16 霧の中
ロイヴァス辺境伯領。『分水嶺』と呼ばれるバイランダー山脈。その中でも特に峻厳なラウダ峡谷に隣接する森。
斜面から夜空を突き刺すように伸びる針葉樹の枝に潜伏者はいた。彼は暗い森を見下ろし、僅かな異変も見逃すまいとした。
「山脈は異常ないようだな」
独り言のように呟くと、彼は偵察のために登っていたポラリス松から滑り降りた。着地の衝撃に折れたあばらが痛むのに顔をしかめる。そして右肩に巻いた血止めの布を直しながら今後の行動を思索した。
「とにかく友軍と合流するのが最優先だな」
地上で待機していた相棒に語りかけると、丸い大きな目が夜闇で光った。
船室で眠りについたキジーは、翌朝早くに目を覚ました。外が妙に明るい気がして船窓から外を見た彼女は、思わず目を擦った。
『オタヴァ』号の周囲は白く霞んでいたのだ。
「おはよう、キジー」
カーテンを開けて隣の寝台から出てきたオーレイリアが外を見て頷いた。
「昨晩は冷えたから、朝日が差して水面から水蒸気が出ているのよ」
辺境伯領の令嬢は着替えを済ませると甲板へ上がっていった。キジーもその後を追う。
甲板に出てみると状況がよく分かった。白い空気は濃密で、隣に停泊する船がおぼろな影にしか見えない。ごくたまに、空から霧を掻き分けるようにして光の筋がこぼれ落ちてくる。
マストの先端も見えない有様では出港などできない。どの船もマストと舳先に灯をともし、衝突を避けるのを第一としていた。
不意に今まで無かった灯りが水面近くに見えた。キジーがびくりとするのにオーレイリアが説明した。
「あれは分岐湾からの船よ」
切り立った崖に突然切れ目が現れるのがクレーモラの特徴だ。その先には町や村があり、この水路を利用して必要物資を輸送している。
新たな船の灯りを見るに充分な距離があるはずだが、『オタヴァ』号の後方が騒がしくなった。
「向こうもはしけを曳いていたようね」
どうやらはしけ同士が接触したようだ。船に衝撃は感じられず、軽度のものだったが。
船長役のヨーセフがオーレイリアに詫びた。
「申し訳ありません、向こうの牽引索と絡まってしまったらしくて」
「仕方ないわ。この霧が晴れないと身動きできないのだし」
そのうち後方の騒ぎも収まってきた。一旦はしけの列を船から切り離すことで牽引索を元通りにできたようだ。
「よかった、霧も晴れてきたし」
ほっとしたようにオーレイリアが言い、キジーも賛同した。
「山霧は慣れてるんですけど、峡湾の霧も凄いですね」
「冷え込む朝に日光がさすとよくある現象みたいね」
気付けば分岐湾からの船は消えていた。別の分岐湾に向かったのだろう。
気温の上昇と共に視界は良好になった。『オタヴァ』号は山脈への峡湾行を再開した。
ソルノクート王国、首都アームンク。早朝の薄闇の中、一人の訪問者がメリルオト侯爵家の門の前で馬車を止めた。
警備の者が誰何したが、御者から返答を得るなり屋敷に駆け込んだ。やがて馬車は丁重に迎え入れられた。
侯爵家当主ウリヤスは知らせを聞き、衣服を整えることすら惜しんでホールに駆けつけた。
「母上!」
豪華なシャンデリアの下に佇む尼僧服の女性はかつてのこの屋敷の女主人、先代侯爵の夫人アンニカだった。
彼女は十数年ぶりの再開となる一人息子に対して冷ややかな声を浴びせた。
「侯爵家当主がそのような見苦しい姿で。使用人に示しがつきませんよ」
「しかし、母上。まさかこうしてここでお会いできるとは……」
涙ぐむ息子に溜め息をつき、追放された元侯爵夫人は慌ててやって来た現侯爵夫人レータに更に厳しい声をかけた。
