第五話/千載一遇のチャンス
ミロスラヴに肖像画を発注したのは、レドニツェ侯爵家である。王都東部に広大な領地を持ち、その一部の境がペルコヴィッチ伯爵領に接している。侯爵夫人がたまたまレヴェックの親戚宅を訪れた際、ミロスラヴの絵を見て感激したのだという。
「間もなく我が家の次女が8歳になる。ぜひ記念に可愛いらしい姿を絵に残したいのだ」
子煩悩なレドニツェ侯爵は、年のころは四十代後半。髪が薄いため老けて見えるが、快活で社交的な好人物であった。段取りとしては、侯爵家にヴィトーを一週間ほど派遣して下絵を仕上げ、レヴェックに戻って凡そ完成させたら再び侯爵家を訪れて最後の仕上げをする予定である。
しかし、ヴィトー本人だけで行かせるわけにもいかず、かと言ってトーラスが付き添えば画廊の切り盛りに支障が出る。そこで、経営者であり貴族であるアデーレが、ご挨拶もかねて付き添いをすることになったのだが、それを報告した際にシャイロからとんでもないことを尋ねられた。
「家を空けるのは構わないが、あの絵描きはお前さんの情夫(いろ)なのかい? そこだけはっきりさせといてくれ」
「な、なんてことを仰るの」
「別にいいんだぜ、遊び相手の一人や二人。俺だって何人か、面倒を見ている女がいる」
金持ちの男が妾を囲っているのは、別段珍しいことではないが、普通は妻には隠すものだ。しかしシャイロは公言して悪びれもしない。家族に隠し事はしないのが彼の流儀だそうで、そのかわり外の厄介事を家に持ち込まないという鉄則がある。
面倒を見ている妾たちにしても、かつて関係を持った女たちの中で、彼の子を生んだと自己申告してきた者たちを、路頭に迷わないよう扶養しているというのが実情らしい。また、アデーレが追い出す格好になった内縁の妻も、田舎町のレヴェックに愛想を尽かして、華やかな王都に帰りたいと嘆いていたため、二つ返事で離縁に応じたのだそうだ。
「取りあえず、遊ぶのは自由だがうまくやってくれ、ってこった。流石に大っぴらにやられちゃ、俺の面子が丸つぶれだからな」
アデーレは曖昧に頷き、ヴィトーは幼なじみで初恋の相手だった、とだけ伝えた。もともと身分違いなので、向こうもそういう対象として見てはいないと。一度限りの過ちのことは、伏せておいた。いくら当時は独身同士だったからと言って、淑女教育を受けた女が夫に告白できる内容ではない。
また、シャイロが考える男女の戯れと、アデーレがヴィトーを想う気持ちは根本的に違う。それをどう説明していいかわからず、アデーレは沈黙を選んだ。夫婦だって知らなくていいことはある。いくらシャイロが透明性を重視する人間だとはいえ「これは決して嘘にはならない」と、アデーレは自分に言い聞かせた。
それからしばらくして、アデーレとヴィトーはレドニツェ侯爵家へ赴いた。侯爵一家に歓迎され、滞在は非常に和やかなうちに終わった。ヴィトーの色香はモデルとなった小さな淑女をも魅了し、「絵を仕上げて再び訪問してくれる日が待ちきれない」と、押し花を挟んだ手紙が届いたほどだ。
生真面目そうな侯爵夫人も、さすが自分が見込んだ画家だと大満足で、滞在中は何かとヴィトーに気を配ってくれた。唯一、油断ならないのが侯爵である。明朗な人格者と見せかけて、その実は手当たり次第の好色漢であった。
明日はレヴェックへ帰るというその夜、なんと侯爵はアデーレの寝室に「少し話をしませんか」と訪ねて来たのだ。下級貴族の妻だと舐めてかかっているのだろう。出立の前夜を狙うなど、後腐れのない遊びに慣れていると見える。しかし、これはハンナが機転を利かせて撃退した。
「奥さまは明日からの馬車旅に備えて、今夜はお薬を飲んで早々にお休みになられました」
それですごすごと帰ったので意気地はないようだが、次回はきっと別の手を使ってくるに違いない。器量の良い奥方がおられるのに、自分のような垢ぬけない田舎者など、物好きにも程があるとアデーレが嘆くと、シャイロに大笑いされた。
「お前さん、わかってねぇな。男ってのは、どんな別嬪の嫁さんがいても、知らねえ女に触ってみたい生き物なんだよ」
「また来月、絵の仕上げのためにご訪問するのよ。どうあしらっていいのか、頭が痛いわ」
「いっそ、誘惑してやれよ」
「はあ?」
