15 クレーモラ峡湾
オーレイリアとキジー、ロイヴァスへの輸送部隊が乗船する峡湾船『オタヴァ』号は日
の出と共に出港した。大型のはしけ五隻を曳いての船出はニーメラの港の人々を瞠目させ
た。
「あれ、どこの船だよ」
「ロイヴァス辺境伯のだって聞いたぞ」
「何運ぶんだろ」
ざわざわと噂に興じる人々の間に、船の航路を確認する者がいた。帆船がクレーモラ峡湾にさしかかると、すぐさま伝令用の馬に騎乗し港を後にする。
そのことを知るよしもないキジーは、初めて乗る船からの光景を飽かずに眺めていた。最初は波に揺れる感覚に慣れず気持ち悪くなって甲板でうずくまったのだが、それも長くはなかった。
「クレーモラだ!」
誰かが叫ぶ声に人々が一斉に顔を向ける方角を見ると、そこには未知の光景があった。
港を出てから続いていた切り立つ崖が突然途切れ、恐ろしく幅のある入り江が現れたのだ。
「……あれが、クレーモラ」
ポラリス半島最大最長の峡湾には多くの船が行き交っていた。『オタヴァ』号が峡湾に入っていくと、そこが海とも川とも違うことが実感できた。奥に行くにつれ海からの波は届かなくなり、上流から下流への流れもない。高低差のない水面を進むうち、両岸の崖のみが次第に高さを増していく。
すれ違う船や追い越す船は櫂を装備した小型の帆掛け船がほとんどだった。はしけの群れを率いる『オタヴァ』号は平らな水面に波を刻みながら進んだ。
キジーがひたすら驚いていると、マストの近くで話し声が聞こえた。オーレイリアが水夫に質問しているようだ。
その方に移動すると、辺境領の令嬢はメイドに気付いて声をかけてきた。
「気分はよくなった?」
「はい、何とか」
応えながらキジーはマストを見上げた。『オタヴァ』号は二本マストの船で、マストにはそれぞれ縦帆が張られ、フォアマストから舳先にかけて二枚の三角帆が張られている。少ない人数で操船が可能で逆風でも切り上がりやすいため、半島の沿岸を航行する船に多い帆装様式だ。
崖に挟まれた峡湾クレーモラの風は気まぐれだ。水先案内人は常にマストの小さな旗を視界に入れ、風の変わり目に神経を尖らせている。
「南南西! 転桁!」
彼の合図で操帆手がロープを引き、船を進行方向に導くように帆の向きを変える。その素早さと的確さにキジーは目を瞠った。
「すごいですね」
「訓練の賜物ね」
同様にオーレイリアも感心していた。初めての船旅になる二人の少女は、何とかクレーモラの旅に慣れ始めた。
日が暮れると船は崖の数カ所に作られている停泊所に寄った。峡湾には浅瀬がなく、船はこうした停泊所にとも綱を繋いで夜を過ごす。
小さな桟橋は越冬の荷物を積んだ大小の船で一杯だった。『オタヴァ』号は少し離れた崖に取り付けられた大きな杭にとも綱を結んだ。停泊所には簡易桟橋があり、そこから崖の上までつづら折りの細い階段が刻まれている。
「あれを荷物担いで上がるんですか?」
キジーには人間業に思えないが、人夫たちは慣れた様子で苦もなく階段を上がり下りしていた。
『オタヴァ』号は水と食糧を補給し、ソニヤが人夫に駄賃を与えた。ぺこりと頭を下げた男が素早く彼女に紙片を渡した。ソニヤは平然と船に戻った。
「さあ、食事よ」
キジーの背を押すようにして船内に入る途中、ソニヤはオーレイリアに紙片を手渡した。顔色も変えずに辺境領の令嬢はそれを上着のポケットに収めた。
食後にキジーが甲板に出ると、そこには先客がいた。
「オーリー様?」
呼びかけられたオーレイリアも驚いた顔で自分のメイドを見た。
「キジー、どうしたの? まだ気分が悪い?」
「いえ、ただ、夜のクレーモラはどんなのか見てみたくて」
「…そう」
甲板の荷箱にオーレイリアは腰掛け、キジーに隣に来るよう手招いた。辺境伯の姪孫は空を見上げた。
「王都よりもはっきりと星が見えるわ」
そもそもゆっくりと星空を眺めるような生活をしてこなかったキジーは曖昧に頷いた。北西にひときわ大きく輝く星をオーレイリアは指さした。
