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後編・・・・・繰り返しなのは部屋ではない

音がした。二時十七分、押入れの方から硬い音。

亘一は今度は逃げなかった。布団を剥いで立ち上がり、暗い廊下を歩いた。足の裏にフローリングの冷たさが伝わった。


 押入れの前に立ち引き戸に手をかけて、中を覗いても何もなかった。ただ、奥の壁の隅に鉛筆が落ちていた。

亘一はそれを拾った。古びた鉛筆で、芯は折れてなく、誰かが丁寧に削った跡が残っていた。


亘一は鉛筆を持ったまま机に戻った。ノートを開き、最後のページを見つめ、名前の下には、余白があった。


亘一は書こうとしたが、やめた。繰り返す気がしたからだ。


亘一はノートを持って不動産やへ向かった。

 担当者は困惑した顔で、応えた。

 「前の入居者の方ですか? お名前は個人情報なので言えませんが・・・」

亘一がノートを見せると担当者は絶句した。


 「これうちでは把握していないんですが」と言った。

 「前の方は女性でした」


女性?。亘一はノートの文字を思い出した。筆圧の強い几帳面な字。性別を特定できる筆跡ではなかった。


 「その前の方は?」

担当者は少し考えてから奥の資料を引っ張りだした。

 「その前は男性の方」

担当者が口にした名前は相沢亘一ではなかった。亘一はお礼を言って店を出た。


♢ ♦ ♢ ♦ ♢ ♦ ♢ ♦ ♢ ♦ ♢ ♦

その夜夢を見た。いつもの四畳半・ちゃぶ台・窓の外の夜。

でも今回は違った。


 ちゃぶ台の上にノートがあった。夢の中の亘一は、それを開いた。文字が並んでいた。

 しかし読もうとすると文字が滲んで読めなかった。


壁の傷を見た。浅く細い。指先が壁の傷に触れた瞬間、声がした。

 「また、来たね」

誰の声かわからなかった。亘一は振り返ったけど誰もいなかった。でも声は続けた。

 「ここから出ようとしなくていい、ここは覚えておくための場所だ」と言い残し聞こえなくなった。


♢ ♦ ♢ ♦ ♢ ♦ ♢ ♦ ♢ ♦ ♢ ♦


目が覚めたのは二時十七分。亘一は天井を見上げながら、夢の中の言葉を繰り返した。

 何を覚えておくのか?


亘一はゆっくり起き上がり、ノートを手に取った。最初のページから

もう一度書いた人の気持ちを想像して読んだ


書いた人は怖かったと思う。最後に選んだのは、逃げることでも、叫ぶことでもなく、書くことだった。

次の自分に、渡すために。


 亘一は、ノートの最後のページを開き、自分の名前の余白を見た。そして、書いた。

《においがする/傷がある/音がする/夢を見る》それだけ。


繰り返す、覚えていられなくても、ここに書けばいい。次の自分へ

【相沢亘一】と。





次の朝、会社から電話が来た。

 「相沢君、また事例が出たよ」上司の声はいつもと同じだった。

 「今度は仙台だ、来月になるけど、伝達まで」


 亘一は窓の外を見た。大阪の朝が光の中に広がっていた。見知らぬ街、いつかみたような街。


 「わかりました」返事をした。


仙台の部屋の洗面所に傷があることは、もう、分かっていた。

夜中の二時十七分に音・夢を見ることも・・・。


 電話を切った後、押入れを開け、ノートを奥にしまった。

次の住人のために、次の自分のために。

亘一は玄関のドアを開け、朝の空気を吸い込んだ。誰のものでもない空気。


ん・・っ、自分の空気、ここにいた自分の…空気。



 扉を閉め、また新しい部屋へ向かうために。




 


最後まで拝読ありがとうございました。


じゅラン 椿

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