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後編

「……昌巳くん」


 改札を出るなり、名を呼ばれて俺の心臓ははねあがった。


「……翠ちゃん」


 そこにいたのは、まぎれもなく翠ちゃんだった。

 肩につくくらいで切りそろえた髪、抜けるように白い肌、ほっそりとした輪郭……俺の記憶にあるよりもずっとずっと綺麗になった翠ちゃんがそこにいた。


「久し振り」


 翠ちゃんは嬉しそうに笑顔を浮かべる。

 淡い水色のダッフルコートがよく似合っていた。


「……うん、久し振り」


 俺も笑顔を浮かべた。


(……会いたくなかった……)


 少しぎこちなかったかもしれないけど、でも思っていたよりはずっとうまく笑えた。


「わざわざ迎えに来なくても良かったのに……」


(……でも、ずっと会いたかった……) 


「でも昌巳くん、今の家、まだ2回目でしょ。父も心配してたし……」


 私も心配だったからと翠ちゃんは柔らかく笑った。

 祖父ちゃんには悪いけど、でも、今この瞬間でさえ、俺の中には祖父ちゃんのことなんかほとんどなかった。

 ただ、目の前の翠ちゃんの姿だけを、目が、追う。


「ちち?」


 そして、耳慣れない単語を聞き返した。


「……ああ、パパのこと。『父』って呼ぶようにしてるの」

「祖父ちゃんのことを?」


 俺たちが今のように離れてしまう以前、翠ちゃんは祖父ちゃんのことを『パパ』と呼ぶようになっていたはずだ。


「うん。最初は『パパ』って呼んでいたんだけど、一度、援助交際と間違えられたことがあってね……それ以来……」


 何とも言えぬ表情で翠ちゃんは溜息をつく。


「……そうなんだ」


 ご愁傷様と付け加えた。それ以上、何と言っていいものかわからない。


「父が悪いんだよ。もういい年齢のくせに、いろいろ噂を振りまくからさ」


 むぅっと唇を尖らせる。


「……うちの父さんも激怒してたけどさ」

「私だって怒ったよ。だって、あの日、私の誕生日だったんだよ。それをすっぽかして美人女優とデートなんだから……あの日、おめでとうって言ってくれたの昌巳くんだけなんだから」

「……俺だけ?」

「そっ。昌巳くんのメールだけ」

「なんで?友達とか知らないの?」

「ううん。みんな、私が2月28日生まれだと思ってるの。だから、前の日にプレゼントとかおめでとうメールとかいっぱいもらったんだけどね」

「……ふ~ん」


 翠ちゃんは閏年の2月29日生まれ。4年に1回しか誕生日が来なくて不公平だと小さな頃に泣いたことがある。4年に1度じゃ都合が悪いから、お祝いはいつも28日にするのが決まりだった。

 でも、「お誕生日おめでとう」は1日の0時に言うのが、祖父ちゃんの作った翠ちゃんルールなのだ。


「昌巳くんのメールは、0時ちょうどに着いたの。28日と1日の間にね。だから、本当の誕生日におめでとうってくれたのは、昌巳くんだけ。父は美人女優とデートで忘れてたってわけ……まったく、父親の風上にも置けないんだから」


 翠ちゃんは呆れたような口調で淡々と言葉を継ぐ。祖父ちゃんはさぞやりこめられたに違いない。暴発はしないし、癇癪を起こしたりもしないし、感情的にもならない代わりに、翠ちゃんが怒るときはとっても怖いのだ。


 バスを降りるとおぼろげに見たことのある場所に着く。

 どこか、懐かしいと感じさせるこの風景は、たぶん、日本人が心の中に持つ原風景の一つなのだと祖父ちゃんが言ったことがある。

 その時は何のことかよくわからなかったけれど、今ならば何となくわかる。

 俺はここで生まれ育ったわけじゃないけど、きっと『故郷』と言われたら、この風景を思い出すだろう。


「あ、お米屋さんに寄ってくれる?」


 翠ちゃんに歩調を合わせながら、祖父ちゃんの工房への道を辿る。祖父ちゃんの工房は、昔のどこかの豪農の家を移築したという築百年になるという建物で敷地も広い。高い建物がほとんどないせいか、ここからもその屋根が見える。


