【1.計画編】
昨年(2015年)の春、剱岳を特集していた山岳誌を偶然見かけた。
私はその年、夏に表銀座、そして九月に剱岳をやってみようと考えていたので、計画の際に参考にしようと思い、その雑誌を購入した。しかしその時点ではまだ、槍ヶ岳と表銀座の縦走という当面の計画に頭を悩ませていた頃だったから、その次の目標である剱岳は、どこか現実感のない、夢の世界であった。オーソドックスなルートである別山尾根を単純にピストンするだけの構想しかなく、タテバイやヨコバイの写真を見るだけで慄き、ここを越えないと登頂できない厳しさを漠然と認識していたにすぎなかった。
その山岳誌は、特集というだけあって、別山尾根と早月尾根の二大ルートのほか、裏剱やその他のバリエーションルートも掲載されていた。私が剱岳をひとつの山域として認識したのはそれが最初である。正面ルートすら知識がおぼつかないのだから、周辺エリアはまったくの不案内であった。
その中に、下の廊下の記事があった。渓谷の美しさと、そこを切り裂く登山道の圧倒的なスケール。それは厳しさの裏返しであるが、私はすぐに、野趣あふれる写真に魅了された。それからも、剱岳の情報を集めようとすると、必ずと言っていいほど下の廊下という名が目についた。
夏。私は表銀座を縦走した。槍ヶ岳のテント場で、行き会った人と山の話になり、いつか行ってみたいと思う場所はどこですかと聞かれて、私はとっさに下の廊下だと言ってしまった。その翌月に剱岳を計画していることを話した後の話題だったと思う。剱の本峰だけで頭がいっぱいで、剱の後にどこの山へ行こうなど、想像すらしていなかったはずなのだが、不意にその名前が浮かんできたのだった。その人は女性だが相当な経験者らしく、メジャーな場所はほとんど行きつくしているような雰囲気だったが、下の廊下という場所は知らないと言わしめたことに、おこがましくも優越感じみた気分を感じた。そういう感情はさておき、下の廊下と口に出して言ってしまったことが、将来の候補地として決定づけた瞬間だったではないだろうか。
さらにその年の晩秋、NHKのグレートトラバース2という番組で、下の廊下と道続きの水平歩道が登場した。プロアドベンチャーレーサーの田中陽希氏が、日本二百名山を踏破するという番組だ。ルートとしては、白馬周辺の二百名山に登頂してから立山の奥大日岳へ向かうという行程だったと思う。その行程であれば、祖母谷から欅平を経由し、水平歩道を経て仙人谷から仙人池を越えて剱沢雪渓を直上するというルートであろう。それまで写真でしか見たことがなかった水平歩道を、映像として見たのだ。テレビの娯楽という性質上、描かれ方は差し引いて考えるべきものの、その高度感と恐怖感は想像以上のものであった。同時に、それによってイメージを確かなものにできたと言ってもいい。そしてまた、はからずも大々的にテレビ放映されてしまったことに、焦りを感じたこともたしかだ。
下の廊下は日本でも屈指の豪雪地帯に位置する。毎年九月の終わりまで残雪があり(一部は融けずに越年する)、次の降雪によって閉ざされる十月の下旬まで、わずか一ヵ月たらずの間しか通行することができない。その希少性も大きな魅力だ。だがそれは、裏を返せばその期間に登山者が集中するということでもある。私が感じた焦りとは、あまり知られていないはずのエリアの認知度が高まったことで、人がいっそう増えるのではないかという懸念からであった。
入山期間が極度に制限されるから、「いつ行くか」という問題は、すなわち「どの年に行くか」という、年単位での構想となる。九月から十月という時期は、紅葉目当てと重なって他にも行きたい山がたくさんあったし、そもそも下の廊下は山ではないのだから、ピークハントをスタイルの主体とする私としては、優先順位は高くなかった。まあ三年ほど後にやろうか、といった気持だった。
