第一話/笑わない女
その後もヴィトーにとって、苦悩の日が続いた。傍から見ればよく描けているスケッチでも、彼本人としては「これは全くエリザベッタではない」そうだ。
初めて経験する行き詰まりがヴィトーの精神を追い込み、そこへ片思いの熱が加わって、さらに思考は混乱を極めた。しかし、納期は守らねばならない。世話役とトーラスに説得され、一旦は没にしたスケッチの中から最良と思われるものを選び出し、その構図で渋々とヴィトーはキャンバスに筆を入れた。こうなると創作ではなく作業である。
それでも、素人目には完璧と思われる肖像画ができ上った。ヴィトーの類稀なる画力の為せる業である。描いた本人は無然としていたが、客は大喜びしていたので、画廊としては申し分ない。ただ、今後もこういうことが起きると困るため、アデーレはヴィトーに注意をすることにした。
「まだむくれているの? いったい何が気に入らないのかしら。お客さまは喜んでくださったわよ」
「あの客が、エリザベッタに絵を贈って機嫌を取るのかと思うと悔しい。第一、あんなのエリザベッタじゃない」
「素敵に描けていたと思うけど」
「だって、僕はまだ本当の彼女を見ていないのに、絵に描けるわけがないんだ」
訳の分からないことを言い出したので、どういうことか聞いてみれば、ヴィトーは絵を描く際、モデルとの間にある種の精神交流を感じるのだという。最初は緊張していたモデルが、目線を交わし合ううちに次第にほぐれていき、その人物本来の姿が見えてくるらしい。
「男性なら威厳だとか、賢さだとか、立派に見られたいっていう願いが伝わってくる。女性の場合は……、魅力的に見られたいというか……」
要するに、ヴィトーの色香に当てられて、媚態を示してくるという意味だろう。そのせいで、彼はモデルの女性と何度も深い仲になっている。
「でもエリザベッタからは、何も感じられない。顔は笑っていても、心が笑っていないんだ。まるで、どんなにノックしても開けてもらえないドアみたいなんだよ。どうにか彼女の感情を引き出そうと、念を送ってみたけど駄目だった」
そうしているうちに、それが彼女を求める情欲に変わって行ったということらしい。アデーレは呆れて天を仰いだ。男を誑かすのが本職の娼婦相手に、色目が効くなど思い上がりも甚だしい。単純に、相手が上手だったというだけだ。
しかも、昔の話だとは言え自分に想いを告げた相手に、よくもぬけぬけと他の女への恋心を語れるものだ。アデーレは腹の底で、どす黒い靄が渦巻くのを感じた。
ヴィトーが自分以外の誰かと関係を持つことは、とっくに諦めの境地である。最初に結婚した酒屋の娘も、一夜の快楽を共有するふしだらな女たちも、同棲していたタチアナでさえ、皆同じように愛されていないと思えば、彼の人生に影響を与えられる分だけ、自分は特別であるという優越感を得られた。
しかし、エリザベッタは違う。ヴィトーは彼女に執着し、感情を制御できないほど惹かれている。それを知ったときの惨めな気持ちを、アデーレはどう慰めていいかわからなかった。
「ヴィトー、あなたは馬鹿よ。彼女は娼婦なんだから、金を払った男が恋人なのよ」
「わかってるよ、そんなことは」
「試しに金貨を握らせてごらんなさい、きっとあなたの望む通りにしてくれるわ」
「やめろ! エリザベッタを侮辱するのなら、たとえアデーレでも許さない!」
ヴィトーは椅子を蹴って立ち上がり、帽子を引っ掴むと画廊から出ていった。声を荒らげるなど、あまりにヴィトーらしくない行いに、アデーレは呆然とし、やがて強烈な怒りに支配された。いったい何に対して怒っているのか、自分でもよくわからない。ただ、体の中を煮えたぎった血が駆け巡るような、行き場のない怒りであった。
「アデーレ様、大丈夫ですか。言い争うような声が聞こえてましたが」
帰りの馬車の仲で、ハンナが心配そうに主人の顔を覗き込む。アデーレは未だ怒りが収まらず、「大丈夫よ」とだけ言って窓の外を眺めていた。しかし、そんなことで騙されるハンナではない。数日後、下町の酒屋で酔っ払っていたヴィトーをつかまえて、アデーレとの諍いの原因を問いただしてみた。