「いいけど、お米買うの?」

「うん、餅米。せっかく昌巳くんが来るんだからお餅つきしようって、父が言い出して……もう、注文はしてあるの。本当はお弟子さんが取りに来るって言ってたんだけど、大掃除で忙しそうだから私が行くって言ったの。ちょうど昌巳くんが来るから迎えに行くつもりだったし……」

「餅つき?」

「うん。昌巳くん来るのを待ってたんだよ」


 昔ながらの商店街の中の一軒に翠ちゃんは入っていく。

 店番の女の子と一言二言言葉を交わした翠ちゃんは、手ぶらのまま出てきた。


「餅米は?」

「父が自分で取りに来たって」

「祖父ちゃんが?」

「……うん。張り切りすぎて、ぎっくり腰とかにならなければいいんだけど……」


 ふぅっと小さく溜息をつく。

 確かにその恐れは多分にあるな。


「……翠ちゃん、高校は地元の高校に行ってるんだっけ?」


 さりげない口調で翠ちゃんの近況を尋ねた。

 俺はずっと翠ちゃんのことを聞かないようにしていたので、あまり知らないのだ。


「うん。普通の公立高校。東慶みたいに部活とかも強いとこないの。県大会ならイイ線いくんだけど……あ、でも、ちょっと自慢できることあったな」

「何?」

「来年、Jリーガーが二人も出るんだ。……地元だけど」

「磐田?」


 ここの地元のサッカーチームなら、磐田のはずだ。


「うん。山丘先輩と小野田先輩って言うの。元々、ユースでやってたっていう人達なんだけど……知ってる?」

「……名前だけは聞いたことがあるかも」

「せーじくんから?」


 翠ちゃんが軽く首を傾げる。


「うん。……よく覚えてたね、誠二のことなんか」

「忘れようったって忘れられないよ。強烈だったもん」


 翠ちゃんは一度だけ、俺の親友である神原誠二に会ったことがある。中等部の時に、誠二が我が家に遊びに来たことがあって、ちょうど翠ちゃんも来ていたのだ。それに、学校でも何度も姿を見かけたり、噂を聞いたりしたことがあっただろう。


「……確かにね」


 誠二の個性は、ありとあらゆる意味で強烈だ。あの時も確か何かやらかしたはずだ。


「今でも同室なの?」

「……クサレ縁でね」


 俺は溜息をつく。どういうわけか俺は、周囲から誠二のお守役だとみなされているのだ。


「年とったら、父みたいな老人になりそうだよね、せーじくんは」

「……最悪」


 俺のその時の表情に、翠ちゃんはおかしそうにくすくすと笑った。

 その笑みに、どきりと心臓が大きく鳴る。

 俺は、唇を噛んだ。

 どうしようもなくやりきれない気持ちが胸を満たす。


「……昌巳くん?」


 翠ちゃんが不思議そうな表情で俺の顔をのぞき込む。

「何でもない……」


 俺は笑顔を浮かべて見せた。

 そうしないと、泣き出してしまいそうな気分だったからだ。




□□□




「万事予想通りって言うか何て言うか、まったく期待を裏切らないよね、うちの父は……」


 ピアノの椅子に座った翠ちゃんは深々と溜息をつく。

 翠ちゃんのピアノは、国産の手作りのピアノだ。何事にも凝り性の気のある祖父ちゃんが、翠ちゃんにピアノを買い与える時に翠ちゃんを連れてさんざん楽器店を回った結果、翠ちゃんが気に入ったのがこのピアノだった。メーカー品の俺のピアノと違って、どこか不思議な音色を響かせる。


「……そうだね」


 俺たちが恐れていた通り、はりきり過ぎた祖父ちゃんはしっかりぎっくり腰になった。

往診のお医者さんからは年寄りの冷や水だとさんざんからかわれた。

 祖父ちゃんは奥でうんうん唸ってるけど、翠ちゃんはしらんぷりだ。

 まあ、あれだけやめろって言われてて、このザマだから翠ちゃんが呆れるのもわかるけど。


「大丈夫かな?」

「お弟子さんがついてるから、大丈夫でしょ」


 この家には離れに住んでいる住み込みのお弟子さんが2人と、あと運転手の旦那さんと一緒に別棟に住み込んでいる家政婦さんがいる。看病の人手は充分に足りているだろう。祖父ちゃんは、「翠が足りない」って絶対に言っているだろうけど。


