第三話/成金の妻と呼ばれようとも
「冗談じゃない! そんな結婚は許さんぞ!」
アデーレの結婚宣言に、当然ながら父と兄は揃って大反対であった。男爵という身分だけでも伯爵家には不釣り合いなうえに、シャイロは貴族とは名ばかりのやくざ者である。さらには先日のパーティーでの態度も、ブランドンには許し難いものであった。
「お父さま、お兄さま、話を聞いてください。私、ペルコヴィッチ伯爵家にとって何が良いかを、この数日間ずっと考えておりました。その結果、この申し出はお受けした方がいいと判断したのです」
部屋に閉じこもりながらアデーレが考えたこと。それは当然ながら、自分とペルコヴィッチ伯爵家の将来である。そして、同時にヴィトーをどうやって守るかということであった。
シャイロの家で絵を見せられるまでは、どんなに金を積まれても結婚などあり得なかった。しかし、あの絵がミロスラヴの作品として世に出てしまえばどうなるか。雅号が記されていなくても、専門家が鑑定すれば、誰の手によるものかは早晩露見するに違いない。
シャイロがその気になれば、あっという間にミロスラヴは表舞台から姿を消す。場合によっては、不道徳な絵を描いた咎で収監されてしまうかもしれない。画家ミロスラヴに関する生殺与奪の権は、シャイロが握っているのだ。
なお、リュドラスは祝賀パーティーの日から、画廊に姿を見せていない。使いを自宅にやったが既にそこには住んでおらず、シャイロから得た金貨100枚を持って逐電したと思われる。
リュドラスがあれほどヴィトーの絵に執着した理由が分かった。彼はシャイロがアデーレを欲しがっているのを知り、盗みを企てたのだ。ミロスラヴの淫らな絵はアデーレの弱みであり、伯爵家が犯人を公に追求できないことも計算していたのだろう。そして、シャイロはアデーレに対し、それを交渉のカードとして切った。
もしもアデーレが貴族として正しい判断をするならば、ここはヴィトーを見限る場面であった。シャイロの求婚を拒んだせいで、一人の平民が夢を絶たれるとしても、ペルコヴィッチ伯爵家には関係のないことである。
しかし、アデーレはヴィトーを守りたかった。伯爵家の名誉に傷をつけても、彼をさらなる高みに導いてやりたかった。その気持ちがアデーレの覚悟を決めた。シャイロと結婚するという結論に向けて、アデーレは家族を説得するための尤もらしい理由を捻り出したのだ。
「結婚すれば、ノヴァク男爵は銀行からの借入金を肩代わりして下さるとおっしゃっています」
「借金は私が返済する。そのために事業を興したのだ」
ブランドンが即座に拒否するが、アデーレはそう返ってくることを予測していた。
「それは何年で完済できますか? その間にも利子は発生するのですから、お兄さまの代では終わらないかもしれません」
「だからと言って、アデーレが犠牲になる必要はない」
「メッシーナ家へ嫁いだときも、借金返済と引きかえでしたわ」
そう言われると、父と兄は黙り込むしかない。アデーレは場の空気を一掃するように、努めて明るい声を出した。
「よい機会ではないですか。ここで借金をきれいに清算して、保管庫の事業を黒字にしましょう。そうしたら、お兄さまが温めておられる次の計画も、前倒しで始められるかもしれません」
「しかし、あの男の評判はよろしくない。世間からなんと噂されるか」
領主、そして伯爵として、ブランドンが対面を気にする気持ちはアデーレにも理解できる。さらには粗野で無礼なシャイロへの嫌悪感、加えて二度も妹を金のために嫁がせることに、良心の呵責を感じているに違いない。
「ノヴァク卿がうちに婿入りするなら問題ですが、出戻りの娘が余所へ嫁ぐのですから、伯爵家の格は下がりませんわ。それに、人の噂なんてすぐに移り変わります」
ブランドンも父親も、眉間に皴を刻んで押し黙っている。先ほどまで言語道断だと思っていた話が、急に現実味を帯びてきたのだろう。ここに母親のバージットがいなくてよかったとアデーレは安堵した。彼女にとって借金返済や事業は二の次なので、娘の幸せにならないことには頑として反対したはずだ。
「それに私、どうせ条件のよい家には嫁げませんわ。お兄さま、よくご存知でしょう?」
実はつい先日、三度目の縁談のお断りをいただいた。服喪期間が終わった直後であれば、もう少し何とかなったのだろうが、アデーレがいつまでもぐずぐずしていたせいで、すっかり結婚市場での値打ちが下がってしまったのだ。
「お前は、それでいいのか?」
父親がしょんぼりとした顔で、アデーレに尋ねた。こうなった原因は、彼の経営能力の欠如によるところが大きい。最近はそれを、ようやく自覚したようである。