「あの星の方向に国境地帯があるのよ。ロイヴァスが、ザハリアス帝国が」
北の大帝国については話でしか知らないキジーには、漠然とした恐怖の対象でしかなかった。オーレイリアは語った。
「お母様はあの帝国についても詳細に研究されていたわ。小さな公国がどうやってあれほど巨大な帝国になっていったか」
そして、星よりも明るく輝く天体へと顔を向けた。『銀月』と呼ばれる大月だ。今夜は真円になっている月を彼女は見上げた。
「聞いたことある? 昔、新たな王が立つと竜が降りてきたのよ。あの銀月から」
メイドの少女は幾分疑わしげに月を見た。
「月から竜が来るんですか?」
「そんな伝説が残っているの。ザハリアスだけでなく、アグロセン、リーリオニア、ローディンにも同じ竜の記録があるとか」
いずれも西方大陸の覇を競った強国揃いだ。キジーはやや不満げに呟いた。
「聞いたことないです。うちが小国だからでしょうか」
オーレイリアは小さく笑った。
「あの国々の名を聞くとそう思ってしまうわね」
そう言って彼女は船内に戻ろうと促した。
「長居すると風邪をひくわ」
戻りかけた令嬢の上着から手帳が落ちた。それを拾ったキジーは裏表紙に落書きのようなものがあるのに気付いた。
「……これ、絵ですか?」
「ああ、小さな頃に書き込んでしまったの。お母様に叱られたわ」
懐かしそうにオーレイリアは拙い絵を眺めた。書き込みの字体は二種類だった。キジーは首をかしげた。
「二人で描いたのですか?」
オーレイリアの手が止まった。どこか哀しげな、葛藤に耐えるような表情が浮かび、彼女は応えた。
「……そうよ。私にロイヴァスを教えてくれた人。必ずあの地で会おうと約束したの」
顔を背けるようにして彼女は続けた。
「だから信じない。死んだなんて」
言葉を失うキジーの先を辺境伯の令嬢は歩いて行った。
同じ星空を見上げる者は国境の向こうにもいた。かなり鬱屈した思いを抱えながら。
「竜でも降りてきそうな満月だな」
帝国陸軍少佐ニキアス・ゼファーの呟きに副官が反応した。
「月の竜の伝説か? もう百年以上になるだろ、西方大陸のどの国にも降臨しなくなって」
「その価値がないという訳か」
「ニキアス」
古くからの友人でもある副官が素早く周囲を見回した。月の竜は新帝の即位を祝うために降りてきた。それが失われたのは無能な皇帝のためだという批判と捉えられかねない発言だ。
心配そうな副官をよそに、ニキアスは天空の月を見上げ続けた。
「竜帝アーケイディウス一世、公私ともにその治世を支えた竜祀院テッサリア・トゥ・メイネス、そして最後の竜セレニウス……、英雄の時代は去り、戦いから名誉も信念も失われ、地上は醜悪な輩が這いずりのたうつばかりか……」
自分たちも間違いなくその中の一匹だと、青年将校は端正な口元を歪めた。
そこに伝令が駆けつけた。副官が受けとった通信文をニキアスに渡した。細かく畳まれた紙を広げ、『風の七候』の子孫は表情を険しくした。
「どうやら、ロウィニアのしぶとさの裏にはローディンの加勢があるようだな」
「ローディンからは遠い国だが」
西方大陸中央部に位置するロウィニアと北洋の島国との共闘に副官は納得いかない様子だった。陸軍少佐は吐き捨てるように言った。
「目障りな我が国の動きをロウィニアに掣肘させると同時に武器資源供与で恩を売り、紛争終結後の利権に食い込む。あの国の常套手段だ」
ニキアス・ゼファーは歩き出した。
「こうなった以上、こちらは脆弱なソルノクートを叩いて戦意消失させ講和に持ち込んで対ロウィニアに戦力集中させる必要がある。早急にだ」
「では…」
「準備が調い次第出撃する」
どれほど困難な命令でも自分たちは従う立場だ。そして必ず成功させねばならない立場でもある。
ザハリアス帝国遊撃隊は夜に紛れて出撃の体制を整えた。