「こっちに、随分、馴染んでるんだね」


 往診のお医者さんもそうだったけど、さっきお裾分けだと言ってお餅を届けに行った隣近所の家も、みんな翠ちゃんのことを知っていた。まるで自分の娘か孫のように翠ちゃんに接していて、俺は随分と驚いた。うちの方は古い住宅地だからわりとご近所づきあいをしている地域だと思うけど、でもここの方がやっぱり、濃いというか濃密な感じがする。


「父の地元だもん。さっきのお医者さんは、父の親友の息子さんだよ。……知らなかった?」

「……うん」


 初耳だった。あんまり祖父ちゃんと馬の合わない父さんは、祖父ちゃんのことをあまり話さないからな……。

 あそこの……と翠ちゃんは周囲とはちょっと不釣合いな洋風デコレーションの家を指差す。


「あの家が建ってたところに、去年まで、おばあさんがやっていた駄菓子屋さんがあったんだ。そのおばあさんがお祖父ちゃんの初恋の人だったんだって」

「へえ……」

「その人の名前が『翠』なの。だから父は、私の名前を『翠』ってつけたんだって」


 翠ちゃんは、穏やかに微笑んだ。

 俺は、こういう翠ちゃんの表情がすごく好きだった。

 見ているだけで、自分の気持ちが穏やかになるから。


「好きで好きでしょうがなかったけど、でも、結婚できなかったんだって」

「……なんで?」

「身分違い。お祖父ちゃんは商家の三男坊で、その人のおうちは元士族だったんだって」

「身分違いって……」


 今時、それはないだろうと思った。でも、祖父ちゃんが若かった頃を考えたら、案外そういうのがあったのかもしれない。このあたりは田舎だし、古い因習とかが未だに残っていそうだから。


「駄菓子屋さんに行くだけなのに、いそいそ着替える父を見ていっそ感心したよ」

「さすが祖父ちゃん……」

「でしょ。そのおばあさんもすごく品の良い人でね……優しい人だった。よくオマケしてもらったんだ。駅前のコンビニのお菓子とかよりずっと好きだったんだけど、引っ越してきて半年くらいしてかな……駄菓子屋さんを畳んで東京の息子さんのところに行っちゃったの。あの時の父は、しょんぼりしてて見てられなかったよ」

「祖父ちゃん、求婚とかすればよかったのに」

「ママに求婚する時に、『おまえが最後の妻だ』って約束したんだって。ヘンなとこ律儀なんだから……」


 笑いながら、でも、翠ちゃんは嬉しそうだった。


「……それに、初恋の人は特別なんだって」


 祖父ちゃんの初恋か……想像もつかないな。


「……初恋の人は、特別……か……」


 俺はぽつりと呟く。

 翠ちゃんの肩が小さく震えた。


「『特別』、だよ」


 消え入りそうに小さな小さな声。


「……俺も、『特別』だよ」


 顔を伏せた翠ちゃんのその横顔を見つめる。


「ずっと、『特別』だよ」


 俺はもう一度言った。

 翠ちゃんが、きゅっと唇を噛み締めた。

 俺も唇を噛み締める。

 何かが溢れ出しそうで、それを堪えるのがひどく難しかった。


「……何か、弾こうか?」

 

 翠ちゃんは、何かを振り切るようにして顔をあげる。

 そのまっすぐな眼差しに、俺は感歎すら覚える。

 そして同時にそれは、感傷的な……哀しみにも似た感情を呼び覚ました。


「……ソナチネ」


 胸の中で渦巻く嵐を呑み込むようにして、そのタイトルを口にする。


「うん」


 翠ちゃんはゆっくりとピアノの蓋を開けた。鍵盤はピカピカに磨かれていて、翠ちゃんが今でも大切に弾いていることがよくわかった。

 目を閉じて手をポジションに置く。サッカー一本にしぼったとはいえ、今でも趣味では弾く。それに、一緒に何度も何度も練習を繰り返した曲だったから、楽譜はいらなかった。今でも楽譜なしで弾ける自信がある。

 繊細な音色が、そっと溢れ出す。


(……好きだよ……)


 口にすることのできなくなった想いが、胸の中に淀む。

 そして、決してそれを言葉にしない為に、俺はラヴェルらしい儚さと物哀しさに満ちた空気の中で深く息を吸った。



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