第13話:呼ばれない名前
名前は、呼ばれなくなった瞬間から、重さを持つ。
夜の中で、名前は、音にならない。
口に出しても、空気に、溶けてしまう。
それでも、胸の奥では、はっきりと、形を持っていた。
こねずみは、自分の名前を、思い出そうとする。
思い出そうとする、というより、探す。
家の中を、歩く。
歩くたびに、床が、わずかに、鳴る。
以前は、鳴らなかった。
音が、戻ってきている。
それが、少し、うれしい。
少しだけ、こわい。
夜のともだちは、離れている。
近くにいないわけではない。
ただ、触れない距離にいる。
名前を、持たない者たちは、名前を、探す者に、近づかない。
それが、この家の、暗黙のルールだった。
こねずみは、壁に、手を当てる。
木の感触が、前より、はっきりしている。
ざらり。
小さな、ささくれ。
触れると、指が、少し、痛む。
その痛みが、胸に、届く。
──これが、名前の、手前。
なぜか、そう思った。
名前は、優しくない。
呼ばれると、返事を、しなければならない。
返事をすると、そこに、立たなければならない。
夜は、立つことを、求めない。
だから、名前は、ここでは、薄くなる。
こねずみは、小さな部屋に、入る。
誰も、使っていない部屋。
使われないまま、忘れられた場所。
床に、白い線が、残っている。
何かを、置いていた跡。
その形が、胸に、引っかかる。
──ここに、わたしが、いた。
確信は、ない。
でも、感覚が、そう言っている。
こねずみは、線の上に、座る。
冷たい。
でも、逃げたくならない。
名前を、呼ばれない、ということは、選ばれない、ということだ。
選ばれないことは、楽だ。
楽すぎて、輪郭が、ぼやける。
こねずみは、自分の耳を、触る。
ちゃんと、そこにある。
しっぽも、ある。
目も、ある。
形は、まだ、残っている。
──でも、この形は、だれのもの?
問いは、答えを、要求しない。
ただ、そこに、落ちる。
ふくろうの気配が、遠くで、動く。
近づかない。
名前は、ふくろうの、仕事ではない。
ふくろうは、境界を、守るだけだ。
こねずみは、目を、閉じる。
閉じると、呼ばれない、自分が、はっきりする。
呼ばれないまま、ここに、いる。
それは、消えていない、ということだ。
消えていないのに、決まっていない。
その状態が、胸に、静かな、不安を、落とす。
不安は、名前の、影だ。
影がある、ということは、光が、ある。
どこかに。
こねずみは、その影を、抱えたまま、部屋を出る。
夜のともだちが、遠くで、動く。
声は、ない。
でも、気配が、問いかけてくる。
──まだ、ここに、いる?
こねずみは、答えない。
答えられない。
答えは、名前と、一緒に、外にある。
夜は、呼ばれない名前を、拒まない。
拒まないからこそ、名前は、重くなる。
その重さを、胸に残したまま、こねずみは、夜の奥へ、歩いていった。
まだ、戻る、という言葉は、口に、ならない。
でも、呼ばれない名前は、確かに、ここにあった。




