第三話/ブランドンの結婚
年が明けて、アデーレは数えの19歳になった。初婚であれば、そろそろ行き遅れの心配をせねばならないが、出戻りで商売が軌道に乗りかけているアデーレは「何とか今年いっぱいは実家で過ごしたい」と、新年のミサで熱心に祈りを捧げた。
こうしてアデーレが独身を貫く一方で、次兄のブランドンは粛々と結婚の話を進めていた。お相手は、ブランドンが所属する王立騎士団第五兵団の駐屯地、サレステで紙問屋を営む商家の娘だ。非番の日にブランドンがサレステの街へ出かけ、そこで彼女を見初めたらしい。
「エルシアという名前で、アデーレよりひとつお姉さんだよ。気立てが良くて、控えめだけど賢い女性だ」
妻に選んだ女性はどんな人かとアデーレが尋ねると、ブランドンは少し照れくさそうに教えてくれた。その嬉しそうな表情を見ると、兄が彼女を深く愛していることが伝わって来た。しかし、この結婚にペルコヴィッチ伯爵夫妻は反対だった。
裕福な商家の娘ではあるが、エルシアは平民である。いくら家督を継がない次男とはいえ、貴族籍を持たない人間を伯爵家に迎え入れるのは一般的ではない。伯爵は、ブランドンに家格の釣り合う女性を正妻に据え、エルシアは妾として面倒を見てはどうかと提案した。しかしそれをブランドンは言下に拒絶した。
「エルシアは私にとって、唯一無二の女性です。彼女を正妻として娶ります。それ以外の女性は、私の人生に必要ありません」
堂々とした宣言に、伯爵夫妻もセルジュも気圧されてしまい、それ以上何も言えなかった。結局、エルシアは一旦知人である男爵夫妻の養女になり、一年間の行儀見習いを経たうえで、男爵令嬢としてブランドンと婚姻を結ぶこととなった。
アデーレはその成り行きを聞いて、やはりブランドンは立派な男だと感心した。昔から正義感が強く、賢く、誰にでも分け隔てなく接していたブランドン。彼は自ら選んだ伴侶と人生を共にするために、身分で人を決めつける家族や、口さがない世間に対して、毅然と立ち向かう覚悟を見せたのだ。
「貴族に生まれた以上、親の決めた相手と結婚するものだと思っていたけれど、ブランドンのような恋愛結婚もあるってことね。障害を乗り越えて愛を誓うなんて、ロマンチックだと思わないこと?」
アデーレがうっとりとした表情でハンナに問うた。しかし、ハンナはぼんやりした顔で、アデーレのシュミーズを畳みかけたまま、じっと宙を見つめている。
「ハンナ?」
「あっ、申し訳ございません。ちょっとぼんやりしておりました」
「あなたらしくないわね、疲れているのなら今夜は早めにお休みなさい」
「はい、申し訳ございません」
いつもきびきびとしているハンナにしては、珍しいこともあるものだ。その後もたびたび何か考えているような様子が見られたため、アデーレはハンナが心配事でも抱えているのだろうかと気になっていた。
しかし、その謎は思いもよらぬところから解けた。アデーレが母であるバージットの離れで午後のお茶を飲んでいた時、ハンナが湯を沸かすために部屋を出て行った。その姿がドアから消えたのを見計らって、バージットが気の毒そうに肩をすくめた。
「あの娘も、さぞがっかりしているでしょうね」
「ハンナが何か?」
「ブランドンが結婚するって聞いて、気を落としていたんじゃなくて? あの娘、ずっと片思いしていたでしょう」
「ええっ」
アデーレはびっくりして素っ頓狂な声を出してしまった。あの堅物のハンナが、ブランドンを好きだったとは。素振りにも出さないので気づかなかった。第一、ブランドンは寄宿舎生活なので、たまに実家に帰省するときくらいしか会わないはずだ。
「あら、知らなかったのね。ブランドンがたまに帰って来ると、嬉しそうにしていたわ。あれは恋する女の顔だったわよ」
アデーレは、自分の鈍感さを恨めしく思った。いつからハンナはそういう気持ちを抱いていたのか。気づいていればハンナの恋を応援することもできたはずだ。アデーレの頭の中でぐるぐると思考が渦巻き、そこへバージットの言葉がとどめを刺した。
「貴族の娘を妻にするのなら諦めもついたんでしょうけど、平民の娘を娶ると聞いて、どうして私じゃなかったのかと思ったんじゃないかしら。
