第2話 追想
「いってらっしゃい」
「あぁー、いってきます」
改めて向かい合えば、微笑ましい空気が流れる。愛理がこの場にいたなら、確実に雪乃を抱きしめていただろう。微かに染まった頬は愛らしく、庇護欲が湧く。涼しい顔をして出た匠も、その破壊力には敵いそうにない。
「ーーーー社長、どうされましたか?」
「いや……」
車窓から流れる景色に変わりはない。婚約者と離れて過ごした三年間も同じような日々だった。ただその規模は婚約した当初よりも大きくなっていた。もともと頭脳明晰な彼だが、仕事に没頭するあまり拡張せざるを得なくなったともいえる。
一條家の次男である彼が起業したのは必然だった。家業を継ぐ長男をサポートする事もできたが、その能力値からも止まらない事は明白であったからだ。
的確に指示を出す姿に見惚れる女性社員もいたが、今は在籍していない。一時期は最終面接に出向いて自身で見定めていたが、それがなくても回るようになった。変わらずに取引先との会食はあり娘を紹介される場面はあったが、婚約発表した時点で激減した。それは、相手があの藤宮家のご令嬢だったからに他ならない。雪乃を納得させるために婚約者の振りを頼んだのは断りを入れるのが面倒であったのもあるが、それは建前でしかない。彼女を振り向かせるために策略を巡らせていたのだから。
匠にとっては歳が離れているのが一番の理由だ。大人になれば些細な差かもしれないが、学生と社会人とでは時間の使い方も価値観もまるで違う。ただ藤宮家のご令嬢が一般的な価値観を持っているかは別の話だ。学生らしく過ごしていても持ち物や所作に表れ、また外見の美しさも相まって高校生に見られることは少なく、【月野ゆき】として大人と会う機会も多くあった。
大きく伸びをした雪乃は、パソコンと睨めっこした作業から一時退散した。
頭の片隅で思考してしまう事は多々ある。特に賞を取った作品の後は、次の期待値がどうしても高くなってしまうからだろう。作品に対する下調べにも余念がない。
…………憧れと、理想を…………詰め込んだようなお話かな……
どこかしらに反映される自身の想いは、すべてを曝け出しているような感覚だ。
英文で綴った物語が国内外でも評価された事は喜ぶべきであったが、上手く言語化できずにいた。未だに謎のベールに包まれた【月野ゆき】も健在であった。
大学卒業と同時に親族の経営する会社に入った清隆と風磨は、多忙な日々を過ごしていた。経営学について学んできたし、頭のいい彼らなら難なくこなす事は出来る。ただ経験値の差だけは父に遠く及ばないと分かっているからこそ、追いつく為の努力を怠る事はない。数年後には早期リタイアを目論む社長から引き継ぐ事になるはずだ。
また愛理も雪乃と同じく、婚約者である風磨と同棲中であった。違う所があるとすれば、蓬莱家の敷地内に新築一戸建てが仮の住まいという所だろう。軌道に乗るまでは婚約者を支える立場を崩す事はなく、持ち前の社交性を発揮して活動している。
学生の頃のように常にそばにいる存在ではなくなってしまった現実が、今更のように貴重な学生生活であったと感じる。
だからこそ、学生を題材にした物語が多いのかもしれないと考えを巡らせながら、キーボードに触れていった。
スマホのアラームでひと息吐き、髪をまとめて姿見で整える。
心地よい春の陽気の中、雪乃が向かうは一條家だ。
「雪乃ちゃん、いらっしゃい」
「ご無沙汰しております、菫さん……」
嬉しそうに微笑まれれば、釣られるように綻ばせる。手を引かれて連れて行かれたのは、薔薇が咲き誇る庭だ。
「わぁ……綺麗ですね……ようやく見れました」
「ふふふ、覚えてくれていたのね?」
「はい、もちろんですよ……楽しみにしていましたから……」
その反応で本心と分かる。スマホで撮る横顔からも伝わり、娘ができた感覚も健在であった。
「その花……いい香りでしょ?」
「はい……香水のようですね……」
「ふふふ、さすが雪乃ちゃんね。香水にも使われるダマスクローズの一種よ」
幾重にも重なった花びらが咲き誇り、間近に寄せられた横顔は、さながら絵画のようだ。菫が思わずスマホで写真を撮ったのは必然だろう。美しいものを愛でるのは、何も愛理だけの趣味ではないのだ。
「…………綺麗ですね……」
「ええ……」
綻ぶ表情はまさに花が咲き誇っているかのように美しい。数ヶ月後の結婚式が楽しみな一方で、息子の苦労が目に浮かぶようであった。
「雪乃ちゃん、エステはぜひうちのサロンで受けてね?」
「エステ、ですか?」
「そう、結婚式前に更に磨かせて頂戴!」
「は、はい!」