年があらたまった今年の正月、私はこの年に目標とする山の名を紙に書いた。第一順位にある山名(仮にK岳とする)を記し、第二順位に、七月に縦走した薬師岳から水晶岳までの山々の名を記した。この年は、勤続年数に因って十日間の特別休暇を取得できる年にあたり、分割して五日間ずつの取得を考えていたから、七月と九月に分割して、それぞれの計画を立案することにした。七月は前記のとおり薬師岳から水晶岳の四座を縦走するというもので(結果的に笠ヶ岳を加えた五座を縦走した)、九月が今年の第一順位目標のK岳であった。七月の縦走はたいへんつらいものだったが、年初の時点ではそれはあくまで第二順位であり、いわば九月の山行に向けた前哨戦であった。
七月の縦走を終えてから、九月の山行のためにK岳の地図を新たに購入し、登山計画書も作成していった。それにもかかわらず、そこまで周到に計画していた第一順位のK岳を放棄して、目的地を下の廊下に変更したのであった。しかも、五年ごとにしか訪れない連続五日間の特別休暇の対象年度であるにもかかわらずだ(下の廊下は最短二日で終えられる。五日を所要しないと行くことができない場所の方を優先すべきなのだ)。
なぜそうまでして、今年の目的地にしたのか。その最たる理由は、毎年必ず開通するわけではないという情報を得たからであった。昨年は、その前の年の豪雪のために残雪がとりわけ多く、ついに一部区間が開通しなかったというのである。私はただ漠然と三年内と考えていたが、目標と設定した年に開通しないとしたら大きな痛手だ。それにひきかえ今年は、前年が少雪だったから、開通しないという事態はおそらくないだろう。可能性が高いうちにやっておくべきだ、そう考えたのである。それが出発の前月、八月の上旬であった。
開通状況をいち早く察知する手段はないものかと探したところ、阿曽原小屋のホームページで随時情報を公開していることを見つけた。これは非常に参考になった。これなくして今回の旅はなかったと言って過言ではないくらいだ。ちょうど、”あり得ないほど今年は雪解けが早く、登山道の補修工事が始まったところだ”といった記事が掲載されていた。
予定実行日は九月のシルバーウィークだった。その一ヵ月前から高速バスの予約が可能になる。その時点では、予定日に開通しているかどうかは分からないから、もともと計画していたK岳の登山計画も捨てておらず、当初計画用のバス便と、下の廊下用の富山行きバス便とを、それぞれ同日に予約した。天候を考慮して予備便を予約してもよいのだが、行き先が定まらないからその時点では予備便の予約は見合わせた。はっきり開通した時点で、日程の微調整をすればよいと思った。阿曽原サイトによれば順調に整備が進んでいるようだった。
九月に入ると台風が次々とやってきた。九月八日時点のサイト情報では、十字峡~黒部別山谷間を除いて整備は終了していた。ところが、台風の風雨による登山道への直接的な影響はなかったものの、それに伴う長雨の影響で整備活動に遅れがでているようだった。
以下、阿曽原サイトの原文を引用しつつ心境を述べる。
【九月十二日】(第二週の月曜日。翌週に実行予定)
『十字峡~黒部別山谷間は整備中ですが、今週の天気予報が悪くなり作業が思う様に進まなくなるかもしれません。現在は、手すりの針金が切れている所・草刈りがしてない区間等があります。注意して通って貰えれば通れない訳ではありませんが、怖いのが苦手な方は完全に整備が終わるのを待った方が良いかと思います。週末までには、もう一度確認して来る予定ですが、あまりにも天気が悪いと予定通りに行かないかもしれません。』
翌週が予定日だというのにこの状況である。気が気ではなかった。日程を調整することも考え始めた。もちろん、同時に保持しているK岳計画のバス便の予約もまだ生きていたが、この時点ではもはや下の廊下のことしか頭になくなった。
【九月十五日】(第二週の木曜日)
