みを握られたのよ」
「あいつはいい奴なんだ、心配しなくていいよ」
「どうだか。周りにそそのかされることだってあるわ。金を持っていて後ろ暗い人間に、つけこもうと思う連中はいっぱいいるのよ」
アデーレの母バージットも同じことをしたが、彼女にはやくざを抑え込める権力があった。野良犬は自分より力の弱いものを襲うのだ。何の後ろ盾もないヴィトーは恰好の獲物である。
「とにかく、もしも彼が何か言ってきたらすぐに私に知らせて。絶対にお金を渡してはだめよ。お金は画廊で預かってもらっていると言いなさい」
「……わかったよ」
案の定、やくざ者の男はその翌週ヴィトーの家に金を無心しに来た。家族が病気になったので、いくらか都合してくれないかという理由だったが、その裏に「さもないと秘密を暴露する」という脅しがあるのは明白だった。
ヴィトーは自分の愚かさを呪いながら、アデーレが言いつけた通りに「画廊に金を預けてあるので後日来てくれ」と、その場をしのいだ。その言葉を真に受けて数日後にのこのこやってきた男は、シャイロの部下の手により何処かへ連れていかれた。恐らく彼が再びレヴェックの街に現れることはないだろう。
「僕は、いつもアデーレに迷惑をかけてばかりだ。ごめんよ」
「謝らなくていいわ、でもこれに懲りたら今度からは気を付けてね」
ヴィトーの行いは、非常に危険で愚かしいことではあったが、アデーレはその一方で嬉しくも感じていた。彼が自分のために怒ってくれたことなど、今までにあっただろうか。シャイロとの結婚生活を堅守する決心をしたアデーレではあったが、やはりまだヴィトーを捨てきれないと再認識させられる出来事であった。