「私は、ペルコヴィッチ伯爵家の娘です。この家のために、最も良いと思う道を選択しただけですわ」
こうしてアデーレ・メッシーナ前辺境伯夫人は、新興貴族ノヴァク男爵の妻となった。求婚を受けるに際して、アデーレがシャイロに出した条件は三つ。ひとつは領主家の人間に対して敬意を払うこと。マナーは今後、彼が貴族として生きていくためには不可欠である。シャイロはこの要求に「努力する」と答えた。
二つ目は、ブランドンの新事業との業務提携だ。全国にあるシャイロ商会が、保管庫の申し込み窓口となり、運送手段も共有する。これに関しては商会にも手数料が入るため、特に問題はないと返事が来た。
三つ目は、シャイロが所有する例の絵を、アデーレに権利譲渡すること。これは祝賀パーティーの折、シャイロが自分で言ったことをアデーレが覚えていた。
「あなた、言ったわよね。結婚したら絵は私のものになるって」
シャイロはそう言われて、肩をすくめた。彼の癖なのだろう。貴族同士の付き合いが多くなれば、そのうち誰かを不快にさせるはずだ。現にブランドンを激怒させている。アデーレは早急に専門の教師を雇い、シャイロに貴族教育を施す決心をした。
そして、アデーレが結婚を承諾してから約3カ月後、あれよという間に婚礼の支度が整い、盛大な結婚式が行われた。アデーレはシャイロの趣味で満艦飾に飾り立てられ、薄桃色の花馬車でレヴェック中を凱旋するという辱めに耐えた。
再婚なので控えめにしたいという要求は聞き届けられず、披露宴会場となったノヴァク邸には楽団や歌手、曲芸師などが大勢招かれ、朝から深夜まで大盤振る舞いの宴が供された。招待客は地元の富裕層だけでなく、中には王都から駆け付けた者もおり、数えきれないほどの人々が邸内と庭に溢れかえった。
中には、歯の浮くような祝いの言葉を述べ、ご馳走をたらふく腹に詰め込み、その裏ではシャイロとアデーレを嘲り笑う連中も少なからずいた。
「前の奥さまはどうしたのかしら。つい先日まで、こちらにお住まいでしたわよね」
「正式に結婚していなかったそうです。王都に豪邸を一軒買い与えて、まとまった財産と一緒に放り出したんですって」
「金に物を言わせる男と、金でどうにでもなる女。お似合いのご夫婦だったんですわね」
「メッシーナ夫人も、その口だったのかしら」
そのような陰口は、もとより想像の範囲内である。アデーレは優雅に笑って胸を張り、悔しかったらお前たちも金で買われてみればいい、と心の中で思うようにした。どうせ人を見下すような連中とは、縁切りしたいと思っていたので良い機会である。
結婚式の翌朝、早起きしたアデーレは裏庭にいた。目の前ではヴィトーの絵が炎の中で揺らめいている。彼女がノヴァク男爵夫人となって、初の仕事が焚火である。早朝、ハンナと一緒に絵を全て壁から外して裏庭に運び、油をかけて火をつけた。煙に気づいたのか、二階にある寝室の窓から寝ぼけ眼のシャイロが顔を出した。
「おい、それ金貨100枚だって言ったよな?」
アデーレは返事をしなかった。たとえ金貨1000枚でも、躊躇なく火にくべただろう。この絵を処分するために結婚を了承したと言ってもいい。シャイロは煙管を咥えて、新妻の奇行を愉快そうに眺めている。アデーレは昨夜の閨事が思い出されて気恥ずかしく、黙々と火の中に絵を投げ入れ続けた。
成功欲と支配欲の権化だと思われたシャイロは、思いのほか女性の扱いは紳士的であった。そればかりか、思いもかけず優しい言葉で慰められた。
「お前さんは、苦労が多かったな。だが、安心しろ。俺の身内に入ったからには、全ての厄介事から守ってやるさ」
それを聞いて、アデーレは不覚にも泣きそうになった。実家のことや、ヴィトーのこと、気づかぬうちに背負っていた様々な重荷を、任せられる相手ができたことが、絶望的な結婚の中でせめてもの救いであった。
しかしそれでもきっと一生、夫を愛することはない。女としては最初から負け戦である。これからの長い人生を考えると、アデーレは切なく空虚な気持ちになった。
ハンナが新しい絵を火に投げ入れ、火の粉が舞い上がる。アデーレは煙たいふりをして、滲んだ涙を袖でぬぐった。乳房を露にしたタチアナの絵が、炎に巻かれて黒く変色していく。
「最初から、こうすればよかったんだわ」
アデーレは小さく独り言ちて、最後の一枚を火にくべた。たったこれだけのことが、どうしてできなかったのだろう。間違いの上に間違いを重ねて、もう戻れないところまで来てしまった。それでもヴィトーを守るためなら、きっとまた同じ間違いを繰り返すに違いない。
アデーレは立ち上る煙を見上げた。くだらない自分の憂悶が馬鹿馬鹿しくなるくらい、そこには澄んだ夏の青空が広がっていた。