『シルバーウイークに下ノ廊下を計画されている方、必見です。本日、阿曽原から黒部別山谷出合までルートの状況を見てきました。ここ数日の不安定な天気のせいもあり、十字峡から上流の整備があまり進んでいませんでした。明日は天気が良いので白竜峡のあたりまで作業が入ると思われますが、明後日以降は台風とそれに伴う前線の影響で黒部別山谷までの整備はまだ遅れそうな気配です。現在のところ、十字峡の上流(H二十三に山抜けして道がなくなった場所)までは整備が終わっていますが、そこから白竜峡を経て黒部別山谷出合まで未整備です。特に白竜峡から黒部別山谷出合までは、危険個所が多く一般の登山者の通行は見合わせたほうが良い状況です。この区間は整備後でも岩場のヘツリが続く緊張感のある場所ですが、まだ未整備で、桟道が傾いていたり、手すりの番線(針金)が切れて無くなっていたり、転石が道を塞いでいたりするうえに、全体的に転石がかなりたまっており、手元・足元にかなりの注意が必要です。明後日以降不安定な天気になりそうですので、一般の登山者の方はもとより上級者の方も無理なさらないようお願いします。シルバーウイーク後半(二十二日~二十五日)に計画されている方につきましては、整備が進んでいるかどうか今後の天候次第ですので、台風の様子も見ながら二十日頃に新しい情報が入り次第お知らせする予定です。』
この情報を見て、私はほぼ、延期しようと思った。結局、二週間近く、この区間の整備が終わっていないのだ。さらにはこの後にまた台風が到来することも予想されているのだ。
翌十六日の金曜日。週明けから特別休暇を申請済ではあったが、「おそらく出社します」と、なんとも勝手なことを告げて退社した。
一方で、仮に整備が終わっていなくとも強行することを考え出した。いつまで待てばよいのか分からないからである。今回は三日間の予定であるから日程調整は比較的容易なのだが、第3四半期決算というイベントを抱える財務職の身としては、十月にまでずれてしまうのは困るのだ。その点からも、九月中に通行できる可能性がある今年に、下の廊下を計画したというのに。
現に通行している人が存在しているということが、強行作戦を考え出した一因でもある。
【九月十七日】(第二週の土曜日。シルバーウィーク初日)
『速報!富山地方気象台より、富山県東部の地震活動について告知がありました。要約すると、八月下旬より黒部峡谷の十字峡~S字峡の左岸の山で小さな地震活動が発生しています。詳しくは、富山地方気象台HPを、ご参照ください。小屋に居る限りでは、揺れは感じたことはないのですが「ズン!」と、いった音が聞こえることがありました。今後、地震活動が活発になるのか治まってゆくのかは分かりませんが、注意が必要です。今後も情報が入り次第、告知に努めます。下の廊下の整備状況ですが、業者さんは本日も整備に頑張ってくれています。未整備部分もありますが、取り合えずお客様は歩いてきておられます。しかし、不整地歩行に自信の無い方は整備が終了するまで控えられた方がよいかと思います。』
これを見てぞっとした。ここでさらに地震という災難が出現するとは思ってもみなかった。絶壁で囲われた下の廊下を通行中に地震が起きたらと考えるとぞっとした。
だが、それはもはや決断の問題だった。行くか、行かないか、だ。恐れるならば中止するほかない。
私には「中止する勇気」がなかった。
恐ろしいリスクがあるとしても、地震という要素は無視するしかなかった。地震による具体的な現象を冷静に考えてみると、もはや雪はないから雪崩はないし、戦前から耐えてきたトンネルが落盤する可能性は大きくないだろうし、絶壁をくりぬいた道ゆえに絶壁そのものが落石の防御となるだろう。そうして最終的に残るリスクは、ちょうど身をさらして谷を通過する際の落石と、架設登山道の崩壊である。それは地震によらずとも、このエリアに踏み入る以上は通常想定されるリスクだ。地震は、それらを誘発する可能性の大小には影響はあるだろうが、地震そのものを恐れるのは精神的な恐怖以外のなにものでもないのだ。私はそう考えた。
それよりも、近づく台風による天候の推移が気になった。台風によって登山道が崩壊する可能性もある。それは、地震よりも、より確度の高いリスクだった。
私は十九日出発の夜行便を予約していたのだが、K岳計画用の便と、富山行の便を、ともにキャンセルした。
【九月十九日】