「アデーレが正しいのは、わかってるんだ。確かに、彼女は娼婦だ。でも、エリザベッタは僕にとっては、女神みたいな人なんだ」
「あんたまさか、それをアデーレ様にそのまま言っちゃったんじゃないでしょうね」
「うーん、どうかな……似たようなことは言ったかもしれない」
「馬鹿、なんて無神経なの!」
報われない恋心を胸にしまい込み、それでもヴィトーの才能を信じて援助を続けているアデーレに、何とも残酷な仕打ちである。しかしハンナがいくら言い聞かせても、初めての恋に浮かれるヴィトーには響かなかったようで、彼はついにエリザベッタに会うために、妓楼に押しかけるという暴挙に出てしまった。
しかしながら、エリザベッタは貴賓客専門の高級娼婦である。いくら小銭を貯めたからと言って、駆け出しの画家風情が一見で相手にしてもらえるわけがない。それなりの筋から紹介があり、楼主が認めた客しか部屋には入れないのが決まりである。当然ながらヴィトーは門前払いとなり、さらにエリザベッタへの思慕は燃え上がった。
「ああいうのを色呆け、っていうんでしょうね。きっと一時の熱病ですから、あまりお気になさらない方がよろしいですよ」
いまだ元気のないアデーレをハンナが元気づけようとするが、あまり効果は芳しくない。二人は幼なじみというだけでなく、現在は仕事のパートナーでもある。どうか穏便に解決して欲しいと願うのだが、なかなか今回は問題の根が深いらしい。
「私のことはいいのよ。それより、ハンナの方が大変なんじゃないの」
「……何をおっしゃっているのか」
「マシューに結婚を申し込まれているのでしょう? シャイロから聞いたわ」
マシューはシャイロ商会レヴェック本店に勤める男で、ノヴァク男爵邸を訪れた際にハンナを見染めた。以来、せっせとハンナを口説いているのだが、当のハンナが逃げ回っているのだ。
「彼、なかなか働き者らしいわよ。あなたも私に付き合って、すっかり良い年になってしまったんだもの。ここらで身を固めてくれると、私もほっとするんだけど」
「私はそんな……、ずっとアデーレ様のお傍でお仕えします」
「あら、既婚でも侍女はできるわよ。色々あってハンナが男性を避けているのは知っているけど、女がずっと独り身というのも厳しいわ。前向きに考えてみては?」
俯いたハンナの耳が赤く染まっている。実はハンナもマシューを嫌いでないことを、アデーレは察していた。無口だが誠実で、しっかり者のマシュー。年はハンナの方がひとつ上になるが、二人は似合いの夫婦になると思われた。
その夜、ヴィトーのことやハンナのことなど、最近起こった色々な事柄を考えているうち、アデーレはふと自分がこの世界でひとりぼっちであるような気がしてきた。
もちろん、シャイロという夫もいるし、実家には兄もいる。実際は多くの人々に囲まれて生きているのだが、心の深い部分に大きな洞が空き、誰もそれを埋められないような、やりどころのない悲しみが溢れてくるのだ。
気が付くとアデーレは、テラスから夜空を見上げて涙を零していた。先日、ヴィトーは花束を抱えてエリザベッタを訊ねたらしい。花だけは受け取ってもらえたが、やはり彼女には会えずじまいで、それでも嬉しそうにしていたというから、熱病も相当重症である。
そんな日が何日か続いたある日、アデーレは深夜にひとり屋敷を出て、辻馬車を拾った。貴婦人が出歩くには極めて不適当な時刻である。向かった先は、ヴィトーのアトリエだ。
着くなりアデーレはドレスを脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿になった。さすがのヴィトーもこれには驚愕して服を着るように促したが、アデーレはきっぱりと拒否した。
「描いて、私の姿を。私なら、あなたに心の内側を全て見せてあげられるわ」
やがて再び、あの不思議な高揚感に包まれたヴィトーは、アデーレの裸婦像を描いた。その作品は禁忌のモティーフであるため、長年某所に秘蔵される運命を辿ったが、後年ミロスラヴの最高傑作のひとつとして、この国の芸術界に大きな旋風を巻き起こすこととなった。