それからアデーレは、ハンナの様子が気になって仕方なかった。最近ではいつも通りの彼女に戻っているが、ブランドンの結婚話が決まった直後は、やはり挙動がおかしかった。さりとて本人に聞くわけにもいかず、そのうちブランドンが婚約者となるエルシアとその両親を連れて、両家の顔合わせのためにペルコヴィッチ家に帰って来た。
エルシアは小柄で可愛らしい女性で、控えめながら芯が強そうな印象を受けた。何よりブランドンが彼女を大切にしており、傍目からは非常に微笑ましいカップルに見える。それだけに、アデーレはハンナが心配だった。
もしも母の言うように、ハンナがブランドンに秘めた恋心を抱いていたのなら、婚約者との仲睦まじい様子は見ていて辛いだろう。そう思って気を揉んでいたアデーレであったが、意外にもハンナは淡々と仕事をこなしていた。
(もしかすると、お母さまの思い過ごしではないかしら)
アデーレがそう思うほど、ハンナの様子は普段通りで、やがてブランドンはエルシアを連れてサレステへと帰って行った。アデーレが続きの部屋から、くぐもった音がするのに気づいたのはその深夜である。ハンナのすすり泣く声であった。
聞かなかったふりをしようか、声をかけようか、迷った挙句アデーレは、続き部屋の外から声をかけた。
「ハンナ」
泣き声がぴたりと止んだ。やがて少しかすれた声で「はい、御用でございますか」と、返事があった。夜中に起こされたときの、正しい侍女の反応である。しかし今は主人と侍女ではなく、アデーレは女同士の話をしに来たのだ。
「入っていいかしら」
「……どうぞ」
アデーレはするりとドアから部屋に入ると、真っすぐベッドに向かってハンナを抱きしめた。
「アデーレ様?」
「ごめんなさいね、ハンナ。あなたの気持ちに気づいてあげられなくて」
「アデーレ様、何をおっしゃって――」
「知っているの、ブランドンのこと」
ハンナがぐっと身を堅くし、やがてアデーレの耳に小さな嗚咽が聞こえてきた。いつもはお姉さんのハンナが、今日は小さな少女のようだ。アデーレは震えるその背中をやさしくさすった。
「み、身分違いだと……諦めて、おりました。あの方が、お幸せそうで……よう、ございました」
「もっと早く知っていれば、私が何とかできたかもしれない」
アデーレの後悔の言葉に対し、ハンナはかぶりを振った。結い紐を解かれた金色の髪が、さらさらと肩に流れる。
「それは違います、アデーレ様。どうにもならないことでした」
俯いていたハンナが顔を上げ、アデーレを正面から見つめた。月明かりに照らされた瞳は涙で腫れているが、透き通った青い焔のように美しい。
「所詮、女は男の人生に取り込まれる定めです。男が選ぶ側で、女は選ばれるのを待つ側なのです。男性の身分が高ければ、なおさら」
想いを胸の内に抱えながら、そうやって自分を納得させてきたのだろう。ハンナの言葉には強い確信に満ちていた。
「ブランドン様は、あの方をお選びになりました。私は選ばれなかった、それだけです」
その言葉を聞いて、ふとアデーレはヴィトーの顔を思い浮かべた。ブランドンたちのように身分違いでも、望めばあるいは結婚が叶っただろうか。否、ヴィトーは誰のものにもならない。例え金に飽かして彼を抱え込んだとしても、それはブランドンたちが手に入れた比翼連理の関係には程遠いものだ。
昔、姉のセヴェリナが言っていた。「女は愛するよりも、愛されて結婚する方が幸せになる」と。彼女は相思相愛で結婚したはずなので、なぜそんなことを言うのかと幼いアデーレは不思議に思ったが、今なら理解できる。姉は義兄から愛情を注がれるうち、心の内で想いが育って行ったのだ。ブランドンとエルシアも同様である。
ようやく泣き止んだハンナの肩を抱きながら、どうして自分たちの恋情は、的外れな一方通行ばかりなのだろうとアデーレは嘆息した。ハンナが言ったように、女が選ばれるのを待つ側であるなら、選んでくれた男を愛する努力をするべきなのだろう。アデーレもハンナも、それができなかった。きっと、この先もできそうにない。アデーレはもう一度、天を仰いで深いため息を吐いた。