『天候不順で、登山道の補修は天候が回復してからとなります。今日は、大雨でトロッコ列車は午後から一便だけ運行となりました。明日は、台風の接近に伴い終日運休となっております。昨日は大雨の中、黒部ダムを目指して歩かれた方が黒部別山谷の増水で引き返して来られました。今日は、水平歩道を利用した登山者も無事下山しております。雲切新道の仙人谷の橋も無事でした。今現在は、登山道の損傷は無いものと思われます。
地震について、専門家の先生に聞いたところ “震源の深さが浅いので、大きな地震は発生するとは考えにくい。”とのことでした。
また、我々スタッフもコースを何度も行き来しておりますが、落石の痕跡等は今のところ確認されておりませんが、今後も推移を注意深く見て、なにか変調や情報が有ればお伝えしてゆきます。(中略)テント場も大変な混雑が予想されます。例年、遅く到着されたお客さんはスペースが無くなり、自分で沢筋・対岸・露天風呂までの通路等々にテントを設営する羽目になる方が大勢おられます。阿曽原は、峡谷内の僅かなスペースしか平地は有りません。小屋も毎年解体することを考えたり、下の廊下の不通の年の割合等を考えると、簡単には拡張することも出来ませんので、今ある施設を有効に利用しつつ、なるべくお客さんに納得して頂ける様に工夫して今のスタイルにしております。なにとぞ、ご理解のほどを御願いいたします。』
地震に関するこの記事は、私の恐怖心を軽減した。また、天候の状況から、近日中に開通することは期待できないと判断した。もはや、天候のみを考慮することにして、道は未整備であっても強行する覚悟だった。道の手掛かりの有無などよりも、この記事にあるような増水の方が、通行のリスクは高かった。週間天気予報では、土曜あたりから回復しそうな見込みだった。だから翌二十日の火曜と水曜は出勤することとし、木曜日の祝日をはさんで金曜から正式に休暇をとろうと思った。そして、二十三日の金曜日の夜行バスと、翌土曜日の室堂行バスを予約した。それぞれ二席ほど空きがあったのは幸運だった。富山から立山に向かう交通手段としての室堂行直通バスは、九月は平日の運行をしていなかった。先日キャンセルした日程の場合だと、室堂行バスは運休日のため、アルペンルートで立山へ向かう計画だったが、今回延期した日程だと富山発は土曜日となり、立山まで乗り換えなしの室堂行直通バスで行くことができるのだ。
直前の木曜日の祝日は最終的な情報収集に努めた。阿曽原サイトは十九日を最後に更新されていなかった。基本的にはそれもそのはずで、阿曽原小屋は黒部峡谷の奥地にあって通信環境がなく、小屋の人が下山した際に更新してくれているのだ。計画の前週、九月の第二週にはたいへん頻繁に更新いただいていたが、むしろそれが稀有なことであり、いかに緊急性を感じてこまめに更新してくれたかを実感させられるものなのである。つまりはその都度何時間もかけて徒歩で下山しているのであろうから。
阿曽原サイトが更新されていないから、迷惑を覚悟しつつも、表示されている小屋の番号へ電話をかけた。小屋にかかっているのか、あるいは下界の管理人の自宅にかかっているのか分からないが、非常に多数の問い合わせが寄せられているようで、そこへ電話をかけるのは申し訳なかった。いちいちそんなのに応対していたら時間がかかるし、そのすべてに対して全く同じ回答をするわけであるからいかにも徒労だろう。だからこその、サイト上での情報公開なのだ。電話はそれほど迷惑だというのに、私の問い合わせにはたいへん親切に答えてくれた。私は、無駄な会話をさせたくなくて、サイトは毎日見ているが、それ以外の情報を知りたいのだと最初にはっきり伝えた。
未整備区間のことを尋ねたら、登山者の技術はそれぞれだが、毎日のように通行してきていますよ、と教えてくれた。その口調から、強行通行が現実離れしたものではないと判断した。ロッククライミングの領域は別として、登山道としての領域ならば、私は自分の技術に対して中級者以上だというそれなりの自信があった。比較的多くの人が通行しているならば、その全てが上級者のみで占められている可能性は低い。中には初級者や中級者も混じっているだろうし、引き返してきたという情報もない。その場の臨機によるところが大きいものの、決して不可能ではないと判断した。