「お前の噂は僻地の修道院にすら届いたわ。恥を知りなさい」
「でも、お義母様」
さも自分こそ被害者であると言いたげに涙を浮かべる嫁を、姑は視線で威圧した。
「侯爵夫人に必要なのは同情を乞う空涙ではなく、周囲の者を従わせる力。覚えておきなさい。そんなことだからカルヴォネンの傲慢な女たちにしてやられるのよ」
「……はい」
公爵家に掠われるようにして家を出てしまった愛娘と、自分たちを欺きまんまとロイヴァスへと旅立った継娘のことがレータの頭に浮かんだ。
怒りと屈辱を堪える嫁の顔を見て、アンニカは満足げに薄笑いを浮かべた。
「失敗を次の成功の糧にすることね。私の部屋は?」
古参の侍女がメイドを引き連れ、元侯爵夫人の前に恭しく進み出た。
「全て以前のままにしております、奥様」
「案内を」
侍女に先導させ、息子夫婦を率いるようにしてアンニカは屋敷の奥に進んだ。途中、廊下の壁に掛けられた先代侯爵の肖像画を目にし、彼女は昏い怒りを心の奥底で燃えたぎらせた。
クレーモラを進む『オタヴァ』号の航行は順調だった。懸念された妨害工作や攻撃もなく、船は山脈の麓へと進んだ。
これだけ幅が広い峡湾じゃ、攻城用の大砲でもないと砲弾も届かないですよ」
陽気な笑い声と共に語るのは水先案内を務める青年ユッカだ。元々は別の者をアロネン商会が用意していたのだが、前日に酒場の喧嘩で負傷してしまった。そこにクレーモラから戻ってきたばかりの船が寄港し、交渉の末に彼が『オタヴァ』号に乗り込むことになった。
クレーモラは氷河が削ってできた本湾だけでなく、山脈から無数の川と滝が流れ込んで形成されている。特に分岐湾は複雑な迷路のように入り組んでおり、専門の水先案内無しでは安全な航行などできない。
ユッカの案内は的確で、多くのはしけを崖との衝突で失うこともなくバイランダー山脈へと導いてくれた。
「クレーモラの終着点は何があるんですか」
キジーの素朴な質問にも、ユッカは楽しそうに薄水色の目を細めて答えてくれた。
「山脈から移動してきた氷河ですよ。青い氷は綺麗だが、迂闊に近づくと崩落の巻き添えになる。その上流氷も多いから船は氷河の手前の町を終着点にするんですよ」
青い氷という言葉にキジーは目を丸くした。彼女の生まれた村では氷河のある山脈に踏み入れるのは熟練の猟師だけだ。山は恵みをもたらすと共に危険な場所でもあると大人たちに散々言い聞かされてきた。
「手前の町というと、パルボラね」
ロイヴァス家の令嬢オーレイリアが乳姉妹のソニヤに確認した。
「そうです。うちの身内の夫婦が駐留しています」
彼女の親族が船から大山羊に曳かせる荷車へと荷物を移し替える作業に協力してくれる手はずだ。
崖からの風は次第に冷たさを増しており、西方大陸最大の峡湾も次第に幅を狭めつつある。船旅の終焉が近づいている証だ。
やがて、ひときわ強い風が北から吹き付けてきた。クレーモラの源流となる氷河からだ。鏡面のような水は遙か向こうで霞んでいた。ユッカが舳先に立って帆の転桁を命じた。
「右30度!」
船はゆっくりと回頭した。船首は分岐湾に向けられ、崖が急激に狭まってきた。辺境領の人々は無言で武器を手にした。襲撃者に備えるためだ。
日没は早まっているが周囲はまだ明るい。二本マストの船は分岐湾を進んだ。崖の上に目をこらしたキジーは、異常がないことにほっとした。
誰かが前方を指さして叫んだ。
「パルボラだ!」
船と人々と積み荷の上陸地である町が見えてきた。




