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背徳の画家ミロスラヴとそのパトロネス  作者: 水上栞
Season3/女であることの悦びと苦悩
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第六話/一夜だけの恋人



 アデーレが意を決してヴィトーを訪ねたのは、それから数日後のことだった。ヴィトーの仕事が休みの土曜日、タチアナが店へ出かける夕刻を狙って、アパートの外階段を上がり粗末な木のドアをノックした。ハンナは自分も付いて行くと言ったが、往来の馬車で待機してもらうことにした。今日ばかりはヴィトーと一対一で話がしたかったのだ。



 三回ノックしてみたが返事がないので、ドアの取手を押してみた。カギはかかっておらず、きしんだ音をさせながらドアが開いた。中は薄暗く、木の板で空間がいくつにも仕切られている。複数の男女が共同生活をしていると言っていたが、最低限のプライバシーは保たれているようだ。



「ヴィトー、いるんでしょ」


「……誰?」



 左奥の仕切りから声がして、入り口にかけられている布がめくれた。ヴィトーがアデーレの姿を認めて、驚きで口をぽかんと開けている。



「アデーレ……、どうしてここに?」


「あなたと話がしたくて」



 その声が聞こえたのだろう。右奥の仕切りから、髭面の男が顔を出した。なんと上半身が裸だ。アデーレは思わず目をそらした。



「おっと、ミロス。また姉ちゃん引っ張り込んでんのか」


「そんなんじゃないよ。アデーレ、とにかく中に入って」



 ヴィトーはそう言うと、アデーレを仕切りの中へと導いた。木の板で囲われた空間は、ようやくベッドと椅子が一脚置けるくらいの狭さだ。壁にはたくさんの衣類が貼りつくように掛けられ、二つ並んだ枕がヴィトーとタチアナがここで暮らしている現実を物語っている。


 ヴィトーは椅子をアデーレに勧め、自分はベッドの端に腰かけた。膝と膝が付きそうな距離だ。ヴィトーは画材の手入れをしていたようで、敷布の上に道具が散らばっている。アデーレは気になっていたことを、真っ先に尋ねてみた。



「ねえ、どうしてここへ引っ越したの。研究院の人たちと一緒に住んでたでしょう」



 ここで「タチアナを愛しているから」と言われれば、いっそアデーレも諦めがついた。しかしヴィトーは何やら困ったような顔をして、観念したように白状した。



「同居していた仲間と、うまくいかなかったんだ」



 研究院は若手の画家の集まりで、ティトリー子爵を通じて富裕層から注文を受けている。しかし、どうしても指名が特定の画家に集中してしまい、報酬にだんだんと差が出てきた。ヴィトーは大口の指名が多く馬の絵も人気があるため、それが仲間うちで妬みの対象になってしまったという。


 ある日、仲間三人で同居していたアパートの部屋に戻ると、他の二人から話があると言われた。違う仲間をこの部屋に住まわせたいので、ヴィトーには出て行ってもらえないかということだった。仕事場でも最近は避けられているのを感じていたヴィトーは、二人の意思を汲んで出ていくことにした。



「それで、ここへ?」


「一人で部屋を借りるほど金もないし。そしたらタチアナがうちにおいでよ、って」



 悪びれもせずヴィトーが頷く。ハンナが指摘した通り、ヴィトーは男女のけじめに全く頓着しないらしい。タチアナが客を取っていても平気で、自分も女の誘いを拒まない。それは即ち、彼が誰も愛していないということだろう。アデーレはもうそのことには言及せず、本題に入ることにした。




「実は私、結婚することになったの」



 ヴィトーの目がはっと見開かれる。わずかでも反応があったことが、アデーレには嬉しかった。



「それは……、おめでとう。いつなの?」


「あとひと月ほどしたら」


「ずいぶんと急だね。相手はどんな人なの」


「メッシーナ辺境伯よ。リマソール王国北端の領主夫人になるの。今よりうんとお金持ちの暮らしが待っているわ」



 わざと明るく答えたつもりだが、却って虚しくなってきた。その心の隙間から、抑えていた感情が溢れだす。



「ねえヴィトー、久しぶりに私の絵を描いてくれない? 私たち、もう会えなくなってしまうから、何か記念になるものが欲しいの」



 ヴィトーはしばらくアデーレを見つめていたが、「もちろん」と言って黒鉛のホルダーを手に取った。



「ここじゃ絵の具は使えないから、スケッチになるけどいい?」


「ええ、ありがとう。嫁ぎ先に持っていくわ」


「アデーレがいなくなると、寂しくなるな」



 嘘つきめ、とアデーレは内心で毒づいた。このまま何も言わずに嫁いでも、自分のことなど思い出しもしなかったくせに。それが悔しくて、アデーレは自分の記憶をヴィトーの心に刻みつけてやりたいと思った。