それからもう一点の懸念箇所が、最終日に通行する志合谷であった。ここは百五十メートルほどの素掘りトンネルで、ときに靴が水没するほどの激しい漏水がある箇所だ。それがどれほどの激しさなのかを尋ねた。するとやはり、ひどければ膝下あたりまで漏水するとのことだった。恐れていた通りで、私はそれに対する有効な対策手段を見出せないでいたから、その人に尋ねるべき質問ではないと承知しつつも、皆さんどうされてますかと聞いてみた。
すると案の定、困った様子だったが、真剣に考えていただいた挙句、ビニル袋などを活用されているみたいですよと、少し苦し紛れに教えてくれた。完全な回答ではなかったが、それに反論しても無益なので、礼を言った。質問はその二点だけだったが、私の質問が終わると逆に質問されて、来着日はいつなのか、二十五日の日曜なら混雑もそれほどではないでしょう、などと、たいへん丁寧に応対してくれた。本当に有難かった。
次いで富山県警に電話をして、下の廊下の開通状況を尋ねた。山と高原地図に、最新情報は富山県警へ確認のことと注意書きされていたからだ。かけてみると、電話が何度か回されていって、最後に、かの有名な富山県警山岳警備隊へつながった。すると、現在開通はしていないが、自宅にインターネット環境はありますかとおかしなことを聞かれたので、何だろうと思ったら、阿曽原小屋のサイトで最新情報が公開されていますとのことだった。
拍子抜けして、そこは確認していますがその他の情報は警察に入っていますかと質問した。すると、それ以上の情報はないとのことだった。地図には民間機関の阿曽原小屋の電話番号を載せられないから県警の番号を記載したのだろうが、山岳警備隊から阿曾原小屋を紹介されるとは思ってもいなかったので驚いた。ただ、現実問題として、もっとも最前線に位置するのが阿曾原小屋なのだ。山岳事故における山小屋の役割についてあらためて考えさせられた。有事の際にも、きっと山小屋の人が先陣を切るのであろうから。
警察への問い合わせによる新たな情報はなかったが、阿曽原サイト以外の情報、特に、よくない情報が存在していないことを確認できたことは有意義だった。
そして最後に、下の廊下の出発計画地点であるロッジくろよんへ、立山から下る道の状況について確認を取った。一ヵ月前に同じ問い合わせをしていたのだが、台風などによる直近の状況変化がないかどうかを確認するためであった。すると前回と同様、誰も草を刈らないから藪がとにかくひどいが、道自体は問題ないとのことだった。テント場も雑草だらけだと自笑していた。
今回の旅は下の廊下がメインテーマだったが、単純に下の廊下だけを踏破すると三角点をひとつも踏まないことになる。だからあえて室堂から入山し、立山に登頂してから、一ノ越を越えて黒部へアプローチをしようと考えていた。黒部へは反対側の長野県の扇沢からトロリーバスに乗るだけで到達できるのだが、わざわざ一日を余分に費やして、どこかの山頂を踏むことにこだわった。もちろん下の廊下はそれ自体が上級者向けのコースなのだから、そこにさらに何かを付け加えようとする必要はないのであろうが。
長丁場である下の廊下を、ゆとりをもって通行しようとすれば、ロッジくろよんに前泊するのが望ましい。だが秘境・黒部ダムの奥地にあるロッジくろよんに、ただ前泊のためだけに行くのはもったいないという気持ちもあった。また、立山はすでに昨年登頂していたが、そこからはるか眼下に見えた黒部ダムの映像が今もなお記憶にあった。秘境に踏み入らんとする前に、立山からその場所を見下ろしてから挑むというのが、山行にドラマチックな順序を与えるだろうとも思ったのだ。
