前編・・・・・においと傷と音
新しい部屋は、いつも同じにおいがした。築年数も、間取りも、街も違うはずなのに・・・。それでも玄関のカギを差し込んだ瞬間、相沢亘一の鼻を通るのは決まって同じ空気だった。空っぽの後の乾いたにおい。
生活感をかすかに漂わせながらも、すでに誰のモノでもなくなった部屋の匂いだ。
三十四歳になるまでに、相沢は十二回引っ越しをした。それは会社の都合で。
"亘一君ひとり身だから"という上司の気安い言葉と共に辞令が届き、その度に相沢は、段ボール箱を積み上げ、知らない街へ向かった。
どこへ行っても、似たような部屋だと思い込んでいた。
最初に気づいたのは、三年前の事。仙台から福岡へ移ったときだった。洗面所の壁、ドアから二十センチほどの位置に小さな傷があった。釘か何かでひっかいたような、浅くて細い傷。
"前の入居者だろう"と思い、それ切り、気にも留めなかった。
ところが次の赴任先、札幌のアパートでも、同じ位置に同じ傷があった。
偶然だと思った。築真市でも、壁の傷はあったのだ。
その時はさすがに、壁に触れながら、笑ってしまった。ラッキーな事なのかってね。
世間の人間はみんな洗面所の脇が気になるのだろうか?そうひとり、解釈してやがて忘れていった。
音に気付いたのは、築真市を離れる直前の事だった。
午前二時十七分。目が覚めると、どこかで小さな音がする。硬いものが床を叩くような音。ねずみかと思ったが、違う気がして、起き上がって耳を澄ませると、音はすでに止んでしまった。
引っ越しまでの10日間ほど、毎夜二時十七分に目を覚まして、音を耳にし、音の出どころは結局不明のままで、退居したのだ。
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新しい街、神戸でも、あの時刻、二時十七分に目が覚める。その後、怖くて時計の確認するのをやめた。
夢を見るようになったのは、神戸に来てからだ。
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夢の中で亘一は、いつも知らない部屋にいた。殺風景な四畳半、窓の外は夜で、街の灯りがぼんやりと滲んでいた。部屋の隅にちゃぶ台があり、亘一はそこに座り、何かを待っていた。ただじーっと・・・。
正面の壁を見つめ、壁には傷があり、夢の中の亘一は、ずっと傷を見ていた。
やがて遠くで音が規則的に聞こえてきた瞬間、目が覚めた。
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時刻は【二時十七分】だった。
今の部屋は坂倉市だ。引き渡しの時、不動産の担当者は愛想よく、言った。
「前の方は三年生活されておりました」亘一は頷きながら、洗面所を確認した。傷はあった。荷物をほどきながら、亘一は笑えない気持ちになってい
傷がつきやすい素材が業界の基準なのか?同じ同じ時刻に目が覚める現象は不安の予告なのだろうか?
段ボールをほどいていると、押入れの奥の古いノートが、目に留まった。
前住人の忘れ物だろう・・・、表紙は黒く、何も書かれていない。捨てる前に何となく開いたページに、書かれていたのは、
----------この部屋は変わらない----------
筆圧の強い几帳面な文字だった。亘一は次のページを開いた。
----------どこへ行っても、部屋の匂いは同じ、傷・音・夢も----------
なぜか、分かっていた。でも認めたくなかった。ページをめくるたび、文字は続いた。それは日記でもなく、記録にも、該当しないような・・・・。
誰かの頭の中にあることを吐き出すように書いた、断片的な言葉の羅列。
----------調べたのは十回以上、引っ越しも十回以上----------
亘一の手が止まった。
----------洗面所の壁、ドアから二十センチ付近、福岡・築真市・坂倉市--------
ページをめくるたび、手が震える。
最後のページを開いた。そこには名前が書かれていた。
"相沢亘一"と。
亘一はノートを閉じた、窓の外で坂倉市の夜が深まっていた。
二時十四分。
今夜だけは確かめるのをやめようと思った。




