後編・・・・・繰り返しなのは部屋ではない
音がした。二時十七分、押入れの方から硬い音。
亘一は今度は逃げなかった。布団を剥いで立ち上がり、暗い廊下を歩いた。足の裏にフローリングの冷たさが伝わった。
押入れの前に立ち引き戸に手をかけて、中を覗いても何もなかった。ただ、奥の壁の隅に鉛筆が落ちていた。
亘一はそれを拾った。古びた鉛筆で、芯は折れてなく、誰かが丁寧に削った跡が残っていた。
亘一は鉛筆を持ったまま机に戻った。ノートを開き、最後のページを見つめ、名前の下には、余白があった。
亘一は書こうとしたが、やめた。繰り返す気がしたからだ。
亘一はノートを持って不動産やへ向かった。
担当者は困惑した顔で、応えた。
「前の入居者の方ですか? お名前は個人情報なので言えませんが・・・」
亘一がノートを見せると担当者は絶句した。
「これうちでは把握していないんですが」と言った。
「前の方は女性でした」
女性?。亘一はノートの文字を思い出した。筆圧の強い几帳面な字。性別を特定できる筆跡ではなかった。
「その前の方は?」
担当者は少し考えてから奥の資料を引っ張りだした。
「その前は男性の方」
担当者が口にした名前は相沢亘一ではなかった。亘一はお礼を言って店を出た。
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その夜夢を見た。いつもの四畳半・ちゃぶ台・窓の外の夜。
でも今回は違った。
ちゃぶ台の上にノートがあった。夢の中の亘一は、それを開いた。文字が並んでいた。
しかし読もうとすると文字が滲んで読めなかった。
壁の傷を見た。浅く細い。指先が壁の傷に触れた瞬間、声がした。
「また、来たね」
誰の声かわからなかった。亘一は振り返ったけど誰もいなかった。でも声は続けた。
「ここから出ようとしなくていい、ここは覚えておくための場所だ」と言い残し聞こえなくなった。
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目が覚めたのは二時十七分。亘一は天井を見上げながら、夢の中の言葉を繰り返した。
何を覚えておくのか?
、
亘一はゆっくり起き上がり、ノートを手に取った。最初のページから
もう一度書いた人の気持ちを想像して読んだ
書いた人は怖かったと思う。最後に選んだのは、逃げることでも、叫ぶことでもなく、書くことだった。
次の自分に、渡すために。
亘一は、ノートの最後のページを開き、自分の名前の余白を見た。そして、書いた。
《においがする/傷がある/音がする/夢を見る》それだけ。
繰り返す、覚えていられなくても、ここに書けばいい。次の自分へ
【相沢亘一】と。
次の朝、会社から電話が来た。
「相沢君、また事例が出たよ」上司の声はいつもと同じだった。
「今度は仙台だ、来月になるけど、伝達まで」
亘一は窓の外を見た。大阪の朝が光の中に広がっていた。見知らぬ街、いつかみたような街。
「わかりました」返事をした。
仙台の部屋の洗面所に傷があることは、もう、分かっていた。
夜中の二時十七分に音・夢を見ることも・・・。
電話を切った後、押入れを開け、ノートを奥にしまった。
次の住人のために、次の自分のために。
亘一は玄関のドアを開け、朝の空気を吸い込んだ。誰のものでもない空気。
ん・・っ、自分の空気、ここにいた自分の…空気。
扉を閉め、また新しい部屋へ向かうために。
最後まで拝読ありがとうございました。
じゅラン 椿