ロッジくろよんへ問い合わせたのは、一ノ越からの下りルートについてだった。昨年の山行の折、一ノ越山荘において、一ノ越山荘から黒部方面へ向かって、二名の男性が下っていこうとするところを目にした記憶があった。私は彼らを見て、こんなところを下るのかと驚異を感じたことを鮮明に覚えていた。その道へ、私は単独で下ろうとするのだ。どんな点をもって、“こんなところ”と私が驚きを感じたのかは覚えていない。漠然と感じた「驚き」は、正体が分からないために「不安」に変わって、私の中にわだかまっていたのだった。
さて今回の旅にあたり、私は装備を抜本的に見直した。テント泊であるが、狭くて、ところによっては天井の低い岩が多く、かつそのすぐ横は百メートルを超す断崖というのが今回のコースの特徴である。天井か何かにザックを引っかけてバランスを崩そうものならたいへんな事故につながる。ましてや私は長身なのだから、そのリスクが高い。そんな緊張状態が十時間近くにわたって続くのだ。これは下の廊下特有の、いや特殊とさえ言える特徴だった。そのようなコースに挑む以上は、私も下の廊下に特化した装備で臨む必要があった。とにかく軽量でコンパクトなものを追求しなければならなかった。
装備の縮小を目指すうえで、七月の長期縦走に引き続き、今回も食糧の最小化を優先的に行なった。これは七月の縦走で大方の成功を得られていたので、これを完璧に仕上げることに努めた。前回の最たる反省は多量の行動食が余ったことであった。前回はいろいろと考えた上で様々なトッピングをし、一日あたり一パック、合計五つの行動食パックを作ったわけだが、今回は三日で一パックのみと、大幅に削減して、他に多少のエネルギー飲食料を補助的に用意した。夕食と朝食は、例によって完全フリーズドライの雑炊と、フルーツグラノーラである。
そして、テント泊には大型ザックだという固定観念を捨て、思い切って、日帰り登山で使用する三十リットルザックにパッキングするチャレンジをした。実はこの挑戦は初めてではなく、昨年、大峰山の双門峡ルートを登山した際にも同様に三十リットルザックで臨んだのだが、いかなる装備で赴いたのか記録をしておらず、我ながら本当にそんなことができたのかと疑わしいほどである。(間違いなく、防寒装備は持参しなかった。また、一泊行程で食糧をそれほど要しなかったことは覚えている。苔でふかふかのテント地だから、もしかしたらマットも持たなかったかもしれない。)
コンパクト化のためには、個々の装備品を最小化するとともに、通常のパッキングをしたのでは収まらないから、パッキング技術の向上と、携行する装備品の取捨選択を行わなければならない。このため私は、八月に奈良県の山の辺の道で準備登山(登山と呼べないほどの平坦な行程だったが)を行なった。テント装備を押し込んだ三十リットルザックを背負って、長距離歩行による仮想行程を実地経験し、その重心配分などを確かめた。
その結果はあまり芳しくないものだった。大型ザックであれば軽量のテントなどを下部にまとめて収納できるのに対し、小型のザックはどうしてもその収納能力に限界がある。その結果、重量物がいつもの位置よりも押し上げられ、ザックの重心が上部に偏ってしまうことになった。そのため身体の重心が振られて疲れやすかった。何より、必要と思われる装備品がすべて収まらなかったのだ。
だから私はまず収納方法の改善に取り組んだ。個装する装備数をなるべく減らして、一個装単位あたりの容積率を向上させるとともに、収納場所の変更により重心を調整した。並行して、持参する装備の取捨選択に取り組んだ。選択する装備を変えることによって収納方法も変わるから、試行錯誤の繰り返しだった。
ザックのコンパクト化については、他の登山者も成功事例をネット上に挙げていて参考にした。ただ、それは食糧の軽量化のためには大いに参考になったものの、他の装備はあまり自分に当てはまらなかった。なぜなら彼らの大部分は、第一要件として、宿営装備をテントではなくタープもしくはツェルトを使用すると唱えていたからだ。つまりシュラフは持たずにダウンとシュラフカバーのみという方法や、マットを半身分しか持たないといった方法である。私はそれらの装備を持っていなかったし、寒がりの私にとってテントとシュラフは必需品だった。理屈としては理解できたが、私がそれをやると、疲労がむしろ増すだろうと思った。実に、弱い体質の身としての悲しさである。