「鼻先に餌をぶら下げりゃ、きっとその助平爺は喰いついてくるぜ」
シャイロが言うには、そういう欲深い男ほど操りやすいものらしい。下手に逃げ回るより色気をちらつかせて、喰いついてきたところでこちらの要求を呑ませてやれと言う。
「そんなにうまくいくもんですか。あなたの周りにいる玄人衆とは違うのよ」
「お前さん、俺が誰だかわかっちゃいねぇな。まあ、俺の言う通りにやってみな」
シャイロがあまりに自信たっぷりに言うので、アデーレは半信半疑ではあったが従うことにした。ちょうど侯爵に持ちかけたい話があったので、欲が出たというのが正直なところだ。やがてヴィトーの絵が仕上がり、再びレドニツェ侯爵家へ訪問する日がやって来た。
ヴィトーは絵や荷物と一緒に、アデーレの後から来る荷馬車に乗っている。出発の前に「出来栄えはどうか」と訪ねると、満面の笑みが帰ってきた。勢いのある画家の顔である。今のヴィトーは、描けば描くほど成長の階段を上がっていく。だからこそ今のうちに、大仕事を経験させてやりたいとアデーレは考えていた。
レドニツェ侯爵に関しては、シャイロの描いた筋書き通りに事が運んだ。あまりに思ったままに相手が動くので、恐ろしくなったほどだ。前回は長丁場だったため、アデーレとヴィトーは侯爵家に逗留したが、今回は二日の滞在でアデーレだけ領都に宿を取った。
「いいか、こう言うんだ。せっかくなので、最後の夜は芝居を見に行こうと思っている、とな。そしたら奴さん、必ず桟敷の特上席を手配するだろうさ」
まさに、シャイロの言う通りだった。侯爵は領主の権限でアデーレのために最上級の席を用意し、自らエスコートを申し出たのだ。シャイロに言わせれば、これが「鼻先に餌をぶら下げる」ということらしい。
さらに侯爵は紳士の嗜みとして、芝居の後にアデーレを宿まで送っていくと申し出た。ここまでは全て筋書き通りである。
「ちょうどよかったですわ。私も侯爵にお願いごとがございましたの」
アデーレはシャイロに教わった、伏し目がちから数秒置いて上目遣いをする仕草を試してみた。こんなことで効果があるのかと懐疑的であったが、侯爵はたちまち頬を染めてだらしなく笑みを浮かべた。
「ほう、何ですかな?」
「実はミロスラヴのことなのですが、私の画廊の出世頭なのです。この度はレドニツェ侯爵家の絵を描かせていただく栄誉に預かり、身に余る幸運を神に感謝しております」
アデーレは内緒話をする格好で侯爵の耳に唇を寄せた。シャイロが言った通り、侯爵が自ら体を傾けてくる。
「このうえは、さらなる高みを見せてやりたいと願っております。ただ……、私には力も人脈もございませんの。どうか、侯爵のお力添えをいただけませんでしょうか」
そう言いながら、アデーレは手のひらをそっと侯爵の腿の上に置いた。まるで酒場の女のようだと思ったが、シャイロがこれで絶対に相手が陥落するというので、やってみたのだが、果たして効果は絶大であった。
「も、もちろんですとも、アデーレ様。私の親族から朋輩まで、我が家に招いて絵のお披露目会をやりましょう。そこでミロスラヴを彼らに紹介致します」
腿の上に置かれたアデーレの手に、侯爵の手が重なった。汗ばんで体温が高い。
「せひ詳しく話をしたいので、貴女の……お部屋にお伺いしても?」
その半刻後、レドニツェ侯爵は落胆した表情で馬車の中にいた。触れなば落ちんと思っていた女性の部屋へ、期待に胸ふくらませて足を踏み入れてみれば、なんとそこには彼女の夫が寛いでいたのだ。
「仕事が早く片付いたので、寄ってみたんだ」
「まあ、そうなのね。聞いてくださいな、レドニツェ侯爵が絵のお披露目会を開いてくださるのよ」
「それは素晴らしい。レドニツェ侯爵、私からも御礼を申し上げます」
そこでレドニツェ侯爵は「謀られた」と気づいたが、それでも貴族であるからには、吐いた言葉は取り消せない。仕方なく侯爵はその翌々月、約束通りにミロスラヴの絵の披露目を行い、それがアデーレとヴィトーに千載一遇の好機を運んできた。
なんと、会の参加者からの評判を聞きつけ、王家に連なる公爵家からミロスラヴに肖像画の注文が舞い込んだのだ。こうして画家ミロスラヴは、ペルコヴィッチ伯爵領の無名の絵描きから、リマソール王国新進気鋭の画家として、大きく躍進することとなったのである。