ぎゅっと両手を握られ迫られれば、勢いのままに頷いていた。
一條家が所有するホテルの会場は春翔の結婚披露を彷彿とさせる。一條家の次男というだけでなく、彼自身が一企業の社長である事からも招待客は厳選されながらも多岐に渡る。またその嫁が藤宮家のご令嬢であることからも、大規模になるのは致し方ないことであった。
「ありがとう、母さんが喜んでた」
「いえ、久しぶりにお会いできて嬉しかったです」
昼間の延長だろう。敬語に気づき、失敗したと顔に書いてあった。ポーカーフェイスが常だった雪乃だが、この数年ですっかりと抜けていた。他人には相変わらずな対応だが、親しければ親しいほど素がよく出ていた。
「雪乃のドレス姿、楽しみだな」
「ありがとう……匠さんも着るんだよ?」
「あぁー、試着する日はちゃんと参加するよ」
「う、うん?」
「写真撮らないとな」
着せ替え人形と化した事が記憶に新しい。個室は写真を撮るのも自由であり、彼女にこだわりはなくとも、周囲には着飾ることに余念のない面子しかいない。
義理姉の杏奈も春翔のドレス選びに難航したと、呟いていたと思い出す。春翔にはこの三年で息子が生まれ、溺愛っぷりが激しいらしい。歳の離れた妹の溺愛具合からも子供がすきだと想像はつくが、実際に赤子を抱き上げた時は、いつもは厳しい視線が多い社長の瞳も潤んでいたと、秘書がこっそりと教えてくれた程であった。
ソファーに並び、一日の出来事を語り合う。多忙な匠を考慮して僅かな時間になる時もある。というのも、寝落ちしてしまう事があるからだ。きちんとお風呂にも入り、体力の限界を迎えたとも言えるが、実際は耳心地の良い雪乃の声に促されたに過ぎない。
一緒に暮らし始め、改めて多忙さを知った。同じような立場である兄も忙しい合間を縫って、兄妹の交流をしていたと想い浮かぶ。
「ーーーーーーーー匠さん……」
起こすのが忍びない日もあるが、起こさないわけにはいかずそっと肩に触れれば、体が沈む。くみ引かれた雪乃に抵抗する術はない。
「んーーーー、雪乃…………今、何時?」
「十一時ですよ…………ベットに……」
「んーー、そうだな……」
反応はあるが睡魔と戦っているのか、ぎゅっと抱き寄せられたまま離れていく気配はない。できれば良質な睡眠をとってほしい雪乃に対し、匠は彼女こそが原動力と言わんばかりの反応だ。実際に彼女が多忙を極める中の癒しであった。
「…………雪乃、ドレスの試着は必ず参加するから」
「う、うん……今週末だけど……」
「必ずいく」
あまりの即答具合に微笑む愛らしい頬に触れる婚約者の視線は、相変わらず甘さを孕んでいる。
「…………匠さん……無理はしないでね?」
「あぁー」
告げたところで、彼が時間をつくる為に勤しむ事は分かっている。ただ、それでも無理して欲しくないという雪乃の懇願であった。
遠かった日々がずいぶん前の事のように感じる。会えないからこそリモートでやり取りを行なっていた。それがどんなに僅かな時間であっても、ほぼ毎日のように。液晶画面越しに顔が見れなくとも電話の声色だけで分かる事もいつしか増えていった。
だからこそすれ違いの日々は些細なことだと、そう言い聞かせていた。早起きが習慣の雪乃よりも早く家を出て、遅く帰ってくる事もある彼を心配してしまうのは当然のことだろう。
結婚準備に向けて招待客の選定は両家を中心に行われ、大規模になると予想できる。日本に戻ってから忙しい匠がいるのも、全てその為だと簡単に想像がつく。休みを確保する為に、無理をしてまで自分を優先してしまうと、遠距離の間にもそう感じる機会は何度もあった。年度末の決算時期は特に忙しそうで、自分との僅かな時間よりも少しでも長く睡眠時間を確保してほしいと思っていたくらいだ。
ため息を吐きそうになり思わず呑み込む。彼に布団に入るように促され、素直に従えばすぐに微かな寝息が聞こえてきた。
忙しく働く婚約者に自身ができることは少ないと感じずにはいられない。いくら頭脳明晰な彼女であっても、彼の仕事を手伝うわけにはいかないからだ。自身の仕事は趣味の延長線のようなもので苦労した日々もあるが、尽きることはない。次から次へと溢れていき日本に帰ってからも順調そのもので、担当の田中が歓喜したくらいだ。顔出しは今も行っていないが、その人気は凄まじくすぐに重版がかかり、店頭に平積みになる場面を何度となく見かけてきた。夢が現実になった感覚が、書物になる度に感じてきたからこそ迷いもあった。
「…………おやすみなさい……」
そっと囁き、寄り添って眠る。願わくば、彼が無理をしないでいられるような存在になれるようにと。