その他の意見として、雨が降らなければフライや雨具は不要だとか、テントは汚れてもいいからテントシートは不要だというものがあった。雨に対する装備としては、天気予報によれば後半が雨天となる可能性があったために、今回はむしろ削ることができなかった。テントシートは削ったとしても収納上は大きな影響がなかったので削らなかった。
こうして試行錯誤の結果、削った装備は以下の通りである。(括弧内は、削る決断をした理由。)
・ゲイター(ズボンは汚れてもよい)
・着替えの服少々(帰路が少々嫌だが、苦痛になるほど汚れないだろうと判断)
・ペグ四本(今回は尾根上に設営せずテント場がすべて谷あいだから、耐風用のペグは不要と判断)
・ストック一本(一日目の立山登山と、それに続く急降下を乗り切れば、以降は使用しない。急降下の安全対策として一本あれば足りる)
・膝サポーター(ストックと同じく一日目しか使用しない)
・ランタン(夜はすぐ眠る、ヘッドランプで代用)
・万能ナイフ(今まで、怪我の処置にしか使用したことがない。緊急用に必要な装備だが、使用確率を鑑みて思い切って削る)
・カメラ用ミニ三脚(タイマー撮影時に必要で、それがない場合はアングルが制限されるものの、最近は自撮り技術が向上したこともあり、アングル制限は我慢できるレベルと判断)
・エマージェンシーシート(狭い一本道だから、道迷いのリスクは少なく、最悪の場合は行き会った登山者に助けを呼んでもらうことも可能と期待。転落した場合はおそらく助からないだろうから、転落後の使用可能性はそもそも想定しない)
・ウェットティッシュ(通常、テント内で身体を拭くのに使用するが、今回は二泊とも温泉がある特異なコース。その他手拭き等の用途のために、必要枚数分のみを個装して持参することとした)
・財布(プラスチックケースで代用)
・ヘルメット(転落したら、骨折程度では済まないだろう。また天井が低い個所では邪魔。地震に関する記事のくだりで前述したとおり、落石のみが、リスクヘッジの対象として懸念されるケースだが、そのような場所は速やかに通過することとする)
などである。
ヘルメットは実に迷った。迷った挙句に持って行かなかったものとして、他にサンダルがある。これは普段も持参しないのだが、志合谷が水没していた場合に、サンダルに履き替えて通過するという特殊想定で、今回の行程に特化して新たに追加を模索していた装備だった。結局、かさばって収まらずに諦めた。最終日の志合谷のみに特化したものだし、水没していなければ使用しないのだから、やむを得ない判断だっただろう。
逆に、削るつもりにしていたが最終的に持参したものとして、ダウンがある。これは、一日目こそ三千メートルの立山を通過するものの、その日のうちに千六百メートル下って、標高千五百メートルのロッジくろよんに至り、さらにそこから先、徐々に標高を下げるのだから、低温環境を恐れなくてもよいだろうと最初は判断していた。もちろん、標高のみで単純にそう思い込んだのではなく、直近の黒部ダムの気温傾向を調べての判断だった。ただ、直前の天気予報で雨の可能性が懸念されたから、身体が濡れてしまった場合を想定して、体温回復のために持参することとしたのだ。
こうした試行錯誤の末、必要な装備をすべて三十リットルザックに収納することに成功した。一時は、諦めて大型ザックにすることも考えていたから、実に嬉しかった。最初に押し込んでしまって終わりではないから、何度か出し入れを繰り返して、現地でもスピーディに対応できるように練習した。各装備がきれいに折りたたまれている状態と違い、現地では夜露などで嵩が増えることが予想されたが、まずまず、大丈夫だろうと思われる出来栄えだった。重量は、水を持ってもなんと十一キログラムという驚くべき軽量だった。初めてテントを行なった時と比較して、実に半分以下の重量であった。これならば、相当高いパフォーマンスが期待できるだろうと満足した。