「夫になる方は、お年が父よりうんと上なの。まるで祖父と孫よ。でも仕方ないわ、ペルコヴィッチ伯爵家の借金を肩代わりしてくださるんですもの」



 ヴィトーの瞳が揺れた。何と返事をしていいか、わからないのだろう。アデーレはもっと、彼を揺さぶってやりたくなった。



「私は、売り飛ばされるのよ」



 ヴィトーが眉を顰める。小さなほくろが二つ並んだ目元を視線でなぞりながら、アデーレは何かしら不思議な感覚が自分の中から生まれてくるのを感じた。そしてそれはヴィトーも同じだったようで、痺れるような興奮が全身を支配していくのを、お互いにはっきりと自覚しつつあった。



「あなたのことが好きだったわ。手に入らないことは知っていたけど、ずっと近くにいたいと思っていた。でも、もうそれも叶わないのね」



 アデーレは昂る感覚に任せ、長年の想いを吐露した。あっけないほど儚く、初恋が弾けて消える瞬間である。ヴィトーは少し驚いた顔をしたが、すぐに悲しげな表情を見せた。



「僕は、最低の人間だよ。身分を別にしても、アデーレに相応しくない」


「かんたんに、女の誘いに応じてしまうから?」



 身も蓋もない問いであったが、ヴィトーは素直に頷いた。絵を描く刹那の、衝動的な疑似恋愛。それがヴィトーの描く肖像画に、独特の艶をもたらすのかもしれない。同時に、彼にとってそれは足元を危うくする諸刃の剣でもある。



「そういうところも含めて、ヴィトーを愛しているわ。私は、愚かな女なの」



 アデーレの中の常識が「淑女たれ」と叫び声をあげているが、湧き出る熱い潮流がそれを押し流してゆく。結婚を控えた身で男の塒に押しかけ、あまつさえ想いを告げるなど慎みある女のすることではない。


 しかし、アデーレの中にある本能が訴えていた。この一瞬こそが、ひとりの女として生きられる最後の機会なのだと。どうせ供物として、遠く離れた土地に埋まる身である。愛する男に心を捧げたとして、誰が責められようか。



「アデーレ、ああ、アデーレ」



 ヴィトーにも、アデーレに呼応するように変化が訪れていた。瞳孔が開き、うっすらと額に汗をかいている。全身を駆け巡るような、甘い痺れと高揚感。恍惚とした中で無心になって画面に線を走らせる。



「あの時と同じだ、アデーレ、僕はいったいどうなってるんだ」



 指の先から何かが奔流となって弾け出す。ヴィトーはこの感覚が、他の女性モデルとの間に交わされる、使い捨ての劣情とは全く違うことを確信した。かつて二人が馬小屋でのスケッチ遊びで体験した、説明のできない感覚である。これは、アデーレとの融合が導き出す、別次元の精神世界と言ってもよいものであった。



「ヴィトー」



 アデーレが手を伸ばし、指先がヴィトーの膝に触れた。そこから火花が散るような刺激が拡散し、はっとしてヴィトーは目の前のアデーレを見た。いまや彼らは同じ境地を共有しており、自然とお互いが腕を伸ばして体を密着させた。


 薄いシャツ一枚向こうにある、ヴィトーの心臓が鼓動していることに、アデーレは眩暈がするほどの悦びを感じた。彼の肩越しに二つ並んだ枕を見て、ちらりとタチアナの顔が思い浮かんだが、やがて降りて来た熱い唇に塞がれて、何も考えられなくなった。






「アデーレ様、いらっしゃいますか? お迎えにあがりました」



 いつまで待っても戻ってこない主人に、何かあったのではなかろうかとハンナがしびれを切らし、とうとうアパートの中まで探しに来た。


 そこで彼女が見たものは、画材の散らばる寝床で絡まり合って眠る裸の二人と、シーツに滲む破瓜の証、そして禍々しいまでの色情を湛えた、一枚のスケッチであった。






 Season3――完――




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― 新着の感想 ―
[良い点] この回好きです。ずっと、絵を描くヴィトーが見たいと思っていました。もう一度。 二度目、時間をあけて繰り返し拝読して、一度目には気づかなかったことがあって。 ヴィトーが研究員の仲間から妬ま…
[良い点] 情感豊かに2人の子供時代が終わった感じがします。 ランプのあたたかな光を受けて長く伸びるアデーレの影。 誰も信じてくれないかもしれないけど、絵を描き描かれることによるエクスタシー。 アデー…
[良い点] ついにこうなってしまいましたか…… ううう……
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